誰もどこにも逃げられない
ディミトリオス・テミス
「二人で逃げろよ。俺ははぐれたことにしてやるから」
それはヘルへと戻る道中、野宿をしてる際、ルシオが言った言葉だった。
イリスは眠っていて、ディマとルシオ、会話もなく夜を過ごしていた、そんな折だった。
「イリスは望まない。それに、地獄のような暮らしになるかもしれない」
ルシオはいつになく穏やかに言う。
「これは勘だけど、彼女なら地獄の底だろうとお前といられたら幸福だろうよ」
「両親のこともある。ミランダ・テミスを侍女としてヘルへ来させなかったのは、まだ見張っているという言外の圧力だろう。アレン・テミスの帰還もない。彼らに何かがあったら、僕は自分を許せない」
ディマの膝を枕に、イリスはすやすやと眠っている。生まれ変わる前の人生をよく覚えていると言い張る彼女は、時に姉のように接するが、ディマにとってはどこまでいっても、年下の女の子だった。
髪を撫でると、くすぐったかったのか、彼女はちいさく呻いた。
「この子には周りに愛されて、認められて、そういう暮らしをして欲しい。逃げて隠れて、追われるなんて絶対にだめだ」
ディマの思い描く理想は、何の憂いもなく、誰にも追われることもなく、イリスと二人で生きていくことだ。故郷の森や、屋敷や、村を周り、夕日を眺め、暮らすことだった。
だが彼女にその暮らしをさせるためには、解決しなくてはならない課題が山積みだった。
ヘルに戻り、一日が経った。
クロードやファブリシオへ、ことの顛末を説明し、日が終わろうとしている。聖女には優しい彼らも、ディマとルシオには容赦なかった。だが後ろめたいこともない。素直に従っていた。
そうしてその二人のどちらにも、オーランドへの態度を注意された。まるで正面から喧嘩を売っていたようだと、そう言われた。
正面から喧嘩を売っていたのだ。その指摘は正しい。
(たまに思う。僕は激情家だ。母と同じ気質がある)
その日の聴取が終わり、口数も少なくルシオと、水平線に沈む夕日を見ながら、堤防に座り軽食を取っていた時、そんな風に考えた。瓦礫は相変わらずだが、遺体も悪臭もない。
復興に訪れた兵士のために人々は動き、街は以前の活気を取り戻しつつあった。全て、聖女がこの地に降り立ったからだ。
(あの子といると、僕はただの男になってしまう。目的も決意も誇りも忘れ、ただ彼女を愛するだけしかできなくなってしまう)
尊く愛しいと思うと同時に、ひれ伏している。だがその服従は決して嫌ではなかった。
オーランドも同じように考えているのなら、耐え難い事実だ。これほど深く彼女を愛しているのは、自分だけでいい。
(だけどなんとなく、分かる。オーランドは孤独なんだろう)
人を側に置く時に、押さえつけるか脅すかでしか、方法を知らない。
だとしたらやりようはあると、ディマは思った。
「なあ、ルシオ。僕は君に感謝してる。友達になってくれたことも、僕を思いやってくれることもだ。君の明るさにいつも救われてる。信頼する友だ」
突然の言葉に驚いたような表情を浮かべたルシオは、やがて破顔した。
「ようやく俺の愛が伝わったか!」
「僕はオーランドにとっての君になる」
「は?」ルシオの笑顔が引っ込んだ。ディマの背を叩こうとしていた手は、空中で止まる。
「オーランドを支え、彼の信頼を勝ち取る。イリスの側に、少しでも長くいられるようにさ」
ルシオは手を下ろし、心外だとでも言いたげな表情を浮かべた。
「勘違いするなよ。俺がお前の側にいるのは一緒にいるのが楽しいからだけだ。下心なんてない」
「分かってる、僕が君に抱く思いも一緒だ。オーランドにそんな思いは抱けないけど、フリならできる。自分なんて、いくらでも偽れる」
ルシオはせせら笑う。
「愛ってやつか」
「オーランドに会いたい。会える時間はあるか。名目は、昨日の非礼を詫びたいと」
「日が暮れたら謁見は終わりだ。その後で時間を作ってもらうよう、親父に頼む」
