凪
当然のことながら、ディマはヘルに留まった。イリスがここにいるのなら、他に自分のいくところなどない。
後から聞いた話だが、ヘルへの奇襲と同時に、クリステル家の反乱が勃発したらしい。
皇帝はすぐさま兵の大多数をヘルへと向かわせ、自らはイリスとともに、内乱の対応をした。
「判断がもう少し遅かったら俺たちは死んでただろうな。ローザリア中枢も、捨てたもんじゃないってことか」
イリスの部屋を時折見舞いに来るルシオがしみじみとそう言った。
内乱制圧後、空間転移を駆使し、イリスは大急ぎで、先に派兵していたファブリシオに追いついた。その後も空間を繋ぎ、兵ごとヘル付近に送り込んだ。
ローザリア兵は直前まで不可視の魔法をかけられており、スタンダリア兵に可能な限り近づくことができたという。
耳を疑うほど信じられない、強い魔法だ。常識を外れていたが、イリスはやってのけたのだ。
争いが去った後のヘルは、海面と同じく凪いでいた。ファブリシオ・フォルセティとタイラー・ガンを中心に街は建て直されていく。
虐殺の傷は癒えないが、人々も生きるために動き始めた。城壁は兵士が守り、再び鉄壁の砦となった。
街中で働く兵士達の姿を見ながら、ディマはある時ファブリシオに問いかけた。
「職を失った兵が悪事を働く現場を見ました。彼らもそうなりますか」
街の見回りを終えたばかりのファブリシオは、手を口髭に持っていき撫で付けながら、慎重そうに答えた。
「ふむ……ローザリアでも傭兵が暴徒化するという問題はあるが、彼らはそうはならないだろう」
「なぜです?」
尋ねたのは信じられなかったからだ。ローザリアの道徳心がスタンダリアに優っているとは考えてはいなかった。
「今回の派兵に傭兵が少ないということもあるがね。
不思議だが、イリスに関わった兵士たちは皆、聖女を守ることを使命と考え、荒くれどもも一流の騎士になる。たちまち紳士になってしまうんだ。私はそれを目の当たりにしたよ。聖女様の前では、格好を付けたくなる……そんな単純なことだが、実に効果が上がっている」
ファブリシオはそう言って笑う。彼の目の奥にさえ、イリスに対する信頼と愛情が、宿っているように思えた。
倒れてから、イリスは目覚めなかった。
遠目からでは分からなかったが、血も吐いたようだ。側にいたファブリシオが、周囲に気づかれる前にイリスの口から出た血を拭き取った。
すぐに彼女は大聖堂の一室へと運び込まれ、表向きには死者を悼み祈りを捧げていることにされていた。
たった一人の聖女が血を吐き倒れ目覚めないとなれば、ローザリアの立場はたちまち悪化する。何が何でも、ファブリシオは隠し通すつもりだった。
(皆、どれだけ聖女に依存してるんだよ)
ディマは憤りを覚えていた。
大の男が揃いも揃って十三歳の少女を崇めている姿は滑稽にさえ思える。
だがそれこそが聖女だ。たとえイリスが望まなくとも、彼女の一挙手一投足に、皆が翻弄されていく。
魔力を使いすぎているのだと、クロードは言った。大聖堂の奥の間に眠るイリスの傍で、二人で椅子を並べていた時だ。
「クリステル家の反乱を鎮める際にも同じような魔法を使ったと聞く。普通はそれだけでも限界を迎え、倒れておかしくないほどなんだよ」
疑問が浮かび、ディマはクロードに投げかけた。
「前は魔法を使わなかったからこうなりました。でも今回は、魔法を使いすぎたから倒れたということですか? 矛盾ではないのですか」
「理屈は前と同じさ。いくら魔力が無限と言えど、出力する体が耐えられないと意味がない。体を通る魔力の総量の問題だ。
すぐには心配いらない、眠れば回復するだろう。だがこんな無茶を繰り返せば、寿命は短くなる一方だ」
最後の言葉にぞっとするが、クロードは気にしない様子でなおも言った。
「長く一緒にいたいなら、無茶な魔法の使い方をせずに済むように、彼女を支えてやりなさい」
言われなくてもそのつもりだったし、実際今もそうしている。
ディマの感情を鋭敏に察したのか、クロードが言った。
「気が晴れないかい」
復興に向け前進する者の間で感じた後ろめたい思いを誰にも言うことができなかった。初めて口にしようと思えたのは、クロードなら、即座に否定しないだろうと思えたからだった。
