イリス、すくすく育つ
気がかりなことはあったけど、この世界に来て楽しいこともたくさんあった。
たとえばわたしの体がとても健康だということ。
たとえばわたしを愛してくれる家族がいるということ。
たとえばこの世界には魔法があるということ。――でも全員が使えるわけじゃないみたい。
ミランダは使える。アレンは使えない。
生まれ持っての視力の良し悪しと同じように、魔法を使える人と使えない人が存在していた。
ミランダが、一度わたしに魔法を見せてくれたことがあった。両手をくっつけると、オレンジ色の火花を散らす魔法陣が空中に出現し、その中からキラキラと光が振ってきた。それは小さな氷だった。
「お母さまは、少しだけ魔法が使えるのよ。あなたは夏の子だから、雪が見たいと思って。
これはただの氷の粒だけど、冬になるとね、白いふわふわが、空から振ってくるの。不思議でしょう?」
びっくりしているわたしに向かってお母さまは得意げに言っていたけれど、どちらかと言えば魔法の方が不思議だった。どういう仕組み?
なんて思っていたら、お母さまは魔法についても解説し始めた。空気中の水蒸気を魔法によって凍らせて、氷の粒を作り出したようだ。雪国から瞬間移動で取り寄せたわけではない。
魔法は確かに便利だけど、あらゆることができるわけではなかった。後で知ったことだけど、瞬間移動は高度中の高度魔法で、大陸中の魔法使いでも、一人使えるかどうか程度のものらしい。
たとえば火を作るためには、可燃物と酸素、そうして熱が必要であるという法則は、前の世界もこちらの世界も同様だ。
力の強い魔法使いであれば、それらは一瞬にして生成可能だろうけど、ミランダのように魔法が使える一般人の場合、可燃物をまず用意して、魔法陣を錬成して、熱を与えなくてはらない。
だとしたら、マッチを使って火を付けるのとそう変わりはなくて、むしろ、体力を消費する分、魔法を使った方が不便だということもある。
だからミランダがわたしに氷を見せてくれたのは、愛情ゆえに他ならない。その日は雨が降っていて、氷を作るのがいつもより簡単だったせいもあるだろうけど。
小説の中で、偽聖女イリスは魔法の才能が秀でていて、いわゆる天才と呼ばれる類いだった。
だから聖女と嘘を吐いていても、気がつかれなかったのだ。当の本人さえ嘘に気付かないほどに、聖女に近い、強大な魔力を有していた。
もしわたしがそのイリスなら、このわたしにも、魔法が使えるのかしら。
お母さまの魔法を見たその日、そんなことを思いついて、人がいなくなった瞬間、天井に向かって手を翳してみた。
お母さまは魔法陣を錬成していた。
円が何重にも周囲に文字や模様が複雑に絡み合っていたけど、こんな感じだったかな――?
記憶を頼りに作り上げてみる。火を出してみようと思った。ほんのお遊びのつもりで。
結果から言うと大成功だった。
わたしの両手から火花が散った。考えていたよりも、ずっと太い火柱だった。衝撃で、体がベッドに沈み込む。火花は天井にぶつかり、部屋に広がり、カーテンに火を付けた。
言い訳じゃないけど、魔法陣なんて出なかったし、小さな火を作るつもりだった。火を受けたカーテンは瞬く間に燃え上がる。
あわや大惨事、となる前に、すぐにわたしの大泣きに気がついたお父さまとお母さまが血相を変えて部屋に飛び込み、使用人総動員で部屋を消火したから大事には至らなかったけど、一体どこに火種があったんだと、この事件は両親を大層震え上がらせた。赤ん坊が魔法を使うという考えは、常識ではないようだ。
結局火はカーテンの一部を燃やし天井を焦がしただけだったけど、お父さまはわたしの部屋を、自分たちの部屋のすぐ横に移すことに決めたようだ。
一方でわたしも決めた。
もう魔法は使わない。
どうして魔法陣を使わずに魔法が使えたのかも分からないし、偽の聖女にされないようにするためにも、魔法の才能がないことにした方がいいように思えた。
この事件の教訓は様々あったけど、一番の収穫はこれだ。お父さまの言葉だった。
「たった一人の我が子に何かあったら、俺たちは生きていけないよ」
聞いた瞬間、赤ん坊らしからずガッツポーズをして、叫んだ。
「きゃほーう!」
お父さまとお母さまがびっくりしてわたしを見たけど、喜びを隠すことはできなかった。
やっぱり、いないの!?
