番外編:傍観者の独白(後編)
聖女は毎朝大聖堂に向かい、早朝のうちに城に戻った。付き添いに、シルワ公爵家の者が名乗り出ることもあった。その日は俺の役目だった。
聖女専用の馬車に、並んで座る。イリスは目を伏せ、黙っていた。
あまりにも彼女は華奢であり、揺れの一つで押しつぶしてしまいそうだ。あの凶悪なディミトリオスとはまるで似ていなかった。
彼女の瞳に宿るのは、悲哀だ。立場を奪われていく者の、哀愁に思えた。堪らず、話しかけた。
「イリス様。あなたには何もかもある。地位、財産、家柄、才能、知恵、誰もが認める美貌。なのになぜ、そんな顔をなさるのです? 幸福こそあなたにふさわしいものです」
少なくとも、聖女は彼女だ。彼女は顔を上げ、小さく微笑んだ。
「その中のひとつにだって、わたしが望んだものなどありません」
「ではあなたの望みは?」
「森の中で、兄とよくかけっこをしていました」
言ってから、懐かしむように目を細める。
「あの頃は、まだ兄も、わたしを名前で呼んでくれました。今、兄はわたしを、まるで他人のように扱います。兄はわたしをあなた、と呼びます。名前でも、お前でも、君でもなく、あなた、と」
「それが望み? ディミトリオスに名を呼ばれ、かけっこをすることが?」
イリスはまた笑う。
「故郷で家族一緒に暮らすことです。父と、母と、兄がいて――あの美しい領地で過ごした時間だけが、わたしの人生で一番輝いていた日々です。
……この間、兄がわたしのところに来ました。その時にも、ルシオさん、あなたと同じようなことを尋ねましたわ。どうしてそんなに憂鬱そうな顔をしているのだと。だからわたしは答えました。
『幸福でないとならないなんて、決まっているわけではありませんわ』と、そういう風に」
「あいつはなんて?」
「『だが俺は、あなたに幸福でいてほしい』彼は、そう言いました。『あなたはもうすぐ解放される。幸せになれる』そうも言いました。
他人のような眼差しで、他人のような口をきく。それが兄妹でしょうか? 皆、履き違えています。わたしの憂鬱は、新たな聖女様が現れて、地位を脅かされることではありません。兄がわたしを愛してくれないことです」
「ディミトリオスは分かりにくい男です。でもあなたを愛していることだけは、とても分かりやすいですよ」
「では、少しも足りません。彼はもっともっと、わたしを愛さなくてはなりません。四六時中、わたしのことを考えて、朝から晩まで、わたしのことを思う度、愛することしかできないように。他の目的など全て忘れて、わたしで満たされなくてはならないのです。彼にそうやって愛されれば、ようやくわたしの憂鬱は晴れるでしょう」
相変わらず穏やかな表情の彼女だったが、その両手は、膝の上で硬く握りしめられていた。
イリスに付く者とアリアに付く者で、宮廷は二つに割れた。勝利がどちらにあるかなど、明白に思えた。誰しもの脳裏に、きっとよぎったに違いない。信仰の違いで血が流れた、セオドア帝の時代が。
時の為政者に逆らい死にたい者は少ない。実際、聖女がどちらかだったかなど、ローザリアで重要なことではない。どちらに付けば生き延びられるか、それが重要だった。
イリスが聖女として未だ宮廷に置かれているのは、皇帝オーランドがそうしているからにすぎない。
だがそれさえも、変わろうとしていた。
舞踏会で、オーランドが踊るのはアリアだ。宮廷の池を腕を組んで回るのはアリアだ。湖の上、ボートに一緒に乗るのはアリアだ。イリスがいた場所を、アリアが上書きしていった。
極めつけはそう――かつて我が国の聖密卿で、今や教皇となったアグスフェロ・ヘイブンが、アリア・ルトゥムを聖女と発表したことだ。
その時の激震を、今も覚えている。
泣き叫び、悲観し、亡命した者さえいる。エルアリンド・テミスは大聖堂に怒鳴り込み、ヴァリ聖密卿に詰め寄ったようだが、結果は変わらなかった。
ヴァリやネルド=カスタと違い、ヘイブンはその才能というよりは、家柄と駆け引きで聖密卿になり教皇になった人間だ。つまり有力貴族の支持を得て、政治力で伸し上がった奴だった。
だから彼の言葉の重みを推し量ることは難しかったが、客観的な証拠としては、アリアが触れ、聖女の心臓が反応したことがある。
そうなった以上、イリスが発見されたとき、なんらかの手品が使われたのだろうということになった。
阿鼻叫喚の最中の宮廷で、テミス家は捕えられる。思想犯や政治犯が幽閉される塔に閉じ込められ、長い、裁判が始まった。