「……兵士はイリス・テミスのために戦ったと聞きます。残虐で恐ろしい行為を、無垢な聖女に捧げるためだと正当化して、殺人の責任をイリスに押し付けた」
「自分は違うと言うのか」
「僕は違う!」驚き声を上げるが、クロードの表情に変化はない。
「ではディミトリオス、君はなんのために罪を犯した? なぜ脱走兵を殺し、スタンダリア兵を殺した」
真っ直ぐな視線を受け止めきれずに目を逸らした。
「僕はただ……」
言いかけて、言葉の先が紡げない。
ただ、怒りと憎悪ばかりを抱いていた。正義があったのかも分からない。
クロードはわずか表情を和らげる。
「君の決断で救われた者もいる。後付けでも構わない、目的を持て。神と聖女の名の下に執行される正義は、人の心を救うものだ。怒りと憎悪では、人は付いてこない。ヘルのために戦った君には、確かな正義があったように見えたよ。
君だって人を殺した。崇高な目的があれば、人はなんだってできる。聖女に責任を押し付けているわけではない。皆、信じたい正義に縋りつきたいだけさ。許してやりなさい」
「別に僕は、人に付いてきてもらいたいわけじゃありません」唯一反論できそうな箇所だけ反論した。
「だが君に従いたい者は多いだろう。望もうとも望まざるとも、生き方は宿命づけられてしまうものだ」
相変わらず彼の言葉は哲学めいている。
無意識か、クロードは眠るイリスに目を向け、ディマもつられて彼女を見る。
イリスの胸には、クロードから貰った小さな水晶柱がぶら下げられている。懐かしく輝いている日々には既に、恐ろしい闇が迫っていたのだ。
(これはあの地下の水晶なんだ)
イリスが身につけていたものは、過去の聖女の体の一部、そのものだ。暗い未来を暗示しているかのようだった。
だが水晶の隣に、ディマが贈った金の指輪も付けられていた。ディマがイリスを想い続けた日々、この指輪はその証のように、彼女の側にあったのだ。イリスは何も知らずに、ただ大切な思い出として、その二つを合わせただけかもしれない。
(頭がおかしくなりそうだ――)
憐憫と愛情と畏怖と憎悪は、いつだって同じ場所で混ざり合う。
彼女を攫って逃げ、たった二人で暮らすことができたらどれほどいいだろうか。
だがだめだ。両親がいる。彼らに危害が及んでしまう。愛こそが、ディマをこの場に縛り付けた。
朝も夜もイリスは眠り続け、目を覚ます気配はなかった。可能な限り彼女の側にいた。手を握り、話しかける。返事はないが、話題は尽きなかった。
そうしてひと月も過ぎた頃、皇帝オーランドがやってくるという話が出た。表向きはヘルへの慰問だが、まず間違いなく、イリスの話が伝えられたのだろう。
噂が立った数日後に、実際にローザリアの国旗を掲げた船団がやって来るのが見えた。見たこともないほど豪華な船に、イリスの側にいるべき人間が、自分でないと思い知らされているかのように感じる。皇帝そこが聖女の伴侶になる者なのだ。
船が港に着いた時、市民達の大歓声が聞こえた。ディマはそこへは行かなかった。
皇帝は先に総督屋敷を訪れた後で大聖堂を訪れるらしい。オーランドがやって来れば、イリスの側にいられないだろう。それまでの間だけでも、隣にいたかった。
だが二人きりの時間は、騒々しく部屋に駆け込んできたルシオによって破られる。
「まずいぞ、あのクソが来るらしい! 逃げろディマ、修羅場になるぞ!」
血相を変えたルシオはそのままの勢いでディマに掴み掛かると無理矢理椅子から立たせる。
「何が来るって?」
困惑を隠さず尋ねると、ルシオは叫んだ。
「オーランドに決まってるだろ!」
「皇帝は先に総督屋敷に行くんだろ。まだ時間はある」
「ところが予定を変えて、すぐに聖女様の様子を見に来るんだそうだ。お前、顔を合わせるぞ!」
と、大聖堂の入り口がざわめき出した。どうやら本当に港から直行したらしい。
「やばい‼︎ 隠れるぞ!」
「おいちょっと!」
焦った様子でルシオがディマを引っ張りクローゼットに二人して身を隠した瞬間、廊下が慌ただしくなり、直後に部屋の扉が開けられた。




