彼女はまた、愛を知る
クロードに連れられたディマは、きっと安全にこの国を脱出するだろう。ローザリアを出れば聖女の兄でも異端の少年でもなくなり、危険は格段に減る。クロードがいるなら道中危ない目に遭うこともないはずだ。
この逢瀬が認められたのは教会の司祭たちの力が大きいけれど、オーランドが黙認しているということは、彼はもう、聖女を手に入れたと安心しているということだ。実際、お父様とお母様が城に残されている今、わたしが帰る場所もまた、そこでしかなかった。結局、すべて皇帝の思う通りにことは進んでいる。
帝都はもう暗かった。人々の生活の明かりが、家の窓辺に灯っている。
城に入り部屋に戻った時に、異変に気がついた。お母様がたった一人で、出迎えたのだ。
「おかえりなさい、イリス。ディマは、元気にしていた?」
「元気で、怪我もしてなかった。クロード先生と一緒に行ったわ。お父様は?」
答えないお母様の目は赤い。不安を感じ、もう一度問いかけた。
「お父様は、どこにいるの?」
「アレンは――……」
お母様は言いよどみ、唇を噛んだ。
それから彼女はわたしの手を引いて、部屋の中央に設置されたソファーに、並んで腰掛けさせる。冷たく細い彼女の手が、わたしの手に、ずっと触れていた。
「アレンは、戦場へ旅立ったわ」
聞いた瞬間、お母様の手を離し、わたしは立ち上がった。
「どうして!」
だってお父様は許された。エルアリンドは追放されて、ファブリシオも教会も、わたしの味方でいてくれる。なのになぜ。
「イリス、座りなさい。よく聞いて」
座り直すことなんてできなかった。張り詰めていた心はようやく静まったはずなのに、頭の中がぐちゃぐちゃで、上手く考えられない。
わたしが座らないから、お母様はそのまま言った。
「イリス。あなたの父親は伯爵の怒りを買い、異端者として兄は捕まった。それは何も、エルアリンド・テミスだけの考えじゃない。この帝国を支配しているのは、フォーマルハウト家とリオンテール家よ。彼らは聖女の持つ莫大な力を、支配しようと考えている。だから、罪が許されてもディマは遠方へ行かざるを得なかったし、アレンには戦場へ行くようにと、命令があった。彼らはあなたが身動きできなくなるように制御しようとしているの。家族を人質にしているのよ。そして現状、わたしたちに、彼らに抗う術はなかった」
「だ、だって、そんなの。そんなのお父様はさっき、ひと言も言わなかったわ!」
悲しそうに顔を歪めるお母様の表情で、すべてが分かってしまった。数時間前に、もう両親は、心を決めていたのだということを。
わたしが心配せずにディマと話せるように、何もかも隠して、明るく振る舞っていたのだと、ようやく気がついた。お父様とお母様が、ディマに伝言させた言葉は、そのままわたしに向けられていたのだ。
「そんな――」
じゃあわたしは、結局家族を守れなかったの?
力が抜けてわたしはその場に膝をついた。
お母様がわたしの横に来て、同じように床に座る。
「わたし、わたしのせいだわ――」
何もかも、変えられなかったの? 脳裏に、処刑台で見た幻が蘇る。死んだ父と、泣き崩れる母。不幸にまみれた、テミス家の姿が。
お父様は死ぬの? あの、お父様が?
