孤独なディミトリオス
「ぼく、来なければよかったんだ」
ぽつりと呟いたディミトリオスの声で現実に戻った。少年は、瞳を不安げに揺らしている。なんとも哀れに思えて、わたし自身、彼が来なければ良かったと思っていたことは棚に上げ、適当な慰めの言葉を口にした。
「大丈夫よ、きっとなんとかなるんだから。お母さまだって、今は怒ってるけど、本当はすごく優しい人なんだもん」
目下の問題は、二階から聞こえるお父さまとお母さまが激しく言い争っている喧嘩の声だ。
今まで両親が声を荒げる姿なんて見たことがなかった。特にミランダが、あそこまで怒るなんて――。あ、とわたしは気がついた。
「ねえ、ディミトリオス。あなたのお父さまはどこにいるの?」
ディミトリオスは再び泣きそうな顔をする。
「知らない。わからない。いない」
なるほどそういうことかと、ひどく腑に落ちた。
多分、ディミトリオスはアレンの私生児なんだ。夫婦仲は良好だけど、わたしの下にきょうだいはいない。アレンは男の子を欲しがっていた。
だからきっと、どこかの愛人が生んだ子供を、自分のところに引き取ったのだ。本当にそうなのかは知らないけど、ミランダはそう思ったに違いない。
裏付けるように、どたどたと階段を駆け下りてくる音がした直後にお母さまの叫ぶような声が聞こえた。
「イリス! イリス! どこにいるの? この家を出るのよ!」
わたしとディミトリオスは顔を見合わせ、震えるその手を握った。温かいわたしの手からすると、彼の手は凍り付きそうなほど冷たく、小刻みに震えてる。
「平気よ、家を出るなんてことにはならないわ。だって――」だって小説だと、イリスが聖女になるまでは、このお屋敷で暮らしていたはずだから。
「イリス! ここにいたの……」
お母さまの声が厨房の入り口から聞こえ振り返ると、泣きはらした彼女の瞳が、手を握り合うわたしとディミトリオスを見た直後、激しい怒りに染まるのが分かった。
「あなた、その手を、わたしの子供から離しなさい!」
お母さまは手を前に翳し、魔法陣を出現させ、ディミトリオス目がけて魔法を飛ばす。
料理人が慌てて逃げるのが目の端に見える。幼い子供を守らなくちゃならない。お母さまに彼を傷つけさせてはいけない。冷静になった彼女が、ひどく後悔をするのは分かりきったことだから。考えたのはそれだけだった。
ディミトリオスの前に立ち、向かってきた魔法に対抗すべく魔法陣を出現させた。魔法を使うのは赤ん坊の頃以来だったけど、火事場の馬鹿力とでも呼ぶべき極限の力故か、日頃読んでる魔導書のおかげか、やり方は分かった。防御の魔法を繰り出す。
お母さまの魔法はわたしの魔法陣に当たり、角度を変える。強い魔法じゃなかった。お母さまは多分、ほんの小さなつむじ風を出して、ディミトリオスの手をわたしから離したかっただけだったんだ。
弾かれた魔法が、テーブルの上のカップに当たる。カップは砕け、破片がわたしの額に飛んできた。するどい破片は皮膚を切り裂き、生暖かい血が流れ出した。
「イリス!」お母さまが血相を変えてわたしの体を抱き上げた。傷の具合が大したことないと分かると、そのまま、限界だったとでもいうように、わんわんと泣き出した。
「ああ、イリス! ごめんなさい、本当にごめんなさい」
その時、わたしたちを探していたらしいお父さまがようやくやって来た。
「ミランダ、誤解だ、聞いてくれ――……。イリス! どうしたんだその血は!」
慌てたお父さまがわたしの額に手を当てる。割れたカップを見て、なんとなくの状況は把握したようだ。
「可哀想に、切ってしまったんだな。だが傷は浅い、跡もなく治るさ。泣かないなんて偉かったなあ」
こんな時にもかかわらず、彼の子煩悩は健在だった。わたしを椅子に座らせると、使用人に包帯を持ってこさせている間に、止血のため彼の服の袖が額に当てられる。そうしながら、彼は呆然と立ち尽くす自身の妻に向かって言った。
「ミランダ、聞いてくれ。ディミトリオスは俺の子じゃない。違うんだ。ただ、昔世話になった方の子供で、その方が亡くなってしまったのを知り、引き取るにはそのまま連れ帰るしかなかったんだ。急いでいたからお前に相談ができなくて……あれ?」
頓狂な声を出して、お父さまが辺りを見回して、つられてわたしも見回した。
狭い厨房の中には、使用人と、わたしたち家族、三人しかいない。ディミトリオスがいなかった。
「あの子、どこに行った?」
お父さまが言った瞬間、血相を変えた使用人が走ってやって来た。
「旦那さま! あの子が三階の窓から飛び降りるつもりです! 魔法が強くて誰も近寄れません!」
ああ、問題ばかり。
聞いた瞬間、わたしは走った。お父さまとお母さまが何かを言った気がしたけど、あまり聞こえていなかった。




