番外編:傍観者の独白(前編)
ルシオ・フォルセティの一人称です。
本編とは別の彼らの話。
目的のためなら手段を選ばない男というのが、俺が彼に抱く印象だった。
ディミトリオス・テミスが神学校からローザリア本土へ帰還したのは彼が十七歳の時で、聖女の兄という立場もあり、皇帝の近習となることが決められていた。
目立つような真似はしなかったが、妙に存在感のある男だった。その瞳は、一度でも覗き込めば誰もが彼の魅力にたちまち気がつくような、妖しい光に満ちていた。
それは彼が誰よりも伸し上がってやろうという、強い意思によるものだと、俺は知っている。
彼から妹の話がされたことは一度もなかったが、ディミトリオスが、ほとんど交流のない兄妹の立場を、利用したのは明白だった。
彼はこの五年間、ローザリアに戻ろうとはしなかった。父親は死んでおり、母親は別の貴族の男と再婚している。
彼の家族は破綻していた。ある一面で、孤独な男だった。
彼と話すといつも、冷たい刃を喉元に突きつけられるような、居心地の悪さを覚えていた。だが俺は彼が好きだった。親父から、仲良くせよとの命令がなくとも、結果は同じだっただろう。
彼の光に、引き寄せられた小虫の一匹が俺だ。本土へも共に帰り、城へも一緒に入った。
言った通り、彼と家族は交流がなかった。彼から家族の話を聞いたことも、皆無だった。
だから、妹が実際どんな姿をしているのか、思い描けなかったに違いない。
連れ立って城の敷地内に入った時、人だかりが見えた。兵士や修道者らが、群れを作り誰かを囲んでいる。誰かはすぐに分かった。聖女だ。
ディミトリオスとは違い、俺は神学校にいる時も帰国し、城に出入りしていた。だから度々、見かけた光景だった。
だが彼は、初めてだったに違いない。
案の定、輪の中に彼女はいた。銀髪を風にたなびかせ、白いドレスが妙に似合う。儚げで、たおやかな笑みを浮かべていた。
十五歳のイリス・テミスはその美貌ですら、宮廷の頂点に君臨していると言っても、過言ではなかった。
「ルシオ、あれは誰だ?」
ディミトリオスの声が聞こえ、俺は吹き出しかける。
「誰って、お前の――」
束の間、次の言葉が出てこなかった。
整った美貌、見惚れるほどに美しいイリス。十歳の妹しか知らないディミトリオスは、気づかなかったのだ。惚けた顔で、彼女を見つめる。
「なんという柔らかな声だろう。小鳥の囀りのようじゃないか! ぜひともお近づきになりたい」
俺は彼の頭がぶっ壊れたのかと思った。恋愛的な感情が、この男の中に存在していたとは全く思っていなかった。当然彼も人間で、恋の一つもするのだろうが、彼の性格とあまりに結び付かなかったのだ。
それがまさか、まさか――。
まさしくディミトリオスは、その妹に恋をしたのだ。
それが妹であると彼はすぐに知り、聖女に恋をしただのとは、以後決して口にはしなかった。だが時折、兄妹で話す姿を見かけると、彼が誰に対しても向けない愛情が、その視線と態度に表れていることは感じていた。
ディミトリオスは聡明な男だった。その上頑固で意外にも情熱屋だった。だからすぐに、宮廷のいびつさに気がついた。
誰もが聖女に気に入られようと躍起になっていた。義父であるエルアリンド・テミスへの賄賂は底知れず、しかしそれは聖女になんら恩恵をもたらさなかった。
ディミトリオスの動きは素早かった。エルアリンドに賄賂を渡し聖女を私欲のために利用しようとした貴族数人を、皇帝へと訴えたのだ。エルアリンドの肩身は狭くなっただけで済んだが、賄賂を渡した貴族は爵位を剥奪され、宮廷からも追われることになった。
彼はある場所からは一目置かれ、またある場所からは、疎まれるようになった。俺の父親、ファブリシオ・フォルセティなどは、疎む側に同情的だ。宮廷の力関係が一人の少年によって変わることを、父はよしとしていなかった。
「高く飛べば飛んだだけ、それだけ強く地面に叩きつけられるぞ」
貴族の排斥の後で、俺はそう、彼に言った。だが彼は馬鹿にしたように笑っただけだ。
「落ちるのは愚か者だけさ。俺は上手く飛んでみせる」
「お前はな。確かに綺麗に風に乗るんだろう」
「誰が落ちると言いたいんだ」
「……イリスだ」
聖女の家族が好き勝手にやっていると、噂する者もいた。ディミトリオスは地面に唾を吐き、鋭く俺を睨みつけた。
「まさか。この世で一番守られている人間だ」
「聖女様の政治力を、フォーマルハウト家とリオンテール家は恐れている。彼女やお前の一言で、皇帝は貴族を滅ぼすんだから、当然のことだ。
長く息をしたいんだったら、目立つ行動はするなよ。友からの忠告だ」
