憎悪は燃える
再び気を失えたのは良かったのかもしれない。目が覚めても、痛みは消えてくれないから。
荷台に揺られ、時間の経過が分からなくなった。
次に起きたとき、周囲は明るくて、次に起きたときは暗かった。
食事はない。空腹よりも激しい痛みの方が辛かった。皮膚から流れた血は乾き固まっていたけれど、痛みが体を衰弱させる。
わたしをずっと守ってくれていた魔力の気配も感じられない。
聖女がいなくなって、逃げたとでも思われているかしら。それとも誘拐されたと思うかしら。いずれにせよ大騒ぎになっているはずだ。
少なくとも分かっていることは、荷馬車が進む度、わたしが死に近づいていっていることだ。
考え続けなくては。生き延びるために。こんなところで、イリスを死なせるわけにはいかなかった。
朦朧とする頭で、情報を整理していた。
ネルド=カスタはきっと初めからわたしを誘拐するためにヘルへと足を踏み入れたのだ。もしかすると終戦協定が結ばれたときにはすでに、ヘルでわたしを捕らえることを企んでいたのかもしれない。だとしたらやはり、ジュリアン王も絡んでいるはずだ。
ネルド=カスタが何の考えもなく、聖女憎しとわたしの連れ去りを実行したとは思えない。
聖女は作れると彼は言っていた。スタンダリアに聖女が現れるとも。
じゃあ、ネルド=カスタは新たに聖女を作り、スタンダリアのものとすると、そう考えているということだ。
でも聖女は一人だけ。アリアだけだ。
わたしがそう思ったのは、小説でそう書かれていたからだ。もちろん歴史でも、聖女は一時代に一人だったけど、そもそも試そうとした人間がいなかったのかもしれない。「聖女を作る」ということを――。
昔、考えたことが蘇る。
聖女が何者かによって作り出せるものなのだとしたら、イリスが“聖女の心臓”に触り光ったということも、次に聖女が現れるということも、説明が付くのではないかしら。どちらも本物の聖女だったのならば。聖女が一人という思い込みが、イリスの処刑までに至ってしまった。
現にわたしの魔力は度を越している。自分でも怖いくらいに強いのだ。イリスも本物の聖女だったなら、無限のようなこの魔力にも説明が付く。
……本当にそんなことが、可能であればの話だけど。だって聖女が簡単に作れるのなら、どこの国だってやってるはずだ。
痛みが襲ってきて、思考が途切れ途切れになっていく。
頭に浮かぶ、誰かの声。
“俺はお前に生きていて欲しい”
強欲で傲慢な愚かな彼。抜け殻のように生き続けた、哀れな人。可哀想な、わたしの兄。
首を切られる場面が浮かぶ。わたしは首を切られていないのに……。
また意識を失っていたらしい。
誰かの咆哮で目が覚めた。異変を感じた。辺りは暗いのに、空は赤い。
ばちばちと、何かが燃える音がする。体を起こすと、ネルド=カスタが兵士に体を引き止められていた。
「聖密卿! 危険です、近寄ってはなりません!」
「離せ! あそこには私の全てが詰まっているのだ!」
皆、馬を降りていた。誰もが必死の形相を浮かべている。彼らの視線の先に目を向ける。そうして異様な光景に気がついた。
燃えている。何が? 森だ。その中に、建物がある。お城――……。
山火事だった。その中心にある城が燃え盛っていた。
ネルド=カスタはそこに向かおうとして、兵士達に止められているようだ。そこに何があるのかなど知らない。わたしに分かるのは、彼らに今、わたしに注意を払う余裕がないということだけだった。
逃げなくちゃ。
今、今なら。
今なら逃げられる。
手と足は縛られていた。這うようにして体を動かし、荷台から降りた。どこへ行くなんて分からないけれど、彼らから離れなくてはとそう思った。
「逃がすな!」
ネルド=カスタの声が聞こえた直後、右肩が熱くなる。矢が刺さっていると気がつく。射られたんだ。
続いて左足にも矢が刺さる。貫通していた。
逃亡はあっけなくバレる。すぐに兵士達がわたしの両手を掴み、ネルド=カスタの前に引きずり出される。瞬間、頬を張られた。
「貴様さえいなければ!」
口の中が切れた気配がした。ネルド=カスタの声が響く。
「なんて弱い存在なんだ? このような者が、本当に兵士を殺したのか」
肩と足の矢が外された。痛みさえももはや鈍い。
「お前達にくれてやる。こうなったら殺すしかないが、その前に自分に価値などないと思い知らせてやれ」
兵士達が、笑い声を上げるのが分かった。
体が地面に投げ出される。一人がわたしの手を抑え、別の一人がわたしに馬乗りになった。
「この娘は同胞の敵だ。嬲り殺してやる!」
顔と体を殴られて、頭が揺れ、耳鳴りがする。世界が遠ざかっていく。
涙が頬を流れていくのを感じた。
服に手がかけられて、破られた。男達の無数の手が、わたしの体をまさぐった。嫌悪と恐怖で、力を振り絞り絶叫した。
「や、やだ! 嫌だああ!」
矢で射られた箇所を、ナイフで刺された。他にも数カ所、刺される。自分の体から血が吹き出した。
彼等は愉悦に笑っている。わたしを犯し殺すのが、類稀なる娯楽とでも言うように――。
わたし、ここで殺されるのかもしれない。
信望や愛だけではない。人々が聖女に抱くのは、憎しみと恨みだってあるのだ。この人達は、わたしを辱めるためだけに襲おうとしている。
他の誰かを救うために、他の誰かを傷つけた。その責任を取らされているんだ。それが嫌ならそもそも戦わないか、全てをねじ伏せる力が必要だ。だけどそのどちらも、今のわたしにはなかった。
――ごめんなさい。わたし、また生き残ることができなかった。
憎悪は止まらない。炎のように人々を燃やし尽くしてしまう。
赤く燃える空が見える。空に浮かぶ大きな満月が、やけに輝き歪んで見えた。
諦めかけたその瞬間、昔のことを思い出した。
月にいたって駆けつける。彼はそう言った。
世界が滅んだって側にいるって。そう言ったのだ。
だから無我夢中で叫んでいた。
「ディマ……ディマ、助けて!」
錯乱していた。
彼が来るはずがないって分かってる。それでもわたしは彼の名を呼び続けた。
「ディマ! 助けて! ディマ――」
「こんなところに、助けなど来るものか!」
兵士が笑った、刹那だった。わたしを抑えていた兵士達の体が、突如としてずたずたに切り裂かれる。
びしゃりと、生温かい血がわたしにかかる。
短い悲鳴が聞こえ、目を向けると、ネルド=カスタの首が吹き飛んだのが見えた。首のない体が遅れてどさりとその場に落ちる。
暗がりに、両手に魔法陣を携えた背の高い、ひどく殺気立った青年が立っていた。
轟轟と燃える山を背景に、赤い空と、血の流れる地面の狭間に、彼はいた。
スタンダリアの兵士達は皆絶命していた。
彼はわたしの側までやってくると、治癒魔法をかけてくれた。
痛みが消えて、そのまま強く抱きしめられた。彼の涙が、頬に落ちる。震えるその背を撫でながら、わたしは言った。
「泣かないで。泣き虫は相変わらずね――」
「イリスだって、泣いてるじゃないか」
ディマは、声を詰まらせそう言った。




