聖女イリスは勝利した
“クリステル家を外し、ガモット家を将軍として戦場に配置する”
ファブリシオは一応、そういう風にオーランドに打診をしたはしたようだった。
だけど反応は当然芳しくない。とりわけサーリとルカの反発は強かった。厳格な身分制度の中で生きる彼らにとって、有力貴族を排除し、セオドア時代の寵臣を呼び戻すことへの抵抗感は凄まじいのだろう。
おまけにファブリシオは、一体誰の入れ知恵だとルカにねちねちと問い詰められ、わたしであることは隠したものの、川辺で二人で話していたことがどこからか漏れてしまった。
だからわたしはルカに、随分と白い目で見られたりもした。「戦争や政治にまで、聖女が口を出す必要はない」と面と向かっても言われてしまった。
少しずつ関係性を築きつつあったオーランドとの間にも気詰まりな空気が流れ、夕食後に部屋に呼ばれることは、しばらくなかった。
だめなら、別の手を考えなくてはならない。だけど現状、良い手は思いつかない。さあどうしようかと考えていたところで、吉報はやってきた。
それは帝都近郊の湖の上で繰り広げられる模擬戦を観戦していたときだ。皇帝に捧げる出し物は度々開催されていて、今日もサーリのお気に入りの貴族や軍人らが、湖の上でローザリアとスタンダリアに見立てた兵士に扮し戦っていた。結末は当然ローザリアが勝つのだけど、観戦する貴族たちは大声で応援していた。
わたしも船の上で、オーランドとともに試合を見る。その時に、ぽつりとオーランドは言った。
「ロゼ=グラスには、ガモット家を将軍として派遣することにした」
護衛も離れた船に乗り、わたしたちしかいない。まさかこんな時にそんな話をされるとは思ってもみなくて、束の間ぽかんとオーランドを見てしまった。
金色の髪は日に当たり、いつにもまして輝いている。正装に身を包む彼は、もう立派な一人前の皇帝だ。端正な顔には微笑みはなく、彼もまた、しっかりとわたしを見つめていた。
「つい先日まで、ルカ様は反対されていました。なのに、どうして?」
「イリス、あなたは勘違いをしている。私はルカの意見なく物事を決めることができるんだよ。彼がいくら反対の立場を取ろうとも、決定権は私にある」
「では、陛下がルカ様の反対を押し切り、わたしの意見を尊重してくださったのですか?」
オーランドは苦笑した。
「私があなたの言うことを聞き入れるのが、そんなに信じられないのかい?」
当たり前だけど信じられなかった。
彼はかつて、わたしの兄を殺そうとしていた人だ。軽蔑したし、嫌悪もした。
「正直に言えば、確かに、私も当初はクリステル家を将軍にせず、戦場を任せないという考えには反対だった。叔母が嫁いだ家でもあるし、長く将軍を任せていた彼らを外せば、当然波紋が大きくなる」
婚約者の顔を見つめながら考えた。小説の中のオーランドは、いつもアリアに優しかった。小説のヒーローも、目の前にいる若い皇帝も、同じ人物なのだとしたら。
このオーランドは、今まさに、ルカの庇護を出て、変わろうとしている最中なのかもしれない。
驚くことだけど、たった十三歳の娘に対して、オーランドは素直に本心を語っているようだった。
彼の言葉は続く。
「だが、ヘイブン聖密卿――彼が、口添えをした。父親の代ならいざ知らず、息子のアール・ガモットは既に改宗し、聖女派として洗礼を受けていると。帝国の地盤を盤石にしたいのであれば、そういう者も取り入れていくべきだと、意見を伝えてきた。教会がそう考えているのなら、我々としても言い訳は立つ。ガモット家復帰戦として、華々しい道を作ってやったのだと言えば、そこまでの反発は生まれないだろう」
「あの方が、そんなことを……?」
ローブで体を覆った、ローザリア教会における最高位の男性の姿を思い浮かべた。
司祭は、基本的には政治不介入だと思っていたけれど、宗教が絡むと違うのだろうか。確かに、改宗した者を再度起用すれば、未だに創造主派でいる者たちの改宗を推し進める契機にはなるかもしれない。
いずれにしても追い風だ。
「ありがとうございます。陛下」
「ああ、いいんだ。私はあなたが大切だから――」
そう言ってオーランドはわたしの手を取り、掌にキスをした。
ガモット家が帝都に入るのを許されたのは数日後だった。長い長い彼らの馬車の列が帝都を通り、家紋を見た市民たちは興奮に湧いた。花びらを振りまき歓迎していたのだと、後に行列を見に行った侍女の一人から聞いた。
少なくとも帝国民にとって、ガモット家の登用は間違っていなかったのだ。
わたしはオーランドと共に、アール・ガモットを玉座の間で待った。来たのは三十代と思しき、背の低い、太った男性だった。頭は薄くなっているし、大急ぎで来たためか汗を大量にかいていた。
「陛下! 聖女様!」
その男性はわたし達を見るなり走り寄ってきて、そのまま滑るように跪く。
「なんと感謝を申し上げればよいのか。このアール・ガモット。必ずや皇帝陛下と聖女様のために勝利を捧げます!」
側に控えていた誰かが小さく嘲笑する声がする。――田舎の没落貴族に国が救えるものか。見ろあの姿、家畜の豚のように肥えている。
オーランドより先に、わたしは動いた。王妃の座る椅子から立ち上がると、体を小さくして跪くアール・ガモットの前にかがみ込み、手を取った。
温かく、柔らかな彼の手は、小刻みに震えていた。
「ガモット将軍。どうかレッドガルド王国に勝利と幸福を、大陸に和平と安定をもたらしてください。あなたならそれが出来ると、陛下もわたしも、信じています」
わたしは知っている。失うものがない人こそが、強く戦えるのだと。彼の震えは恐怖からではない。戦いと勝利の興奮故だ。
その確信を裏付けるように、再び顔を上げたアール・ガモットの黒い瞳には、強い闘志が宿っていた。
まったくさざ波が立たなかったわけではなかった。
腹を立てたクリステル家は、なんと出兵しなかった。貴族のいくつかの家は、それに追従した。ガモット家起用の動きを、当然ながらよく思わない人たちもいた。宮廷の中にさえ反対派はいて――皇帝陛下は聖女の言いなりだ、なんてわざわざ聞こえるように嫌味を言う人間もいた。
博打であることには分かっていた。だけど現状それ以外に思い浮かばないことも確かだった。
アール・ガモットは、ガモット家の再起とばかりに奮い立った。
ロゼ=グラスへは、ガモット家に従う貴族たちや、かつての彼らの戦友としての軍人たち、それからこの戦場で手柄を上げ、オーランドの目に留まりたい、野心のある者たちが集った。
それが思わぬ効果を生んだのだ。
平野における士気は異常なほどに高かった。
圧倒的な、勝利だった。
「すべては、イリス・テミス様のために!」シュプレヒコールはそれだったと聞く。
派兵からわずか二週間後に、アール・ガモットは東方王を退け、スタンダリア兵をロゼ=グラスから、一人残らず駆逐した。
レッドガルドの東方王を捕虜とし、王都を奪還したと報せを受けた時、誰もが歓喜した。ルカ・リオンテールは冷静であったものの、その口の端はわずかに微笑んでいた。
小説とは違う未来が拓けつつあった。
ロゼ=グラス第二次対戦に、聖女イリスは勝利したのだ。




