大好きなお兄様
ディマに抱きしめられていると、地の底にいたような気持ちが幸福に染まっていくのを感じた。
山は燃えてるし、わたしは血だらけ、おまけにさっきまで死にかけていた上に、周囲には死体が転がっている。それでも嬉しくてたまらなかった。
さっきまで殺されかけた恐怖なんてなかった。血みどろの中で世界が輝く。心が躍った。会えたことが嬉しい。ただひたすらに、嬉しい。それだけだった。
ディマが何かを言いたげに口を開きかけた。
けれどディマが何かを言う前に、わたしは言葉を口にした。それは彼を責める言葉だった。
「どうして、わたしが目が覚めた時、側にいてくれなかったの? どうして会いにきてくれなかったの? わたし、ずっと待っていたのに。ディマに会いたくて、海まで越えてやって来たのに。魔法だっていっぱい使って頑張ったのに。
会ったらずっと、側にいるって、そう思っていたのに。ディマのためならなんだってしたのに。なのに、どうして側にいてくれなかったの? こんなのひどいわ。わたし、すごく寂しかった」
「ごめん、僕は君に相応しくないんだって、そう思って。支え合うオーランドとイリスはあまりにも完璧だったから。僕が入る余地なんてなかった」
彼の金色の瞳がわたしを見つめていた。空に浮かぶ静かな月のようで、あまりにも美しくて、吸い込まれそうになる。
その目を見つめ返しながら、必死に彼に伝えた。
「相応しいとか、相応しくないとか、そんなのどうだっていいよ! ディマがいい、ディマが、いいんだもん! 側にいて欲しいのは、ディマだけなんだよ!」
愛や恋や情なんて、そんな言葉では言い表せられない。言葉なんて飛び越えて、魂の底から彼を求めていた。
「わたし、すごく会いたかったのよ。本当に、ずっと会いたかったんだから……」
掠れる、彼の声がした。
「僕だって、そうだった」
言ってからディマの手がわたしの頬に触れる。
彼の名前を呼ぼうとしたところで、唇が塞がれた。キスされてるんだ、とぼんやり思う。
背に置かれた手に更に力が入る。どれほどディマがわたしを求めていたのか、思い知らさせるようだった。
――ああ、嫌だな。そう思った。
前世では恋なんてする余裕はなかった。でもはっきりと気がついてしまった。わたし、ディマが好きなんだ。本当に好きなんだ。
一体いつから、なんて分からない。気付いたときには大好きだった。彼を必要としていた。彼がわたしを強く求めるように、わたしも彼を求めていた。
だけどこの口づけは、何かが激しく間違っているような気がしていた。ここにいなくちゃいけないのは、本物のイリスの方なんじゃないの? それでも思いが止められない。もう未来なんていらない。このまま時間が止まってしまえばいいのに。
長く、ゆっくりとしたキスの後で、わたしたちはやっと体を離した。
ディマが、じっとわたしを見つめていた。わたしの頬を流れる涙を指ですくい、自身の口に含む。だけどその時間は、永遠には続かなかった。
「おい二人共、気持ちは分かるが、早くここから離れた方がいい」
驚いて声が聞こえた方へ顔を向けると、気まずそうな表情を浮かべたルシオ・フォルセティが馬とともに佇んでいた。
彼がいるなんて少しも気が付かなかった。一部始終を、見られてしまったらしい。
落ち着かない様子でルシオは続ける。
「近くにネルド=カスタの仲間がいるかもしれん。それに、あの山火事がこっちまで燃え広がるとも限らない。聖女様、あなたの魔法で鎮められますか?」
魔法が使えないのだと、答えようとして言い淀む。ディマの腕の中からルシオを見上げた。この人のことをあまり知らない。信頼できるの?
