絵の中の彼女
イリス・テミス
その日、以前の会話のとおり、わたしはディマと帝都に出かけることにした。
わたしの見た目は目立ち過ぎるから、別の人に見えるように、魔法で外見を変えていた。誰もわたしを聖女イリスだとは思わないだろう。茶色に変えた髪の毛には、ディマに貰った青色のリボンをつける。
部屋を出ると、ディマが待っていて、わたしを見ると微笑む。
「行こう」
差し出された腕に、そっと手を乗せた。
行き先を誰にも知られたくなくて、馬車を使わずに二人で歩いた。
行きたかったところは、入り組んだ路地裏の先に発見できた。人通りはあまりなく、ひっそりしているその場所に佇むのは、小さな宿屋だった。
「あの! どなたか、いらっしゃいますか?」
入り、声を掛けると、店の奥から老女が出てきた。わたしとディマを一瞥すると、ぶっきらぼうに言った。
「休憩? 泊まり?」
慌てて目的を告げる。
「えっと、ごめんなさい。わたしたち客じゃなくて。ここに十数年前、エヴァレット・ノーマンという方が滞在していませんでしたか? 宮廷画家だった男の人です」
後ろからディマが助け舟を出した。
「僕ら、彼の絵が好きで、ここに彼が滞在していたらしいって噂を聞いて、地方から出てきたんです。もしかしたら彼の描いた絵が残っているんじゃないかって思って」
じっと老女はわたしたちを見た。
「客じゃない人間に、うちで保管している絵を見せるのかい」
絵があるということだろうか。わたしたちは顔を見合わせ、頷き合った。
「休憩で」ディマは即座にそう言った。
エヴァレット・ノーマン。
皇太后サーリが病床でつぶやいた宮廷画家の名前だった。わたしは彼のことを探り始めていた。かつて宮廷にあったという彼が描いた絵は、処刑の際に焼かれてしまって、もう存在していない。
どんな絵を描いた、どんな人物で、サーリやリオンとどのような繋がりがあったのか、確かめたかった。わずかな手がかりがあるのならばと、彼が滞在していた宿屋に来たのだ。
宿屋が判明したのはお母様のおかげだ。かつて侍女だった時代、エヴァレットを宿屋まで呼びに行ったことがあったという。彼女の記憶を手がかりに、いくつか宿屋を探し回っていたのだ。
部屋に通され、絵を持ってくるという老女を待ちながら、ディマはぼんやりと言った。
「宮廷に来てふた月が経とうとしてるけど、ひどい奴らばかりだ。イリスに取り次いでくれと、僕の懐に勝手に金を入れようとする奴さえいたよ」
はあ、と彼はため息を吐く。
「信頼できる奴は誰だろう。イリスに恩を感じていて、いざという時に味方になってくれる人だ。これからアリアが現れて、彼女が聖女となった時、イリスに罪はないと庇ってくれる人は誰だと思う」
小さな部屋で、彼と並んで、ソファー代わりにベッドに座る。一人用の、狭いベッドだった。
「ファブリシオ・フォルセティとルシオ・フォルセティは、信頼できるんじゃないかしら」
いつだって親切なシルワ公爵一族を思いながらそう言った。
「それから、アール・ガモットかしら」
大陸での戦いで将軍に任用した彼は、わたしに大きな感謝を寄せてくれていた。
「それと、ミア・クリステル――彼女は底が知れないけれど、領地と暮らしをほとんど同じような形で守ってあげたわ。わたしに恩があると言えばある」
クリステル家の女傑を思い出す。反乱と侵略の戦いは一段落し、忙しさはあるけれど時間はできた。彼女の言葉についても、調べなくてはならなかった。
考え込むようにディマが動き、ベッドが鈍い音を立てた。
「僕が思うのは、クロード先生と、ヘル総督のタイラー・ガンかな。あの人たちは、戦友のようなものだから、きっと力になってくれる」