ディマはもはや、死ぬか、屈するか、選ぶしかなかった十二歳ではなかった。別の道を切り拓かなければ、到底、幸せになど辿り着けないと気づいている。
オーランドに会えたのは、日暮れからすっかり時間が経ってからだった。
最後に会った者の要望が長引いたらしい。オーランドは応接の間で椅子に座り、足を組み、疲れたように目を閉じていた。
護衛や側近たちも中に控える部屋へとディマが入ると、目も開けずに、彼は言った。
「話は聞いた。内容について、私は承知した。それ以上に、君が話すことなどあるまい」
拒絶とも思える言葉だったが、こうして時間を作ったということは、全く聞く耳がないということではないはずだ。
オーランドの足元に、ディマは跪いた。護衛が反応するが、オーランドが手で制する。
彼は目を開けた。空のように青く澄んだ、美しい瞳だった。
ディマは言う。
「陛下、私に本土へと帰還し、母と妹の側にいる許しをください」
「君が宮廷に戻ることは、未だ許されていない」
澱みなくディマは答えた。
「では陛下。お許しをこの場でいただけませんか。今や帝国の端にいるねずみ一匹の運命でさえ、あなたの意志で決まるのだから。
お約束します。私の忠誠心は、誰にも負けないと。必ずお役に立ちます」
オーランドは、憮然と言う。
「ならば忠誠を示してみろ」
頭を下げたまま、ディマは応じた。
「あなたが望めば、このディミトリオス・テミス、地べたに頭をこすりつけましょう。
あなたが望めば、靴の底についた犬の糞でも舐め取りましょう」
言ってから、オーランドの組まれた足の、靴の先に口付けをした。誰かがハッと、息を呑んだ。
「よい! よせ!」
ぎょっとしたようにオーランドは立ち上がった。狼狽える皇帝を見て、ディマはわずかな満足感を得た。彼に会うのは三度目だ。一度目は処刑されかけた。二度目はつい昨日だ。三度目にしてようやく、彼の仮面を一瞬だけでも剥ぎ取った。
「この身と心はローザリア帝国、皇帝のものだ。陛下、私はあなたのものです」
ダメ押しとばかりに、そう言った。
父親同士が兄弟だと、ディマは知っているが、オーランドは知らない。
運命は片方に膝をつかせ、片方に見下ろさせる。だが運命を、今にあってはディマは嘆いていなかった。
部屋の中には大勢いたが、誰も口を利かずに、気が触れているとさえ思わせる少年に対する、オーランドの裁きを待っていた。
じっくりと値踏みするかのような長い時間の後で、やがてオーランドは口を開く。
「……宮廷に、来るといい。兄がいれば、イリスも心が安らぐだろう」
待ち望んだ、許しだった。感情を表出させないよう細心の注意を払いながら、淡々と、ディマは答えた。
「感謝申し上げます陛下」
深く頭を下げると、静かなオーランドの声が聞こえた。
「イリスのために当然のことをしただけで、君に感謝されることではない」
昨日、ディマが彼に言った台詞だった。
話は終わった。立ち上がり、一礼し、開きっぱなしの扉まで進むと、関わり合いを恐れるように、男達は道を開けた。
やることは決まっている。アリアを探し出し、彼女を聖女に置き換えるのだ。死んで水晶となるのはイリスではない。アリアだ。
両手を握りしめた。
(悪役か。上等だ、なってやるよ。やり遂げてみせる)
幸福が奪われたのなら、また奪い返す。それだけだった。
部屋を出ると、廊下にルシオがいた。一部始終を見ていたらしく、呆れとも諦めともつかぬ微笑を浮かべている。
ルシオは言った。
「……家族は檻で、愛は鎖だと、前にクロード・ヴァリは言っていた。その意味が、今やっと分かったよ」
じっと、彼はディマを見る。
「誰も、どこにも逃げられない。……また、血みどろの宮廷が見れるかもな」
望むところさ。
ディマも彼に、笑い返した。
第二章をお読みいただき、本当にありがとうございます!
書いていて楽しい章でした。
さて、第三章はこれから書くのでまたお時間をいただきます。章タイトルは「宮廷遊戯」にしようかなぁとぼんやりと考えていますが、変えるかもしれません。
引き続き、お付き合いくださいませ。