わたしの様子を鋭敏に察したのか、ディマが言う。
「大丈夫だ、彼は信頼できる」
その言葉に勇気づけられて、ようやく伝える。
「わたし、魔法が、使えなくて」
「何だって?」
ディマとルシオが顔を見合わせたのが分かった。ディマがわたしを支えながら立ち上がる。
「確かに、ここから早く離れよう。イリスは僕と同じ馬に乗ってくれ」
「おっと、ちょっと待てよ。その前に」
ルシオが地面から何かを拾い上げ、麻袋に手早く入れた。暗がりで手元はよく見えない。ディマが不審そうに眉を顰めた。
「ルシオ、何したんだ?」
「別に大したことじゃない。いいから、さっさと行こうぜ」
言いながら、彼も荷とともに馬に飛び乗った。
◇◆◇
ディマと一緒に馬に乗り、彼の息遣いと体温を感じた時、今までずっと、孤独だったのだと知った。今までずっと、怖かった。けれどもう恐怖は薄れ、不安もない。
火事と充分な距離を取ったところで、ひとまずの休憩にした。
また夜は暗かった。遠くで相変わらず火は燃えているようだけど、徐々に弱まっているのが分かる。あと数時間もすれば、火は収まるだろうと思った。近くに人の住むような場所もないし、被害は見た目より少ないだろう。
焚き火を起こして、三人で囲む。
携帯食に持ってきたというパンと燻製肉を勧められたけれど、食欲はなかった。ルシオが代わりにと差し出したワインを胃に流し込むと、気分はわずかマシになる。
わたしが姿を消してから、すでに五日、経っているという。
「僕らはスタンダリアとのパーティ中にヘルに戻って来ていたんだけど――」
ディマが言う。パーティ中に会いに来なかったことを、今は咎めないでおこうと思ったけど視線に出ていたのかもしれない。ディマは付け足した。
「――パーティが終わったら、会うつもりだった。本当さ」
ディマの言葉をルシオが引き継ぐ。
「聖女様が消えたって、朝っぱらから大騒ぎでした。住民には知らせていないんで呑気なものでしたが、少なくとも親父や総督や司祭たち、それにあのクソ……陛下なんかはさ。
自分で姿を消したのか、それとも誘拐されたのかも分かりません。墓地の墓石が一部破壊されていましたが、聖女様に反撃した気配はありませんでしたから」
「初め、イリスの魔力を追おうとした。覚えているか、子供の頃、森で迷子になったことがあったろ。あれと同じようにしようとしたんだけど、全然、魔力の気配がない。じゃあ、イリスが自分の意志で姿を消して、探されないように痕跡まで消したんじゃないかって、大きな問題になりかけた。だけど僕はそうは思えなくて。
同時に、いなくなった奴がいると突き止めた。スタンダリアのネルド=カスタだ。ジュリアン王は初め隠そうとしたようだけど、先に国へ戻ったのだと認めた。だけど普通は思わない。聖密卿が聖女を攫うなんてことは」
ディマは目を伏せる。
「表立って疑うわけにはいかなかった。クロード先生にも、聖密卿がイリスを攫うわけないと言われたけど、ネルド=カスタの魔力を、僕は探ったんだ。あいつの動きはおかしかった。スタンダリアへは戻らずに、この小国へと向かっていたから。他の心当たりは別の人間が追っていたけど、聖密卿は誰も疑わない。だから僕らが追ったんだ」
その推論は当たっていて、彼らが来てくれなかったら、わたしは死んでいた。
炎を見つめたまま、ルシオは腑に落ちないように眉を顰めた。彼の栗色の長い髪の毛が、火で照らされていた。
「だがなぜネルド=カスタが聖女を攫う。聖密卿は国家のものではなく教皇庁に忠誠を誓っている。で、教皇庁は聖女をイリス・テミスだと認めている。なのになぜイリスを攫うんだ。出身国であるスタンダリアに肩入れして、ローザリアを勝利へ導いたイリスを憎んだのか?」
答えはぼんやりとでているように思ったけれど、確信的ではない推論を、まだ話すべきではないと思えた。少なくともディマと二人きりの時の方がいい。
