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イリス、今度はあなたの味方  作者: さくたろう/「悪女矯正計画」1&2巻発売中
第一章 聖女イリス

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脅威、現る

 わたしの幸福は唐突に終わりを告げる。


「イリス。お前の兄さんだ。名はディミトリオス、仲良くするんだぞ」


 そう父の紹介を受けた少年が、我が家にやって来たのはそれから本当にすぐのことだった。

 硬直するわたしをよそに、お父さまはなおも言った。


「イリス。ディミトリオスだ。お前の兄さんだよ」


 春の温かな陽光が、レースのカーテンを通して部屋の中に入っていた。けれど居間の空気は冷え切っている。


 それがわたしを絶望に叩き落とす言葉だということを、お父さまは知らない。

 目の前にいる、ひどく暗い瞳を浮かべる黒髪の少年が、わたしの瞳さえ暗くさせていることを、お父さまは知らない。


 ――ディミトリオス・テミス。

 彼がテミス家の養子だったことを、わたしは、知らなかった。

 

 黙ったままの二人の子供を見て、お父さまはもくろみが外れたような顔になる。もしかして子供同士、すぐに仲良くなれるとでも思っていたんだろうか? 残念ながらわたしは大人だったし、その割には目の前の現実を受け入れられずにいた。


 だけど静かだったのは、わたしたち二人だけではない。


「わたしは、決して認めません。なぜ相談もなく勝手なことをなさるの? どこから連れてきた子供です?」


 きっぱりとした口調で言い切ったのはお母さまだった。今まで見たこともないくらい冷たい瞳をディミトリオスに向ける。

 いつもはお母さまに甘いお父さまだけど、この時ばかりは強く出た。


「もう決めたことだ。ディミトリオスは、テミス家の長男になる。どこからやって来たかは重要じゃない。ミランダ、お前がどう言おうがな」


 緊迫した空気が、夫婦の間に走った。

 ということは、アレンはミランダの了解なしに、この男の子をどこかから連れてきたことになる。


 わたしは一つ、思い出した。ある日アレンがぽつりとこぼしていた時がある。

「イリスに魔法の才能はないみたいだな」

 だから魔法が使える子供が欲しかったとでもいうの? ――いやいや違うわ。慌てて打ち消す。


 だって小説では、イリスは魔法が使えたのに、兄はディミトリオスだった。つまりいずれにせよ――わたしがどれほど頑張ったところで、ディミトリオスはテミス家の長男になる運命だったのだ。

 だとしたら、イリスは偽の聖女になり、ディミトリオスが本物の聖女を連れて来れば、処刑される。家族もろとも。


 自分が経験したわけでもないのに、冷たい刃が首に触れる恐怖と痛みを感じ、思わず叫んだ。


「いやだ!」


 しまった、と思ったときには遅かった。夫婦は言い争いを止めたし、幼いディミトリオスはびくりと体を震わせ、金色の瞳をわずかにわたしに向けた。その目の、なんて悲しいことだろう。


 こんな子供に、こんな表情をさせてしまったことを悔やんだ。 

 違うの、嫌なのはあなたではなくて、小説と同じになるかもしれないから――。

 そう口から出かけたけど、言葉になる前に、ディミトリオスが、小さく言った。


「……ごめんなさい」


 ぎょっとしたのは確かだ。欲まみれで冷淡で、プライドが高く自信に溢れ、人に決して頭を下げないのが、小説の中のディミトリオスだったから。

 

「謝るんじゃない」アレンがすぐにディミトリオスに言い、その肩を抱いた。「君は何も悪くないんだから」


 お母さまの顔が歪むのが見えた。未だに困惑するわたしは、舌っ足らずな話し方も忘れ、お父さまに問いかける。


「ディミトリオスはどこから来たの? だって、この子のお父さまとお母さまもいるんでしょう?」


 いいや、とお父さまは首を横に振った。


「ディミトリオスの家族は俺たちだ」全く要領を得ない回答だ。


「勝手にしてください!」ミランダが怒ったように居間を飛び出していくのを、慌ててアレンが追っていった。


「待てミランダ! くそ、二人ともここにいるんだぞ」


 わたしとディミトリオスはたった二人で残される。


 あらゆる思考が浮かんでは消えていく。


 小説の中のディミトリオスは、艶やかな黒髪を持ち、背が高く、精悍な顔立ちで、いるだけでご令嬢方をうっとりとさせていたけれど、目の前にいるのは服も髪もボロボロで、二歳上なのに、わたしと背丈もほぼ変わらない、やせっぽっちのみすぼらしい少年だった。