こんな言い方では彼を意固地にするだけだとは分かっていたが、それでも言わなくてはならなかった。案の定、ディミトリオスは軽蔑したように俺を見た。
「あれは正当な主張だった」
「そうは思わない奴もいる」
「言いたいことがあるなら言え。俺は忍耐強い方じゃないんだ」
喧嘩を売られ、黙っているほど俺も忍耐強くはない。
「なら言うが、お前がイリスに優しくするのは、放っておいたという彼女への罪悪感があるからだ。情に流される奴は、宮廷で殺されるだけだ。聖女に寄りすぎるな。彼女は危険だ」
「ではイリスが生きたまま食い散らかされるのを、黙って見ていろというのか!」
黙って見ているべきだ。
出世したいなら、そうすべきだ。
ディミトリオスが俺の胸ぐらを掴んだが、やりたいようにさせていた。
ディミトリオスの瞳には、暗い炎が揺らめいた。羽虫はいとも容易く燃えるだろう。
恐ろしい目だと思う。まるで彼を満たす命全てが目に宿っているかのような強さだ。
彼の底知れなさは、そういった点にあった。廷臣ぶって仮面をつけ、誰もが感嘆のため息をつく笑みを浮かべている時よりも、怒りを剥き出しにし、獅子の如く敵を貪り食おうとしている時の方が、彼は周囲を魅了していた。
告白すると、俺はこの男が心底恐ろしかった。いつか自分ごと、その炎で焼き尽くしてしまうのではないかと、思っていたからだ。
やがて彼は手を離し、絞り出すかのような声を出した。
「……時間が、ないんだ」
それが誰にとっての時間なのか、ついぞ俺は知ることはなかった。
ディミトリオスが頭角を現すに連れ、宮廷の均衡は徐々に崩れていった。
今思えば、彼の運命が決定的になったのは、その娘を発見した時だろう。
帝都郊外に住む少女。美しく、後に分かるが野心に溢れていたその少女は、さながら性別の違うディミトリオスを見ているかのようだった。
これもまた、今、思えばだが。その少女――アリア・ルトゥムの台頭は、様子が少し、おかしかった。あまりにも出来すぎた、ディミトリオスとの出会い。あまりにも出来すぎた、彼女の活躍。あまりにも出来すぎた、皇帝との恋。彼女の物語は完璧すぎた。美しい舞台の、観客は世界だ。
まるで大いなる意思が、働いているかのようだった。
イリス・テミスが負けた戦いを、アリア・ルトゥムは補填した。アリアの魔力は聖女を凌いでいるのではないかと言われた。
瞬く間に、イリスの存在感は、薄れていった。
俺が最も理解できなかったことは、ディミトリオスがアリアを推していたことだ。イリスが孤独を深めても、ディミトリオスは意に介さない。
宮廷では、彼がアリアに恋をしているのではないかと囁かれていた。
ディミトリオスはますます高みへと昇って行った。役職も地位も与えられ、オーランドのお気に入りの一人となっていた。イリスよりも、ディミトリオスの方が皇帝に近いと言われたくらいだ。
同時にアリアも、存在感を増していった。
彼女こそ聖女なのではないかという、噂がまことしやかに交わされた。
リオンテール家とフォルセティ家は、アリアを支持した。
ローザリア帝国最大の貴族がアリアに付いた。多くの人間は追従した。日に日に、イリスの周囲から人は減っていった。
混乱極まる宮廷の中で、ただ一人、飄々としている男がいた。我が友、ディミトリオスだった。
彼を見つけたのは城の庭で、木に寄りかかり城を見ていた。どこを見ているのかと思えば、イリスが使っていた部屋で、今はアリアが住むその場所だ。俺が不気味に思ったのは、彼が薄く笑みを浮かべていたことだった。
「お前、何笑っているんだ」
近づき問うと、彼は視線を俺へと移す。果てしなく輝く黄金の闇が、その瞳に煌めいた。
「自分の考えが、ここまで上手く嵌るとは思ってもいなかった。ルカ・リオンテールを、俺は出し抜いているぞ」
俺は困惑を隠せない。
「馬鹿を言え。テミス家は沈没寸前の船だ。やられっぱなしなのはお前達、テミス家の方だぞ」
「テミス家など重要ではない。重要なのはイリスだ。よく見ていろよルシオ。今にあの子は聖女でなくなる。アリアが聖女になるだろう」
彼の表情を見て、やっと気がついた。彼の中から、恋の情熱が去ったわけでないということに。
だが内容は意味不明だ。彼は本当に狂ってしまったのだろうとさえ思った。
「ならますます馬鹿だ。彼女は窮地に立たされる。アリアが聖女になったらイリスは追放だ。彼女の栄華はここで終わる。いや、追放なら優しい方だ。エルアリンド・テミスの所業に反感を抱いている奴らも多い。だとしたら――」
最悪、命を奪われる。
「イリスは、死なない」
ディミトリオスはくっくと笑う。
「地に堕ちるのはアリアだ。ざまあみろ」
そう吐き捨てた彼が浮かべるのはやはり、背筋が凍りつくような恐ろしい笑みだった。




