ヒーローなんかじゃない
ローザリア帝国の教会における最高位、ヘイブン聖密卿は、車椅子から、何かを囁いたようだ。彼の車椅子を押していたクロードが頷き、代弁者のように前へと進む。
「少年は罪を認め、心から悔いている。信心深い者の命を奪うことを、神はお許しにならないと、聖密卿はおっしゃっています」
大声ではないのに、クロードの声はよく通る。
クロードはわたしの隣にいるオーランドだけを見つめている。二人の瞳が交差して、しばらくの間、物言わぬ争乱があったかのように思えた。
やがて熟考するようにため息を吐いたのはオーランドで、片手を上げる。
「私は少年の罪を許そう。少年は悔い改めた。この聖女様の御前に、信じる心を取り戻したのだ」
わあ、と群衆が沸いた。慈悲深い皇帝の心に、誰もが感嘆した。
あらゆることが、起こり続けた。
聞いたクロードが、即座に処刑台の上に駆け上がり、ディマの目隠しと手枷を外した。わたしもすぐにディマのところに駆け寄ろうとしたところで、お母様に、腕を掴まれた。
「イリス」
お母様がかすれる声で言った。
「イリス、あなたがやるべきことをやりなさい」
もう彼女の背後に、ルカはいない。
目隠しが外されたディマが、勢いよくこちらを見たことに気がついた。
オーランドの前に、わたしは跪き、そうしてわたしが言うべきことを、言った。
「偉大なる皇帝、オーランド様。寛大なお慈悲に、感謝申し上げます」
本心とは、まるで違う言葉だった。
オーランドがわたしの手を取り、立たせ、引き寄せ、それから唇に、キスがあった。ディマが、鬼のような形相でこちらを見ている。
顔を離した後で、オーランドは、いつものように微笑むと、わたしにしか聞こえないくらいの声色で、そっと囁いた。
「これで、あなたが誰のものなのか、よく分かっただろう」
自分がどんな表情をしているのか、確かめることも恐ろしい。少なくとも心の中には、軽蔑と絶望と、怒りが渦巻いていた。
「あなたはディマを、殺すつもりでした。わたしの、兄を」
「まさか。あなたの兄を、殺すつもりなど初めからなかった」
嘘だ。事態は張り詰めていた。クロードがわたしの魔法を弾き飛ばさなければ、わたしはきっと、ルカを殺していた。一触即発の雰囲気だったのに、まるで初めから全て計算だったかのように、オーランドの余裕は崩れない。
オーランドはわたしの手を掴み、空高く掲げ、群衆に向かって高らかに宣言した。
「少年が悔い改めたのは、ここにいる方のおかげだ。この可憐なお方こそ、このローザリアに繁栄をもたらすべく天より使わされた聖女様だ! 名はイリス・テミス、私の妻になる方だ!」
信じられない奇跡に、広場に集まった人は皆沸いた。
感極まって涙を流しながら、拍手する者さえいる。押し合いへし合い、誰もがわたしを見ようと躍起になった。
どこまでがオーランドの企みで、どこからが別の者の企みなのか、少しも分からない。けれどオーランドは、この場で聖女の出現を、宣言するつもりでいたらしい。繋がれた手の揺るぎない強さが、それを鷹揚に物語っていた。
群衆達の大歓声の中、わたしはオーランドと共に馬車に乗り込んだ。
そうしてまた、オーランドはわたしに笑いかける。
「イリス、あなたはとても可愛らしい人だ。この世界を、自分の思い通りにできると思っていたのかい。だが、とんでもない思い違いだ。この世界は、フォーマルハウト家のためにあるのだから」
こんな場面でなければ、愛しい人に愛を囁く恋人に見えたかもしれない。
いつだってわたしは遅れて気付く。オーランドは、硬直するわたしの頬に、慈しむような優しいキスをした。
「顔が真っ青になってしまって、イリス。本当にあなたは可愛い人だ。あなたが私とこのローザリアに尽くす限り、我々はあなたを愛し、守ると誓おう」
小説の中のオーランドは、誰もが愛する皇帝だった。アリアにとっては、心を救う、光のようなヒーローだった。けれど……
「あなたは、ヒーローなんかじゃない……」
わたしの声は、群衆の歓喜にかき消される。オーランドは、穏やかに笑っただけだった。
◇◆◇
城に戻ってからすぐに、部屋に押し込められた。
初めにわたしに会いに来たのは、ファブリシオ・フォルセティだった。
「止めるには至らなかった。すまなかったね」
髭を撫でつけながら、そう言った。処刑場からそのまま来たのだろう。彼の服装は先ほどと一緒だった。
「あなたは何もしてくれないのかと思った。だって、素知らぬ顔をしていたんだもの」
非難めいた言葉に、ファブリシオは深いため息を吐いた。
「廷臣は常に仮面を着けていなくてはならない。陛下が右と言えば右を向き、左と言えば、疑いなく左を向く必要がある。たとえ内心で、どう思っていようがね」
「……陛下は、ディミトリオスを殺すつもりでいたのでしょうか」
「正直、陛下がどういうおつもりだったのか、私には分からんよ。だが子供を一人殺そうが生かそうが、彼らを脅かすものではないということだけは純然たる事実だ」
