蝙蝠のように狡猾な
降伏した兵たちの間を抜けるように、その一人の女性が、悠然とわたしの方へやってくることに気がついたのは、少しだけ間が空いた後のことだった。
白馬の上にいるのは真夏の日差しのような濃い金髪を風に靡かせた、肌の白い、いやに存在感の強い女性だった。気持ち程度の鎧を身につけ、その下からは橙色のドレスがたなびいている。
彼女は護衛を一人も付けずに、さも当然であるかのように、わたしの目の前までやってきた。
強烈な美貌を放つ女性だった。クリステル家はいかなるお祝いの席にも家の人はやってこず、いつも使者が祝の言葉を述べるだけだった。
だけど、目の前にいる女性が誰であるか、わたしは知っているように思った。
「聖女イリス・テミス。お目にかかるのは初めてでしたわね?」
「ミア・クリステルですね?」
わたしの問いかけに、彼女はにこりと微笑んだ。肯定ということだろう。
「……逃げるおつもりかと思っていました」
「フォーマルハウト家の血が流れる者は、皆が直情型で熱血で、誇り高くて猪突猛進。逃げるくらいなら死にますわ」
背後に控えるクリステル家の軍勢は、静かにわたしたちの様子を見守っていた。
主君が敵の聖女に最も接近するという危険を犯しながら微動だにしないことを見るに、よく訓練された兵たちだ。
わたしはミアをまっすぐ見つめ返す。
「ですがわたしの前に来たということは、望みがあってのことでしょう?」
即座にミアは答えた。
「わたくしと家族の命の保障と、今までと変わらない暮らしを望みます」
ふてぶてしささえ感じる要求過多の願望だ。
けれど即座に切り捨てられなかったのは、わたしを見つめる彼女の瞳に、どうしようもない懐かしさがこみ上げたからだった。
優しい故郷と、純粋で愛おしい、たった一人の人を思った。愛を思う時、その側に、いつもいるその人のことを。
ミアの瞳は、あの子と同じ、力強い黄金色の瞳だ。逃れられない血の繋がりを、わたしは感じた。
「それはわたしではなく、陛下がお決めになることです」
「おかしなことを言うのね? あなたは聖女。皇帝より強い立場にいる者です」
くすくすとミアは笑う。その笑顔さえも、彼によく似ている。
ローザリアは絶対王政に近い。だから皇帝より強い立場にいる者など存在しないはずだけど、ミアの言葉には一切の迷いがなかった。
「イリス。履き違えてはなりませんよ。あなたは、世界中がその出現を待ち望んでいた唯一無二の聖女なのです。誰にもその立場は超えられない。こんな反乱にかまけている暇があるのなら、もっと有意義なことをしなさい」
戯言だ。ミアの言葉には答えなかった。
「時間稼ぎのつもりですか? クリステル家がどこに逃げても、わたしは捕まえられますよ」
分からず屋の幼子に言い聞かせるように、ミアはゆっくりと言った。
「いいえ、誰も逃げてはいません。わたくしはただ、あなたと二人きりでお話がしたかっただけですわ」
「なら、わたしが聞きたいことは一つ。なぜこのような反乱を起こしたのかということです」
「正統な権利の主張ですわ」
この期に及んでまだそんなことを言う彼女に重ねて問おうとしたところで、彼女の視線がにわかに厳しさを増したことに気がついた。
視線はわたしの後方に向く。
振り返ると、オーランドとその護衛たちがこちらに馬を走らせていた。クリステル家の降伏を見てやって来たらしい。
ミアは言う。
「聖女イリス。反乱の理由が知りたいのなら、いいことを教えて差し上げますわ。
薄汚い小鼠が生まれた時に、獅子の尾が何をしたか、調べてみるといいでしょう。あなたの家族を取り戻したいのなら、そうなさい」
「どういう――」
意味を尋ねようとしたけれど、またしても性急に遮られる。
「わたくしはただ、あの少年が憎いだけ。この国など、滅んでしまえばいいのです。あなたがわたくしの言うとおりにするのなら、あなたが困った時、力を貸して差し上げてもかまわないわ」
ミア・クリステルは不思議な女性だった。敗北とわかりきっている反乱を企て、そうしてやはり負けたにもかかわらず、態度にも言葉にもわずかの陰りもなく、誇り高く背筋を伸ばし、毅然とした態度を保っていた。
遂にオーランドがすぐ近くまでやってきた。
瞬間、ミアは馬から降り、地面にひれ伏す。
「ああ陛下! わたくしが、間違っていたのですわ! こんなこと、してはならなかったのだとようやく今、気が付きました。
ここに罪を告解します。あなたこそが真の王。そうして、わたくしどもの主でございます!」
泡を食った思いだった。さっきまでの態度とは全然違うじゃないの!
涙を流しているけれど、直感的に嘘泣きだろうと思った。これもこの世界を生き抜くために必要なことなのかもしれない。ひらりひらりと、蝙蝠のように立ち回ることが――。
小説の中のイリスにもこのくらいのしぶとさがあれば、生き残れたのだろうか。
オーランドは静かに言った。
「ミア・クリステル、降伏は正しい判断だ」
わたしは空中で止めていた矢を、地面にゆっくりと降ろす。ばらばらと雨音のような音を立てながら、矢は地面に落ちていった。
誰も、何も、言わなかった。
静寂の中で、一滴の血も流さずに、フォーマルハウト家は勝利したのだ。
オーランドがわたしを見て、小さく頷いた。わたしも彼に、頷き返す。
勝利の感慨はなかった。
クリステル家が拘束されている姿を見ながら、ミアの言葉を反芻する。
獅子の尾は、リオンテール家のことだろう。文脈から考えて、小鼠とはオーランドのことだ。
だとしたら、オーランドが生まれた時、リオンテール家が何かをしたと、彼女は言いたいのだろうか。それがこの反乱に、つながる系譜でもあるのだと。
それに、彼女はもうひとつ考えていたに違いない。わたしにそう言ったとしても、わたしは決して、オーランドにもリオンテール家にも、彼女の言葉を伝えないだろうという、確信があったのだ。
そうしてそれは、実に正しい。




