ミルクに蜂蜜
こうして呼ばれ、夜、オーランドと話すのは初めてではなかった。オーランドは皇帝の役割を果たすべく、ほとんどの夕食を領主だとか貴族だとか、時には芸術家や平民と共にし、彼らの意見を聞いていて、多くは皇太后サーリやその弟ルカ・リオンテール、わたしも同席していた。
オーランドはそのまま別室で、招待客と長く話すこともあった。今日もそうだったから、きっと彼らとの会話が終わったところで、自分の婚約者のことを思い出したのだろう。
部屋に入った瞬間、背中に手が添えられた。
「やあ、イリス。眠るところではなかったかい?」
もしかして、扉の前で待ち構えていたの? まさかね。彼がわたしに興味を持つのは、わたしが聖女であるからで、わたし自身にではないんだから。
「もう少しで眠るところでした」
答えると、オーランドは満足そうに笑った。
出会った頃と変わらない爽やかな笑顔だ。本心から笑う時も、よからぬことを考えるときも、彼はいつもこの笑みを浮かべる。
金髪がちかちかと光る。もう見上げるほどの身長の違いがある。
「でも、陛下に呼ばれたら、いつだって参りますわ」
愛想笑いで返事をしておいた。
従者は下がらせ、部屋で二人、小さなテーブルに向かい合った。オーランド自らわたしのグラスにワインを注ぐけど、子供ぶって拒否をする。
「ワインはいりません。飲むと、お母様に叱られてしまいます」
本音を言うと前世からお酒は好きだけど、今日は気分じゃない。
「私が酒を注ぐのも、その注いだ酒を断るのもあなたくらいなものだ」
オーランドに気を悪くした様子はない。
「では茶でも持ってこさせようか」
「お茶を飲むと眠れなくなるので、いりません」
「じゃあ……水? それともミルクに蜂蜜をたっぷり入れた飲み物かい?」
「どうして知ってるの?」
途端に羞恥で顔が赤くなった。いつもこっそり侍女に頼んで作ってもらっているお気に入りの飲み物だけど、子供じみてるし、周囲には秘密にしていたのに。
「隠しているつもりだったのかもしれないが、イリスのことなら、何だって知ってる。なにせ私は、あなたの婚約者だからね。じゃあそれを作らせよう」
そう言うと立ち上がり、扉の外に控える従者に、本当に命じたらしい。ほどなくして金のグラスに入ったミルクがわたしの目の前に置かれた。氷もたっぷり入っていて、冷たくて美味しそう。
「さっきまで南方諸島の総督と話していたんだ。小さな島の住人に及ぶまで、イリスの話で持ち切りだということだよ」
夕食の席にいた男性を思い出した。本心かおべっかか知らないけれど、“聖女様”を褒め称えていた。彼は一度も、わたしの名前を呼ばなかった。
「イリスの話は誰もしていません。みんなわたしを聖女様と呼びますから」
オーランドは面白そうに笑い声を上げた。
「仕方がないさ。だってあなたは聖女様だから」
それからふいに、真面目な表情になる。
「あなたは大変よくやっている。ルカも褒めていたよ。なのにあなたは、微笑みの一つにも打算があるようだ」
「それは陛下も同じでしょう?」
彼の言う打算的な笑みを浮かべながら答えるけれど、今度は彼は笑わない。
「……イリス。私達はもっと分かり合えると思うんだ。結婚だってあなたが十六になるまでなど、待たなくてもいい。私は既に成人を迎え、ルカが後見人でもない。何もかも、自分の意志で決定することができるのだから」
テーブルの上のわたしの手の上に、オーランドの手が重ねられた。大きな手。温かい。感じるのはそれだけだった。
オーランドは言う。
「まだあなたの兄のことを怒っているのか」
正直言ってその通りだったから、わたしは沈黙した。オーランドは静かに言う。
「――あれはルカの考えだった。私は結局、彼の死を止めただろう。それに一度の過ちだ。もう数年も前のことじゃないか」
目に感情は出ていたんだろう。わたしの視線を浴びたオーランドは、躊躇いがちに、けれどはっきりと告げた。
「それでもあなたは私を愛する以外に、選択肢なんてない。あなたは私のものなのだから」
そのまま、手に、キスをされた。
そういう言葉でしか人を思う通りにしか動かせないなんて、悲しい人だと、そう思う。わたしは愛を知っているけど、オーランドが口にする愛とは絶対違う。
握られた手を引っ込める。グラスの中の氷がからりと溶ける音を聞きながら、わたしは言った。
「わたしは聖女として、あなたと国に尽くしていますし、これから先もそのつもりです。けれど陛下、あなたはいつか本当の恋に落ちるかもしれません。その時に、わたしがいては困るでしょう?」
オーランドは困ったように眉を下げる。
「まったく、どうして伝わらないのかな。私が愛するのはあなた以外にいない。初めて会った時に、これほど可愛らしい少女はいないと思ったんだよ。
その時から今日までずっと好きだと、そう言っているんだけどね。日に日にイリスは綺麗になる。宮廷中の男があなたを見ているんだ、あと三年も待てるはずがない」
「でも待たなくてはなりません、わたしの成人まで。だってあなたはローザリアの皇帝陛下。帝国の民の、模範にならなくちゃなりませんもの」
まるで聞き分けのない子供に、言い聞かせるような口調だ。
十五歳になったらアリアが現れて、オーランドと恋仲になる。成人は十六歳だから、わたしの結婚前に婚約は解消されるはずだ。
うまくすれば、十五歳より早くアリアを見つけられるかもしれない。今のところ手がかりゼロの本物の聖女様だけど、きっとこの世界にどこかにいるのだから。
「ああ、分かってる。分かっているさ……。待つ、そのつもりだ。だけど、あなたを見ると、怖いんだ。まるで私を――いや……」
オーランドはグラスからワインを飲む。今日はとりわけ血迷った発言を頻発するのは、酔っているせいなのかもしれない。
隙を見てわたしは言った。
「もうおやすみになられてはいかがですか? 南方諸島の総督は、お話好きで疲れてしまったでしょう?」
オーランドは、本心からか、少し笑った。
「ああ、彼は一方的に話していたから、相槌を打つ私は首が疲れたよ」
ようやく彼は眠る気になったようだ。
立ち上がるとわたしの手を引き、扉までいざなう。けれど開ける寸前で、彼はわたしを抱き寄せた。
「イリス、キスをしてくれ」
オーランドの頬に、そっとキスをしてみせた。
「いたしましたわ、婚約者様」
体を離す。
無言のまま、オーランドは立ち尽くしていた。
いつまで経っても扉を開かない彼の代わりに扉を開き、おやすみを言うためにまた部屋を振り返った。瞬間、彼は言った。
「どんなに拒んでも、あなたは私と結婚するしかない」
暗がりで、オーランドの表情の機微までは見えなかった。スカートの端を持ち上げて、わたしは静かに一礼する。
「拒んでなど、おりません。おやすみなさい、よい夢を――」
バタンと、扉は閉められた。