お母様の手がわたしの背を撫でた。
「イリス、大丈夫よ。アレンにはまだあなたの守護魔法がかかってるから、誰にも傷つけられないわ。それにアレンはとても強いの。だから、生きてまた会えるわ。心配しないで待っててくれって、そう言っていたもの」
明るく言うけれど、お母様の声は震えている。それでも彼女は気丈に振る舞っていた。
限界だった。何もかも、わたしのせいだ。自分の感情さえも、制御できない。
「違うのお母様。わたし、知っていたの」
瞬間、自分でも止められず、ぼろぼろと涙が溢れた。お父様はいつだって明るい人だった。誰かを責めたり、不幸を嘆いたりすることなんてなかった。わたしの魔法が暴走して怪我をしたときだって、わたしを怒ることはなかった。
「イリス、泣かないで。悲しいことなんて少しもないわ。イリス……」
混乱のまま、首を横に振った。
「わたし、わたし、イリスじゃない――。イリスじゃ、ないの」
お母様の顔は困惑している。
「何を言っているの……? あなたはイリスよ」
「違う。違うの」
罪悪感が、涙とともに氾濫する。そうして、ずっと隠し通そうと思っていたことを、わたしは告白していた。
「わたし、イリスじゃない。わたし、前世が、あるの。
前世で、しょ、小説を読んだの。ローザリアの聖女っていう、この世界を舞台にした小説だった。
その中で、アレン・テミスは死んでいた。イリスは偽聖女として処刑されて……ミランダ・テミスも、そのせいで死ぬ。ディミトリオスは、最低の悪役になって、やっぱり死ぬの! 本物の聖女と皇帝のための物語の中で、テミス家は悪役だった……! ねえ、ミランダ。この世界は、小説の中の世界なのよ。皆、死ぬ、お話。そう、皆、死んでしまうの……! この家族が不幸になるって、わたし、知っていた。生まれた時から、ずっと知ってた。わたし知っていて、なのに、言えなかった」
「どうして……」
ミランダの声がする。どんな表情をしているのか、確かめるのが恐ろしくて、彼女の顔を見れなかった。
言葉を発する度に、胸が苦しくなる。自分の弱さと情けなさに、耐えられなかった。わたしは家族を愛している。イリスの家族なのに、自分の家族のように、彼らからの愛を欲してしまった。言えなかった理由は明白だ。
「い、言えなかったのは、言ってしまったら、だってもう愛してもらえない。わたしがイリスじゃないって知ったら、気味が悪いに決まってる……! わたし、自分で考えていたよりもずっと、あなたたちが大好きになってしまった。あなたたちが、自分のお母様とお父様と、お兄様だったら、どんなに幸せだろうって、そう思ってた……。わたし、前世で、捨て子だったの。家族なんて知らない。愛なんて、知らない。だからあなたたちからそれをもらって、もう、手放せなくなってしまった。自分でも、怖いくらいに執着しているの。こんな告白してる、今だってそう……! そう、なの……。
だけど、わたしがもっと早く、こうなるかもしれないって言っていたら、アレンは戦場になんて行かずにすんだかもしれない。いいえ、もっと早くに、わたしが家族の元を去れば、こんなことにはならなかった! そうしていれば良かったんだわ。……ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……! わたしのせい、わたしのせいだわ……!」
嗚咽が後悔と共に、外へと流れ出る。テミス家を不幸に巻き込んだのは、エルアリンドでもオーランドでも、なかった。この、わたしだ。イリスの中にいる、自分勝手なわたしだった。
「わたしが……わたしがいなければ、テミス家は幸せだったかもしれない――」
ごめんなさい。ごめんなさい。
口からは、謝罪の言葉が漏れ続けた。背中に置かれたミランダの手は、もうわたしの体を撫でていない。
「ディマも、知っていたのね」
沈黙の末に聞こえた彼女の声は、ずっとしっかりしたものだった。顔をあげられず、わたしが頷くと、ミランダがため息を吐いた気配がした。
「それで、よく、分かったわ。傍から見ていても、あなたたち兄妹の絆は、普通じゃないくらいに強かった。まるで、共通の言葉があるみたいに、目を見合わせただけで、互いの考えが分かっているみたいだった。聖女様が現れたと聞いた時のあなたたちの態度は、変だったわ。……そう、だから、なのね。ふたりとも、知っていたってことね……」