「分からないことだらけだ」
ディマがため息を吐いた。
「……皆、陰謀と策略ばかりだ。イリスの周りで、勝手にさ。僕はそれが腹立たしい。自分の欲望を聖女を通して正当化しているだけだ」
それからディマは、そっとわたしの髪に触れた。
「僕は本土に戻るつもりだったんだ。イリスの側にいようと思って。宮廷に入るように、なんとかする」
「側に、いてくれるの?」
わたしも彼を連れて帰るつもりだったけど、実際彼がどう思っているのかは不安だった。けれど彼は断言する。
「当たり前だろ」
そういってディマは微笑んだ。
彼が笑っていると安心する。彼が嬉しそうだと、わたしも嬉しい。なんの欲望も謀りもなく、彼が大切だった。
そのまま彼はわたしの両手を取り、その両方にキスをして、抱きしめられる。
ルシオがやれやれとでも言いたげに首を横に振り天を仰いだ。
ディマが動いたせいで彼の荷が落ち、中身がこぼれたから、わたしたちは体を離した。目に入ったのは彼の荷に似つかわしくないような小箱で、彼はそれを慌てて拾い上げる。
「その箱、何?」
「いや、なんでもない」
「ディマが買ったんです、あなたへの土産に。渡そうと思って持ってきたんだろ」
すかさずルシオが言い、ディマに睨みつけられている。
「全財産を持ち歩いてるだけで、今渡すつもりは全くなかった。イリスは傷ついてるんだ。能天気に自分の勝手を押し付けられるかよ」
「いいえ、わたし、今欲しいわ」
きっとディマは気を使ってくれたんだと思うけど、わたしは全然平気だった。
ほらな、とでも言いたげに、ルシオはディマに勝ち誇ったような笑みを向ける。
観念したように、ディマは小箱をわたしにくれる。
「全然、大したものじゃないんだ。イリスがいつも貰うような、高価なものでもないし。僕は金がなくて」
「こいつ半日以上かけて選んでましたよ。きっと素晴らしいものだ」
またディマが、ルシオを睨んだ。
渡された箱を開くと、深い海のような青の、リボンがあった。
「気に入ってくれるか分からない。でも、イリスの髪の色に、きっと似合うと思ったんだ。領地で開いた、一番最初のパーティで、イリスが着ていた紺色のドレスがあったろ。あれは本当に可愛くて、似合ってたから」
銀の糸も織り込まれていて、焚き火の炎できらきらと輝いた。
「ディマ、嬉しい。わたし、本当に嬉しいわ」
泣くまいと思ったけれど、声が震えてしまう。きっと一生懸命選んでくれたんだ。
髪に結んで欲しい、そう伝えると、ディマは頷いた。
彼に背を向け、リボンが結ばれる最中、じっと目を閉じて、彼の指先を感じていた。心臓が高鳴るのを、もう自分にも隠しようがない。
「できた。すごく可愛いよ。……うおっ」
振り返り彼の胸にすがりつく。
驚いたようなディマだったけど、わたしの体を抱きとめた。温かい体。彼の側にいると、ようやく息ができるような気がしていた。今までずっと、窒息しそうだった。
不思議な気分だった。誰かの衝動に、突き動かされているみたいだった。
どうしても言わなければならないと、そう思いながら彼を見上げ、わたしは口から、声を発した。
「ディミトリオスお兄様。今度は、ずっとお側にいてくださる? ずっと、イリスのお側に、いてくださる?」
自分じゃない他の人が話しているみたいだった。
けれど本心からの懇願だった。切望していた。彼が側にいることを。
「何、そんな呼び方して」
困ったような顔を浮かべたディマだけど、わたしの目を覗き込み、何度も何度も頷いた。
「いるよ、ずっと側にいる」
「お兄様、好きよ」
安堵とともに、わたしは微笑む。
「ディミトリオスお兄様、好き。大好き――」
ディマが体を抱きしめてくれる。それがこんなに幸せなんだと初めて知った。
愛の告白を呟きながら、幸福に包まれ、やがてまどろみの中に、わたしは落ちていった。




