母と息子
ディミトリオス・テミス
城の別棟にある自室に戻った瞬間、その気配に気が付いた。
「ディマ」
ミランダ・テミスが夕闇の部屋の中、灯りもつけずに椅子に座って待っていたのだ。
「あなたは部屋に鍵をかけた方がいいわ」
別に部屋の中に盗られて困るようなものもなく、鍵などかける習慣がなかった。
「何か用ですか、お母様」
側に寄りながら尋ねると、静かに、彼女は言った。
「ディマ、婚約なさい」
「嫌です」
きっぱりと答える。
「それが用件なら、以前にも断ったはずです。僕は誰とも婚約する気はありません。用はそれだけですか?」
帝都に戻った最初の週に、ミランダに婚約を勧められたが、今と同じく即座に断った。それ以来話題はなかったはずだが、別の縁談でも見つかったのだろうか。
しかしミランダの本意は別のところにあるようだった。
彼女は眉を顰めながら、ディマをじとりと見た。
「さっき城に入ってくる前に、イリスと手を繋いでいたでしょう。お母様は見ましたからね」
立ったまま腕を組み、ディマは答えた。
「それが何だって言うんです。彼女は歩き疲れていたし、手ぐらい繋ぎますよ」
ミランダは、頭痛を和らげるかのようにこめかみを揉んだ。
「イリスは立派に役割を果たしているわ。あの子は四六時中、見張られています。あの子の行動を、誰もが監視しているのよ。
世界中からあの子に謁見を願う者が現れて、可能な限り、あの子は会っている。だから多忙で、夜は泥のように眠っています」
「分かっていますよ」
どうにかその多忙を終わらせたいと、ディマも思っているのだから。
つまり、とミランダは言った。
「気持ちはわかるけれど、あまりがっつかないで。イリスは受け入れているけれど、兄妹として育ったから、警戒心を抱いていないだけです。あなたがイリスに向ける目はそれはそれは情熱的ですよ。獲物を見る飢えた猛獣のようです。欲望を抱いていないと言い切れますか?」
当然情熱的だろうし、当たり前に欲望は抱いている。
今日の宿屋でのことを思い出した。イリスの信頼を裏切りかけたのだ。
本心を誤魔化すために、咳払いをしてからディマは言った。
「あの子は十四歳になる年です。まだ子供ですよ」
「わたしは十四で子供を産んだ女性を知っています」
「僕の母は」
言いかけて、ディマは言葉を引っ込める。
「……いえ。僕の人生は、生まれたときから我慢を強いられてきました。僕は会ったその日から、イリスが好きです。欲望を、抱いていないはずがないじゃないですか。
抱き寄せてキスをしたい。その先だってしたいですよ。でも我慢しています。今までと同じように。イリスを困らせるようなことはしない。そのくらい耐えられます」
しかしミランダに納得した様子はなかった。どうしてもディマが、イリスに近寄りすぎているのを阻止したいらしい。心配性のミランダは、ディマから確実な答えをもらわなくては気がすまないのだろう。
「恋心を止められない気持ちはわかるわ。けれどあなたはイリスに距離が近すぎる。兄妹以上の関係ではないかと、噂する人もいるのよ。少し控えられないの?」
「下衆の勘繰りです」
侮蔑を込めてディマは言った。
「単なる下衆の勘ぐりでないことはわたしが知っています。この前、一緒の部屋で寝ていたでしょう?」
ミランダは攻めの手を緩めるつもりはないようだ。ディマは淡々と答えた。
「つい疲れて、寝ただけですよ。本当にただ、並んで寝ただけだ。それに僕はしばらくしたら、ソファーに移動した。一緒の部屋で寝るなんて、子供の頃はしょっちゅうでした。なぜ咎められなくてはならないのですか」
「ねえディマ。もう子供ではないのよ。それにあなたとイリスは似ていない、当然でしょう。血が繋がっていないのだから」