始めに決着がついたのは、エルアリンド・テミスだった。彼と、彼の近くにいた者達の処刑が速やかに執行された。ミランダ・テミスも同罪で、彼女の首も、塔の横の広場で切り落とされた。
俺が戦慄を覚えたのは、ディミトリオスが母親の処刑にもまるで動じなかったことだ。
「あの女と俺の間に絆などない。情緒不安定なあの女から子供の頃に付けられた傷跡が、今も残っている」
そうとさえ、吐き捨てていた。
最も長引いたのが、イリス自身の裁判だった。聖女となった際、彼女は十歳だった。彼女本人も、自分が聖女であると騙されていたのではないかと、論点はそこだった。
その中で、彼女は自分こそがたった一人の聖女であると、主張し続けた。
「なぜ彼女は罪を認めるんだ!」
ディミトリオスは激昂していた。
何度も塔へ通い、妹の説得を試みた。しかしイリスは主張を譲らない。俺にはそれこそ、彼女が騙され続けている証拠のように考えたが、父を含む国中枢は、ふてぶてしさに映ったらしい。
彼女もまた、死罪が決まった。
日に日にディミトリオスの表情には、焦りが募っていった。
ある日、彼が宮廷の階段から落ちた。ふらつき、魂まで抜けてしまったかのような脱力だった。
一番始めに駆け寄ったのは俺だった。大丈夫かと声をかけると、体を起こし、彼は言った。
「ろ、牢の中で――……」
震える声だった。
「……――あの子と、関係を持った」
慌てて周囲を確認するが、囁きを聞いたのは俺だけだ。治療すると言って、彼を人のいない部屋へと連れ込んだ。
「合意の上だったんだろうな!」
扉を閉めた瞬間、詰め寄った。
確かめずにいられなかったのは、恐らく違うという、暗い予感がしたからだ。ディミトリオスは、やはり掠れる声を出した。
「……いや、違う。俺が強引に。あの子は、抵抗しなかった」
「お前、お前……それは本当にだめだろ‼︎」
殴りたい衝動を抑え込めたのは、彼が見たこともないほど憔悴していたからだ。
「子供ができればいい」
ディミトリオスは両手で頭を抱えた。
「あの子に子供ができれば、俺と共に生きざるを得ない。妊婦には恩赦も与えられる。子供がいれば、あの子だって生きたいと願うはずだ! だろうルシオ……!」
縋り付く彼を、俺は今度こそ殴り飛ばした。
「だとしても間違ってる! 彼女を愛しているのかもしれないが、そんな愛し方はおかしい! お前は最低のクズだ!」
ディミトリオスは椅子にぶつかり、床に転んだ。そのまま顔を上げずに、肩を震わせる。
「……愛し方など分からない。誰が俺に教えてくれた? この体には、あの男の血が流れている。それだけで、吐き気がするんだ。地獄の底へ、あいつが俺を引きずり込むんだ」
初めて見る情けない姿に、苛立ちが募った。
「親のせいにするなよ……! お前の人生はお前の行動の結果だろ! それに、アレン・テミスは勇敢な騎士だったはずだ!」
ディミトリオスは答えない。
「お前を見限る。友情は今日限りだ! 心底軽蔑するよ」
彼に背を向け、扉に手をかける。彼の震える息遣いに、心が裂かれそうだった。踵を返す。
「いや、くそ! 見限れるわけないだろ! 彼女だってお前を愛してる。だが無理矢理なんて二度とするな!」
言うと、俺は彼の胸ぐらを掴んだ。
「うまく立ち回れ、ディミトリオス。イリスを生きたまま手元に残したかったら、慎重に行動しろ。お前は今まで通り、アリアとオーランドを支えるんだ。信頼を得ろ。正攻法で恩赦を勝ち取れ。そのあとすぐ、イリスと一緒に故郷に帰るんだ。彼女がそれを許せばな」
目を伏せたまま、彼は言った。
「できない」
「なぜだ」
「なさねばならないことがある。あの人との約束を――母の悲願を、俺は果たさねばならない」
お前は母親の死に、心一つ動かさなかったじゃないか。そう言いかけて、俺は堪えた。
イリスに会いに行ったのは使命感に駆られたからだった。ディミトリオスは塔へ通うのを止めてしまったから、せめて俺が、彼女の様子を確かめようと思った。
面会は、意外にもすんなりと認められる。かつて鉄格子などなかったその牢には、冷たく固い、それが嵌め込まれていた。彼女は椅子に座っており、俺に気がつくと、いつものように曖昧に笑った。
「兄は、どうしていますか?」
開口一番、彼女はそう言う。どう答えたものかと迷った後で、結局は真実を告げた。
「思い詰めたような表情で、塔を眺めてばかりいます」
「わたしのことを考えていますか?」