そう考えると、結構多い。わたしたちがあがき戦った分だけ、味方が増えていくような気がしていた。
話していると、扉が叩かれる。先ほどの老女が、手に一冊の本を持って戻ってきた。
「彼の持ち物で残っているのはこれだけさ。強い魔法で鍵がかけられて、誰も開けず売り物にもならなかった。今じゃエヴァレット・ノーマンの所持品は貴重だから、汚したら弁償しな」
そう言って去っていく。
老女が出ていった瞬間、わたしは本に魔法をかけた。上書きされた魔法は、本を開かせる。
「日記か?」
「いいえ、スケッチのようだわ」
多くは宮廷の風景や使用人たちの生活だ。
けれどページをめくりながら、困惑した。
進むにつれ、若く、美しい女性の姿ばかりが、描かれているのだと分かった。見覚えのある人。よく知る人だった。
「サーリ様だわ」
ディマも目で追う。
「彼女の絵だらけだ」
描かれている彼女の姿は、今とは違い健康的で、こちらに向かい、優しく慈愛に満ちた表情で笑いかけてきていた。線の柔らかさが、否応無しに、彼女に対する憧れを物語る。
「エヴァレットって奴はサーリに恋でもしてたのか?」
わたしの持つスケッチ帳を、ディマが横からパラパラとめくる。
あるページで指を止めた。
当時の皇帝、セオドアの絵だった。演説の際のものだろうか。正装に身を包み、鋭い眼光で周囲を睨みつけている。単色の絵からは、黄金の瞳は読み取れない。
「僕に、似てる?」
ディマが吐く息が、わたしの耳にかかった。
「ううん。全然。全然似ていないわ」
言ってから笑いかけた。
「だってディマはディマだもの。イリスの大好きなお兄様だわ」
瞬間、彼の目が見開かれたように思えた。
わたしの手に彼の手が重ねられ、ゆっくりと本を閉じられる。
戸惑いながら見上げると、今度は両手で頬を掴まれる。そのままディマはわたしにキスをした。
触れるようなキスだ。再会して以来の、キスだった。
「だめよ」
そっと離れようとしたけれど、腕を捕まれ阻まれる。
「前は許してくれただろ」
抵抗しようと思えば振り払える。魔力はわたしの方が遥かに上だ。けれどそうはしなかった。
「ディマがわたしを好きなのは、一番側にいた女の子で、わたしがあなたよりませていたからだけだわ」
「違う、そんなんじゃない」
言わなきゃ良かったと思った。ディマが傷ついたような表情をしたように見えたからだ。
「イリス、好きだ。本当に好きなんだ。離れていた間、ずっとイリスのことを考えていた。再会してからも、ずっと考えてる。イリスのことだけだ。僕には、イリスしかいない」
もう何度目かの、愛の告白だった。
再び強い力で引き寄せられ、言葉を交わす暇もなく、ベッドに押し倒された。狭いベッドが、ミシミシと軋む。
「ディマ、待って、だめよ!」
止めようと伸ばした手はあっさりと捕まえられ、さっきよりも深いキスがある。ディマの手が、わたしに触れた。
息が、苦しい。
どうしてだろう。
ずっと昔にも、こんなことがあったような気がする。嬉しくて、だけどそれ以上に、心が引き裂かれそうになったことが、あったような気がした。冷たい場所で、わたしは怖くて、何度も泣いていた。
底なしの暗い穴に、突き落とされるような思いがした。この先に進んではだめだ。わたしを恐怖が支配する。無我夢中でもがき、叫んだ。
「いや! やめて、ディマ……お願い、こんなの、いや」
はっと、ディマが息を呑んだ気配がした。
手を掴んでいた力が、徐々に弱くなる。
ディマの両手が、わたしの両頬に流れた涙を拭い去った。
「――ごめん」
のろのろと、ディマはわたしの上から体をどけた。そのまま彼は、ベッドの端に腰掛ける。こちらに背を向けたまま、彼は言った。