続いて、ぴしゃりとわたしの背は叩かれた。強い力じゃない。元気づけるような、そんな手つきだった。
「馬鹿ね、あなたは」
言ってミランダは、わたしの顔を両手で挟むと、無理やりに上げる。否応なく目が合うと、驚くべきことに、彼女は笑っていた。わたしを見て、優しく微笑んでいたのだ。
「馬鹿ね、本当に馬鹿よ。誰があなたをこの世に産んだと思っているの? 誰があなたに名前を付けたの? 誰があなたにミルクを飲ませて、誰がおしめを替えたと思っているの? ……あなたに魔法を見せて、この国の歴史を教えたのは、一体誰だと思っているの?」
言葉は遥か、遠くから聞こえてくるようだった。わたしは、彼女の顔ばかり見つめている。衝撃的だった。どうしてこれほどまでに温かな笑顔ができるのか、わたしには全然分からない。
ミランダは、また言った。
「前世があるからって、だからって、それがどうしたっていうの? 前世の世界で、この世界が小説だったとしても、じゃあそれがなんだっていうの? どうしてわたしがあなたを愛さないなんて思うの。わたしたちの関係は、そんなに簡単に、壊れるものだったの? ……そうじゃ、ないでしょう。
あなたの人生はあなたのものよ。あなたが愛しているわたしたちは、あなたの家族に他ならない。
あなたがいなくなったら、どこに隠れていたって全力で見つけ出して連れ戻すわ。あなたがイリスじゃないと言うなら、何度だって言うわ。あなたはイリスよ。
そして間違いなく、わたしはあなたの、本当のお母さん。十年前にあなたを産んで、今日まで一秒だって欠かさず愛してる」
彼女の両手が、わたしの小さな体を抱きしめた。
「……ずっと一人で戦ってくれていたのね――家族を、守るために」
温かな腕の中で、わたしは本当の子供みたいに泣きじゃくる。
「イリス、イリス。わたしのかわいいイリス、泣かないで。怖いものなんて、なにもないから、かわいい赤ちゃん……」
赤ん坊のころのことを思い出した。
イリスという名前で呼ばれることが怖かったし、自分はなんて不運なのだろうと嘆いてばかりいた。だけど、今はそうは思わない。
ミランダを愛している。アレンを愛してる。ディミトリオスを愛してる。――深く、深く、愛している。そう思える人たちに巡り会えたのだから、わたしはきっと、不運ではない。生まれてからずっと、幸福だったんだ。
お母様の手が、わたしの髪を撫で続ける。彼女はわたしが泣き止むまでずっと、そうして抱きしめてくれていた。大きな愛情に戸惑いながらも、わたしは多分、渇望していた。こんな風に、受け入れてもらえることを。
ようやくわたしは落ち着いて、こんなに号泣したことも恥ずかしいと思えるようになってから、のろのろと顔を上げる。そして上げた先にある壁に飾られた絵を見て――それがなんの絵であるか分かった瞬間、固まってしまった。
こんな時になって、わたしはやっと気がついた。昔抱いた、疑問の答えに。
だけどお母様は、もっと昔から知っているはずだ。
彼が家に来た時に、お父様と長い長い、話し合いをしていたのだから。
「……ねえ、お母様。聞いても、いい?」
壁には、昔の皇帝の肖像が掛けられている。使われていない部屋で、忘れ去られていただけなのか。それとも、誰かが仕掛けた牽制なのか。絵なんて見る余裕は今までなかった。けれど今、はっきりと見てしまった。
歴史書に白黒の挿絵があったから、彼の姿自体は知っていた。だけどどんな肌の色で、どんな髪の色で、どんな――瞳の色なのか、そんなことは、少しも知らなかった。
「ディマは、どこから来たの?」
壁に掛けられた肖像画。間違いなくそれは、創造主派としてローザリアの血塗られた歴史を築き上げた皇帝セオドアの姿だ。
わたしの目線を追ったお母様も壁を振り返り、そうして小さく息を呑んだ。わたしの思考に気づいたらしい。
赤い服に身を包んだセオドアは、皇帝一族らしく自信と誇りにまみれた表情で、悠然と前を見据えている。
その瞳は、夜空に浮かぶ月のような美しい黄金の色を放っていた。――それはディミトリオスの瞳と、よく似ていた。
ここまでお読みいただき本当にありがとうございます。
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二章はしばらくの後に再開したいと思います。引き続きお楽しみいただけますように!