 じっと見ていると、彼もわたしを見つめ返していた。長い沈黙が訪れて、先に折れたのはわたしだった。

 

「あなたは、今まで、どこにいたの? どうやって暮らしていたの?」


 三歳の子供らしからぬ口調だったけど、本物の子供であるディミトリオスに不審がる様子はなく、小さい声で返答があった。


「お母さまと、二人で」


「お母さまはどこにいるの?」


「もういない」


 それだけ答えると、小さな少年はしずしずと涙を流し始めた。子供に泣かれるのは正直苦手だ。


「あ! ジンジャークッキーは好き?」


 養護施設で年下の子を泣き止ませる時と同じ手だ。ディミトリオスは赤い目のまま首を横に振る。


「食べたことない」


「じゃあ食べよう? 厨房に行くとね、料理人が秘密でくれるから! おいしいわ、気に入るといいけど」


 言ってから彼の手を引いて、厨房に向かった。わたしが子供らしく甘えてねだると、料理人は破顔して、戸棚の奥からクッキーをくれる。

 手際よくお菓子をもらうわたしを、ディミトリオスは黙って見つめていた。


 厨房に設置された作業用の机に椅子を二つ出してもらって、兄と言われた少年と向かい合う。

 お菓子を食べて、お茶を飲むと、わたしの心も落ち着いて来て、なにはともあれ、彼とコミュニケーションを取ってみようという気になった。

 

「おいしいでしょ?」


 クッキーを食べる彼に問いかけると、ようやく彼は小さく笑う。


「うん、ありがとう」

 

 素直なかわいらしさに、思わず心がまどろんで、同時にどうしようもなく心が疼く。

 いかに小説の中のディミトリオスが最低の男であったとしても、いかに彼の出現がわたしにとって脅威であったとしても、目の前の幼い男の子には、なんの罪もないのだ。


 わたしは考えていた。


 思えば小説の中で、テミス家の家族を深く掘り下げてはいなかったから、ディミトリオスが途中から家族に加わっていたとしても、物語に矛盾はない。

 だとしたらやはりこの世界は「ローザリアの聖女」の小説の世界だ。

 そうしてわたしはイリス・テミス。物語の通りなら、偽の聖女として処刑される未来が濃厚だ。


 だとしたら、ディミトリオスが現れても、赤ん坊の頃に抱いた決意と同じく、わたしのやることに変わりはない。

 エルアリンド公がミランダと再婚しないように、アレンの死を防ぐ。

 聖女にされそうになったら、全力でアリアを探し出して、彼女こそが本物なのだと世間に告げる。

 

 それが無理なら――無理なら、仕方がない。前世だって、たった一人で生きていくつもりだった。生まれ変わっても、そうすればいい。幸い体は丈夫だし、隠しているけど魔法は使える。

 きっと暮らしていけるはずだ。


「あの、さっき、いやって言って、ごめんね。本当はぜんぜん、嫌じゃないからね」


 言うと、ディミトリオスは小さく頷いた。


「ありがとう」

 

 それが彼がこの場で発すべき適切な応答かどうかは分からない。

 だけどまずは、今の状況をどうにかしなくちゃ。……ねえ、そうでしょう?

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― 新着の感想 ―
[良い点] 先に進むほど、この回は良いなと感じました。 ミランダおかあさんの、まだ娘らしい若々しさと、家庭に実直に向き合っている姿がよく伝わる。家庭内の健全な口論だなぁと思います。 その隙にオヤツを食…
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