脅威、現る
わたしの幸福は唐突に終わりを告げる。
「イリス。お前の兄さんだ。名はディミトリオス、仲良くするんだぞ」
そう父の紹介を受けた少年が、我が家にやって来たのはそれから本当にすぐのことだった。
硬直するわたしをよそに、お父さまはなおも言った。
「イリス。ディミトリオスだ。お前の兄さんだよ」
春の温かな陽光が、レースのカーテンを通して部屋の中に入っていた。けれど居間の空気は冷え切っている。
それがわたしを絶望に叩き落とす言葉だということを、お父さまは知らない。
目の前にいる、ひどく暗い瞳を浮かべる黒髪の少年が、わたしの瞳さえ暗くさせていることを、お父さまは知らない。
――ディミトリオス・テミス。
彼がテミス家の養子だったことを、わたしは、知らなかった。
黙ったままの二人の子供を見て、お父さまはもくろみが外れたような顔になる。もしかして子供同士、すぐに仲良くなれるとでも思っていたんだろうか? 残念ながらわたしは大人だったし、その割には目の前の現実を受け入れられずにいた。
だけど静かだったのは、わたしたち二人だけではない。
「わたしは、決して認めません。なぜ相談もなく勝手なことをなさるの? どこから連れてきた子供です?」
きっぱりとした口調で言い切ったのはお母さまだった。今まで見たこともないくらい冷たい瞳をディミトリオスに向ける。
いつもはお母さまに甘いお父さまだけど、この時ばかりは強く出た。
「もう決めたことだ。ディミトリオスは、テミス家の長男になる。どこからやって来たかは重要じゃない。ミランダ、お前がどう言おうがな」
緊迫した空気が、夫婦の間に走った。
ということは、アレンはミランダの了解なしに、この男の子をどこかから連れてきたことになる。
わたしは一つ、思い出した。ある日アレンがぽつりとこぼしていた時がある。
「イリスに魔法の才能はないみたいだな」
だから魔法が使える子供が欲しかったとでもいうの? ――いやいや違うわ。慌てて打ち消す。
だって小説では、イリスは魔法が使えたのに、兄はディミトリオスだった。つまりいずれにせよ――わたしがどれほど頑張ったところで、ディミトリオスはテミス家の長男になる運命だったのだ。
だとしたら、イリスは偽の聖女になり、ディミトリオスが本物の聖女を連れて来れば、処刑される。家族もろとも。
自分が経験したわけでもないのに、冷たい刃が首に触れる恐怖と痛みを感じ、思わず叫んだ。
「いやだ!」
しまった、と思ったときには遅かった。夫婦は言い争いを止めたし、幼いディミトリオスはびくりと体を震わせ、金色の瞳をわずかにわたしに向けた。その目の、なんて悲しいことだろう。
こんな子供に、こんな表情をさせてしまったことを悔やんだ。
違うの、嫌なのはあなたではなくて、小説と同じになるかもしれないから――。
そう口から出かけたけど、言葉になる前に、ディミトリオスが、小さく言った。
「……ごめんなさい」
ぎょっとしたのは確かだ。欲まみれで冷淡で、プライドが高く自信に溢れ、人に決して頭を下げないのが、小説の中のディミトリオスだったから。
「謝るんじゃない」アレンがすぐにディミトリオスに言い、その肩を抱いた。「君は何も悪くないんだから」
お母さまの顔が歪むのが見えた。未だに困惑するわたしは、舌っ足らずな話し方も忘れ、お父さまに問いかける。
「ディミトリオスはどこから来たの? だって、この子のお父さまとお母さまもいるんでしょう?」
いいや、とお父さまは首を横に振った。
「ディミトリオスの家族は俺たちだ」全く要領を得ない回答だ。
「勝手にしてください!」ミランダが怒ったように居間を飛び出していくのを、慌ててアレンが追っていった。
「待てミランダ! くそ、二人ともここにいるんだぞ」
わたしとディミトリオスはたった二人で残される。
あらゆる思考が浮かんでは消えていく。
小説の中のディミトリオスは、艶やかな黒髪を持ち、背が高く、精悍な顔立ちで、いるだけでご令嬢方をうっとりとさせていたけれど、目の前にいるのは服も髪もボロボロで、二歳上なのに、わたしと背丈もほぼ変わらない、やせっぽっちのみすぼらしい少年だった。
じっと見ていると、彼もわたしを見つめ返していた。長い沈黙が訪れて、先に折れたのはわたしだった。
「あなたは、今まで、どこにいたの? どうやって暮らしていたの?」
三歳の子供らしからぬ口調だったけど、本物の子供であるディミトリオスに不審がる様子はなく、小さい声で返答があった。
「お母さまと、二人で」
「お母さまはどこにいるの?」
「もういない」
それだけ答えると、小さな少年はしずしずと涙を流し始めた。子供に泣かれるのは正直苦手だ。
「あ! ジンジャークッキーは好き?」
養護施設で年下の子を泣き止ませる時と同じ手だ。ディミトリオスは赤い目のまま首を横に振る。
「食べたことない」
「じゃあ食べよう? 厨房に行くとね、料理人が秘密でくれるから! おいしいわ、気に入るといいけど」
言ってから彼の手を引いて、厨房に向かった。わたしが子供らしく甘えてねだると、料理人は破顔して、戸棚の奥からクッキーをくれる。
手際よくお菓子をもらうわたしを、ディミトリオスは黙って見つめていた。
厨房に設置された作業用の机に椅子を二つ出してもらって、兄と言われた少年と向かい合う。
お菓子を食べて、お茶を飲むと、わたしの心も落ち着いて来て、なにはともあれ、彼とコミュニケーションを取ってみようという気になった。
「おいしいでしょ?」
クッキーを食べる彼に問いかけると、ようやく彼は小さく笑う。
「うん、ありがとう」
素直なかわいらしさに、思わず心がまどろんで、同時にどうしようもなく心が疼く。
いかに小説の中のディミトリオスが最低の男であったとしても、いかに彼の出現がわたしにとって脅威であったとしても、目の前の幼い男の子には、なんの罪もないのだ。
わたしは考えていた。
思えば小説の中で、テミス家の家族を深く掘り下げてはいなかったから、ディミトリオスが途中から家族に加わっていたとしても、物語に矛盾はない。
だとしたらやはりこの世界は「ローザリアの聖女」の小説の世界だ。
そうしてわたしはイリス・テミス。物語の通りなら、偽の聖女として処刑される未来が濃厚だ。
だとしたら、ディミトリオスが現れても、赤ん坊の頃に抱いた決意と同じく、わたしのやることに変わりはない。
エルアリンド公がミランダと再婚しないように、アレンの死を防ぐ。
聖女にされそうになったら、全力でアリアを探し出して、彼女こそが本物なのだと世間に告げる。
それが無理なら――無理なら、仕方がない。前世だって、たった一人で生きていくつもりだった。生まれ変わっても、そうすればいい。幸い体は丈夫だし、隠しているけど魔法は使える。
きっと暮らしていけるはずだ。
「あの、さっき、いやって言って、ごめんね。本当はぜんぜん、嫌じゃないからね」
言うと、ディミトリオスは小さく頷いた。
「ありがとう」
それが彼がこの場で発すべき適切な応答かどうかは分からない。
だけどまずは、今の状況をどうにかしなくちゃ。……ねえ、そうでしょう?