皇帝家にとって、ディマの生死なんて蚊をはたき落とすよりも興味のないことなんだろう。
言ってからファブリシオは、扉に目を向ける。外からは、人の足音が聞こえてきていた。
「私にできたのは、君らと親交のあった青年に連絡を取るくらいのものだった。実際、彼らが間に合わなかったら危ないところだったよ。不甲斐ないが、それが現実だ」
その言葉の次に、扉が開かれた。お母様の他に、二人の男がいた。そのうちの一人が目に入った瞬間、何もかも忘れて、彼に駆け寄った。
「お父様!」
「イリス!」
お父様がわたしを抱え上げた。さっきは兵士に向けて剣を抜いていたけれど、おとがめなしだったのか、無事な姿のままだ。
数日間離れていただけなのに、その赤毛は、随分と懐かしく感じた。お父様は目尻を下げる。
「イリス、宮廷で美味いもんたらふく食べたんだろう? ちょっと重くなったな!」
「冗談言ってる場合? お父様、本当に心配したんだから! 今までどこにいたの?」
屈託なく、お父様は笑う。
「クロードさんに匿っていただいていた」
言ってお父様は、もう一人の男に目を向けた。お母様とやってきたもう一人の男、クロードは渋い表情を浮かべている。
「こんな事態になっていたなんて。もっと早く知っていたらと、悔やみます。フォルセティ公からディミトリオスのことを知らされてすぐ、ヘイブン聖密卿に会いましたが、彼もこの騒ぎは知らなかったようですよ。処刑台にいた司祭は勝手なことをしたと、破門になりました。方々に手を回し、ディミトリオスの罪は無効だと署名をさせていたら、随分と時間がかかってしまいました。間に合わなかったと思うと、背筋が寒くなります」
お父様が真剣な顔をしてクロードに言う。
「あなたには何もかも助けていただいています。感謝こそすれど、謝っていただくことなど何もありません。
エルアリンドの部下を殺して、すぐに駆け込んだ帝都の大聖堂に、あなたがいなかったらと思うと恐ろしい。処刑されていたのは俺だったかもしれない。しかも大の大人だ。慈悲などなく、死んだだろうさ」
お父様はエルアリンドへの様付けを止めたようだ。わたしはクロードの青い瞳を見つめた。
「クロード先生は、どうして帝都にいたの? 西部司祭長なんでしょ?」
抱え上げられたわたしごと、お母様がお父様を抱きしめる。その体は今も震えていた。
「クロードがアレンを守ってくれていたの。ファブリシオ様が、クロードに連絡を取ってくれたことも、アレンが潔白だと教会が信じる助けになったのよ。
ファブリシオ様、このようなお取り計らいに、なんと感謝申し上げたら良いのか……」
小さく頷く髭面の男に対する感情は、少しだけ和らいだ。お父様に抱え上げられたまま、わたしはファブリシオに問う。
「じゃあ、あなたが裏から手を回していてくれたの? クロード先生があの場にいたのは、あなたのおかげ?」
「エルアリンド・テミス公の話はどうにもきな臭くてね。彼が帝都の司祭から聖女の心臓を半ば脅迫交じりに奪い取り、君たちの領地に向かったと知ったときに、クロード・ヴァリ司祭に使者を送った。
だから彼は、君たちが帝都に入ったのとほとんど同時に、来ていたんだよ。エルアリンド公のインチキを見破って欲しいと願いヴァリ司祭を呼んだが、君の兄さんを救って欲しいに、依頼はすり替わってしまったがね」
「……ありがとう。あなたはとても優しい人だわ」
わたしの言葉に、ふ、とファブリシオは笑いを漏らした。
「イリス、君も宮廷人になるのならば、そんなに簡単に人を信じてはいかんよ。私は本来なら、君の味方ではないのだからね。だが、君の必死さに、胸を打たれた。それだけさ」
「それで、ディマは、今どこにいるの?」
側にはいない。てっきり彼は解放され、両親と一緒にいるものだと思っていた。落ち着いた様子の両親から、ディマが危険な目にはもう遭っていないということは分かったけれど、心配は心配だ。
答えたのはお父様だった。
「ディミトリオスは大聖堂にいる。ヘイブン聖密卿の管轄内であれば、何者であろうとも手出しはできないさ。俺とミランダがディマに会うのは未だに禁止されているが、無事だそうだ」
ほっと、安堵の息が出た。いち早く会いたいけれど、ひとまずディマへの脅威は去った。
「わたしはディマに会えますか」
そう問いかけた時だった。今度はひどく煩い足音が扉の外に響き、間を置かずに、エルアリンドが現れて叫んだ。
「なぜここにアレン・テミスがいる! この男は捕まえ次第縛り首だ! 私の部下を殺したんだぞ!」
処刑場にいた彼もアレンの姿を見つけ、そうしてミランダと連れ立って宮廷に入ったということを知ったのかもしれない。
エルアリンドは怒り狂っていた。けれど、彼に呼応する者は、一人もいない。
しん、と静寂が訪れた。
勢いづいていたエルアリンドは、眉を顰める。
流石の彼も悟ったのかもしれない。この部屋に、彼の味方なんて誰もいないということを。