「……僕は最低だ」
ディマの声は掠れていた。
「僕の中に怪物がいる。そいつは怒りと憎しみだけを糧に生きているんだ。正体は分かってる。母を無理矢理犯し子供を生ませたあの男の血が、僕の中に流れているんだ。あいつと同じにはなりたくない。なのに、確実の僕の中にいる」
わたしは体を起こし、彼の背を見つめた。
小さな少年の頃、何度も隠れて泣いていた背と、重なる。
悲しみに耐える小さな姿を思い出して、胸がぎゅっと締め付けられた。どうしていいのか分からずに、幼い頃と同じように、彼の震える背中を撫で続けた。
やがて震える声で、ディマは言った。
「イリス、ごめん――。自分の弱さを、血のせいにした。わかってる、僕自身なんだ。イリスがオーランドと一緒に過ごす姿を目にするだけで、僕は、頭が狂ってしまいそうになる。イリスを僕だけのものにしたいと思っている、そんな自分が、恐ろしい。止めてくれて、ありがとう」
ベッドの上に置いたわたしの片手に、熱を持った彼の手が重ねられた。
「もう、しない。もうしないから、嫌いにならないでくれ。僕を……好きだと、言ってくれ」
懇願するかのような口調だった。
ディマの手に、さらにもう片手を重ねる。
「好きよ、ディマ」
ディマの体が、びくりと震えた。
本当に好きよ。あなたと一緒に、生きていきたいって、わたし、そう思ってるの。
手を握りあったまま、ディマの背に、体を預ける。
「ねえディマ。全部、終わったら。そうしたら、故郷に帰ろう。お父様とお母様と、ずっと一緒に暮らすの。
もう誰も傷つけないし、傷つけられないその場所で、わたしたち、結婚して、おじいちゃんと、おばあちゃんになるまで、ずっとずっと一緒に、生きていくのよ――」
うん、うん、と、ディマは何度も頷いた。
宿屋を出る時、老女に本を戻しながら言う。
「ありがとうございました。中は見れませんでしたわ」
エヴァレットの本には、再び魔法で鍵をかけておいた。
「彼はどんな人だったんですか?」
ディマの問いに、老女は淡々と答える。
「可哀想な男さ。芸術家肌と言うか、繊細でね。あれほど弱くて誠実な男もいないだろうが、ルカ・リオンテールはあっけなく殺しちまった」
「処刑されたのは時の皇帝陛下の悪口を言ったせいでしょう? ルカ様が命を奪ったわけではないんじゃないですか?」
ルカのことは特段好きではないけれど、処刑の原因ではないはずで、思いがけず庇ってしまうような口調になった。
けれど老女は首を横に振る。
「表向きはね。だがあの時代、そう言いがかりをつけては、テール家は気に食わない人間を処刑していた。リオンテールに改名してからは、随分と大人しいようだが、今でもルカ・リオンテールは危険な人間さね」
ディマが問いかけた。
「エヴァレット・ノーマンを、ルカ・リオンテールはなぜ邪魔に思ったんです? 彼はただの画家でしょう。政治家じゃない」
「サーリ様に近づきすぎたんだ」
老女はただ、それだけを答えた。
帰途に着きながら、銘々の思いに考えを巡らせていた。ディマとの沈黙は嫌いではなかった。むしろ心地が良いとさえ思える。
城の前の川辺に差し掛かったところで、ディマは言う。
「イリス、また出かけよう」
それからディマは、わたしに顔を近づけた。キスかと思って身構えると、それは額にゆっくりと落ちる。
「口にされるかと思った?」
顔が赤くなるのを感じた。
「冗談だよ」
そう言って、ディマは笑った。
ディマの笑顔が好きだ。悪役になるはずの彼が笑っていると、それだけでこの世界は正しいんだって、そういう風に思えたから。