「朝から晩まで、あなたのことだけを考えていますよ」
答えると、彼女は安堵の表情を浮かべた。
「兄がわたしのことを考える度に、罪悪感に駆られればいいと、そう思います。わたしを思う度、苦悩し、後悔すればいいのだと、そう思います」
「彼を憎んでいるのですか」
「いいえ、まさか。逆ですわ」
自分でも困惑が顔に出ているのが分かっていた。問いを重ねる前に、彼女は言った。
「あなたにはきっと、お分かりにならない感情でしょう」
鉄格子に手をかけ、俺は言った。
「生きることを考えてください。幸せになろうと、してください。このままではあなたは、あまりに報われないではありませんか!」
イリスは微笑み、首を横に振った。
「わたしは逃げません。どこにも、行きません」
それから彼女は、塔の窓から外を見た。そこにも鉄格子は嵌り、狭い景色だったが、ディミトリオスがいるであろう城が、よく見えた。
「ルシオさん、どうか兄を嫌わないでやってください。わたし実は、今も時々、魔法が戻るんです。兄が来たのは、そんな時でした。わたし、彼に錯乱の魔法をかけました。あの時、兄は酩酊状態でした。ああなるように、わたしが仕向けたのです」
アリアが聖女とされてから、イリスは魔法が使えなくなったとされている。
ディミトリオスに魔法をかけたのが真実なのか、兄を救うための彼女の優しい嘘なのか、俺には分からない。
「なぜ、そんなことを」
「彼がずっと、わたしのことを考えるように。二度と治らない、イリス・テミスという傷を、彼の心に刻み込みたいのです」
「なぜ、俺にそんなことを言うんですか」
イリスは再び俺に顔を向けた。変わらず微笑んでいたが、その片目から、ゆっくりと頬に涙が伝っていた。
「だってあなたは傍観者。ただ、見ているだけでしょう? どうか彼の生き方を、側で見守っていてくださいね」
ディミトリオスはよくやっていた。人前ではいつものように模範的な廷臣を演じ、その裏、酒の量は増えていった。
処刑は明日に迫っていた、そんな折だ。ついに、救いの道が示された。
“イリス・テミスが騙されていたと認めれば、命は助けよう”
それはディミトリオスによるオーランドへの働きかけによるものだろう。あるいは皇帝自身、イリスに思うところがあったためかもしれない。ともかく、彼女もまた騙された被害者なのであれば命までは奪わないと、皇帝は考えていたようだ。
だからイリスを説得しようと、ディミトリオスは塔へと向かった。
向かう彼に、俺は言った。
「昔のような口調で呼びかけるんだ。彼女に、愛する故郷を思い出させろ」
きっと上手くいくはずだと、そう思った。彼女だってディミトリオスを愛している。
塔から戻ったディミトリオスの喜びようは凄まじかった。皮肉めいた性格で人を出し抜き続けた男は、幼子のように笑みを輝かせる。
「イリスは生きると言った! 俺と一緒に、故郷に帰ると。全てが終わったら、彼女と暮らす――暮らせるんだ。ようやく、あの子と! 俺は彼女と生きてやるぞ!」
俺だって嬉しかった。行くところまで行ってしまった兄妹だが、互いを想い合う心だけは、純粋なものだと感じていた。憂いなく、二人が幸せに辿り着くのなら、外野がどうこう言えたことではないではないか。
ディミトリオスは、イリスを救ったつもりだったのだろう。俺もそう、思っていた。
ただ一つ、誤算があったとしたら、イリスの心の内面を、あまりに知らなかったということだ。
――翌日、晴れ渡る空の下、偽の聖女イリス・テミスは無惨に死んだ。
頭を高く掲げ、罪悪感など微塵も帯びず、ありふれた日常の中で祈りを捧げるために聖堂へ向かう姿と寸分も変わらず、胸を張り、真っ直ぐに死へと向かっていった。
彼女の首が切り落とされた瞬間、ディミトリオスは慟哭し、膝から崩れ落ちた。人目も憚らず大泣きし、首に駆け寄り抱きかかえた。
愚かな男だ。哀れで、孤独で、策に溺れた。
彼の腕の中のイリスは、不思議と幸福そうに微笑んでいるように見えた。
だが彼女の死は、長くゆるりと続く破滅への、ほんの始まりに過ぎなかった。
この瞬間から、全ての歯車は狂ってしまった。思えばイリスという少女は、この世界に残された唯一の良心だったのだ。良心を失ったこの世は、闇と血に染まりながら、否応なく地面へと叩きつけられた。
あるいはもしかすると、ディミトリオスが生まれた時から、世界の崩壊は始まっていたのかもしれない。あまりにも輝く一等星は、周囲を巻き込み自滅する他、生き方を知らないのだから。