あの、不幸の元凶ディミトリオスお兄様が!?
それは幸福への確信だった。
そしたら、やっぱり本の世界とは違うんだわ!
ああ、神様、ありがとう! 本当にありがとう! わたし、この世界で幸せに生きていくわ!
◇◆◇
わたしの体はすくすくと成長して、三歳になった。
傍目から見ても、イリスはかわいい女の子だった。さらさらの銀髪に翡翠色の目。色白で、内面はともかく外見は儚げで、母親譲りの美しさだった。ディミトリオスのいないこの世界では、イリスはきっと幸せになれるだろう。そうやって、幸福な日々を噛み締めていた。
わたしの毎朝は、この挨拶から始まる。
「お父しゃま、お母しゃま。おはようございます」
朝食の席につく前に、スカートの端を持ち上げて、覚えたばかりの挨拶をすると、二人は破顔し、わたしに微笑み返す。
「おはようイリス」口々にそう言って、お母さまが続けた。「今日は何をするの?」
「きょうは、ミーシャと、あそびます!」
ミーシャというのは三歳になった誕生日にお父さまから贈られた猫のぬいぐるみだ。
舌っ足らずな話し方はわざとだった。
子供のかわいらしさに、大人のずる賢さ。自分が少しだけ悪い人間になったように思えたけど、人に好かれた方がいい。いざというとき、味方になってくれるかもしれないから。
両親の中のイリスは、大人の言いつけを守る、賢く明るい、いい子だった。
三歳になっても、両親の溺愛は変わらない。夫婦仲もいいけれど、弟も妹もまだいなくて、わたしはテミス家の一人娘として、両親の愛情を独占していた。
愛情をかけてくれたのは、両親だけじゃない。使用人たちもわたしがかわいいようで――大人に好かれる子供をわたしが演じているせいもある――いつも隠れてお菓子をくれる。
そんなんだから、わたしは信頼されていて、自由にお屋敷を歩き回ることができた。周囲からは遊び回っているように見えただろうけど、実際は情報を集めていた。主に自分を取り巻く状況についてだ。本や噂話、情報源はたくさんあったけど、もっぱらわたしは本から情報を得ていた。
これは使用人が噂していたことだけど、どうやらお母さまのミランダは、いいところのお嬢様だったみたいで、嫁入り道具に大量の本を持ってきているらしく、倉庫同然の小さな図書室がお屋敷の中にあったのだ。
絵本を読んでいるふりをして、図書室に入り浸り、歴史書から魔導書までを読み漁っていた。
まずこの国についてだ。名前はローザリア。
ローザリアの歴史について書かれた広辞苑の如く分厚い本が、ざっと十巻はあったから間違いない。
わたしはこれを読み始めていた。
所々読めない文字を飛ばして、二代前の皇帝セオドアで終わる十巻目から遡り、八巻までやってきた。
ほとんどは戦争の話で、誰々将軍が活躍しただとか、どこどこの国を占領しただとか、どこの貴族がどこの娘と結婚して領地を得ただとか――つまらない話。
必要なところだけを、拾っていく。
この国が帝国になったのは、二代前セオドアの頃。他国を吸収し、海の先に植民地もあり、山岳地帯も多いこの国の居住面積はさほどではないけれど、領地全て含めるなら、中々の大帝国といえる。
皇帝家はフォーマルハウト家。
小説「ローザリアの聖女」と同じだった……。
気を取り直して、別の本を手に取った。
聖女について書かれた絵本だ。
タイトルは「聖女さまのだいかつやく」。
遙か昔に大陸に聖女は現れて、争乱を終わらせ、平和の礎を築き上げた、その伝説が描かれている。彼女の名はシューメルナ。
彼女は不滅の魂を持ち、必要な時に必要な場所に現れるという言い伝えが残されている。本当かどうかは知らないけど、今の時代はアリア・ルトゥムがそれに当たるのだ。
暗くなりそうな心を無理矢理鼓舞した。
「イリスは聖女にならないわ。だってここは小説の世界とは違うもの。ディミトリオスがいないでしょう?」
声を出して、無理矢理自分に言い聞かせると、勇気が沸いてくる。わたしはミランダとアレンの子供の、ただのイリスとして、平凡な生を過ごすのだ。
「やって見せるわ! 今度こそ、長生きするのよ!」
その言葉通り、両親の愛を受け、わたしは有頂天のまま、大きな病気もなく過ごす――はずだった。
そのはずだったのに。