慌ててディマは周囲を見渡した。暗くなった外を覆い隠すようにカーテンは閉められ、扉もきちんと閉められている。廊下にも誰かの気配はないし、秘密を聞かれる心配はないが、ミランダが平然と言ってのけたことに、わずか慄いていた。
「子供の頃、あなたは深刻な顔で、イリスと結婚させて欲しいと、わたしとアレンに言ったわね? わたし達、それもいいかなと考えていました。
あなたとイリスが成長して、二人の心が同じなら、夫婦として領地を受け継いでもらおうかと、真剣に話し合ったんですよ。でももう、状況は違います。あの子は聖女として、現状は皇帝陛下のものですから。あの子は本当によくやっているけれど、敵も多いわ。噂一つで、どのような危機に陥るのか分からない。注意しなくてはならないのですよ。ましてや兄と恋愛関係にあるなんて噂が流れて御覧なさい。どうなるか――」
「分かりましたよ」
ディマは根負けした。
「城の中ではもう、イリスと手は繋がない」
「頬にキスもだめよ」
「それは家族ならするでしょう!」
「あなたの場合、官能的すぎるのよ。禁止します」
官能的って、ディマは冗談かと思い笑いかけるが、ミランダの顔は本気だった。
「城の中でも、外でもね。触れるのを禁止します。密室で二人きりになることもだめです」
「分かりました」
どの道、城の外に出かけてしまえば、何をしているかなどミランダには分からない。
「言っておきますけれども、出かける度にイリスに聞きますからね。あの子はわたしを信頼してくれているもの。何でも話してくれるわ」
ミランダの方が一枚上手らしい。
ぐう、と唸った後で、ディマは承諾した。
「分かった、分かりましたよ。僕は普通の兄として、彼女に恋しているなど微塵も匂わせないようにします。それでいいですか?」
ええ、とミランダはようやく安堵したように微笑んだ。
口約束に意味があると彼女は本当に思っているのだろうかと、不思議に思った後で、ディマは思い至った。彼女もまた、口約束が結べれば、必ずディマは守るだろうという信頼をしてくれているのだということに。
それに気が付いた瞬間、ディマはこの人こそが自分の母親なのだと、心の底からそう思った。
彼女の向かいにようやく座りながら、ディマは語りかけた。
「お母様、僕は、思うんです。小説の中のディミトリオスが皇帝になろうとしていたのがなぜか、分かるような気がするんです。彼が何をどこまで考えていたのかまだ見えない。けれどある程度は同じ道を辿ろうと思います。自分の血筋が、僕は重要だと思う」
ミランダの瞳が揺れた。
「血筋なんて――」
「重要じゃないと思いますか? あなたは僕がアレン・テミスの実子だったら、同じように愛してくださいましたか?」
「なんてことを言うの?」
ミランダは衝撃を受けたような表情をした。同時にひどく悲しげでもあった。
「イリスと似た顔で、そんな表情をしないでください。ずっと前にイリスに言われたんだ。僕に家族を守ってほしいって。僕はあなたも守りたいと思っています。育ててくれた大切な母ですから」
もう少しの辛抱だ。もう少しで、イリスは開放される。
小説の内容に加え、今日のエヴァレットの絵。ディマには、この後どう動けばいいか、明確な道筋が見えていた。
それに、とディマは思う。
(今日、イリスは僕と結婚すると言ってくれた。一緒に生きていきたいって、そう言ってくれたんだ)
飛び上がるほど、嬉しかった。その言葉があれば、どんな苦難にだって耐えられる。
ミランダの目を真っ直ぐに見ながら、ディマは言った。
「僕は我慢します。イリスの迷惑になるようなことはしない。その代わり、全て終わったら、あの子を僕にください。何もかもにカタがついたら、僕はあの子と光の中を生きていきたい。あの子が好きです」
ミランダはもう、否定はしなかった。




