どこにもいないお兄様
テミス家の大黒柱の父アレンは騎士で、この国での騎士の称号が意味するのは、貴族ではないけど、それなりに立場が認められている人、ということだ。
小説の記憶だと、身分のないアレンは、戦争で手柄を上げて出世しようと十五歳で戦場に出て、実際に将軍の命を守ったとかで、騎士の称号と、地方のわずかな土地を与えられた。
もっとも称号が与えられたのは、より権力を得ようとするテミス本家の思惑もあったようだけど。この世界でも、多分同じだ。
だけど実際のアレンは、権力欲から遙かに遠い場所にいる。目下、彼が大切にしているものは、このわたしだった。
今日もそう。ミランダお母さまが朝、わたしにお乳を飲ませているところに、彼はやってきた。
「やあ! 愛しい妻よ! 俺たちのプリンセスのご機嫌はどうだ?」
当然わたしは姫ではない。
彼がわたしをこう呼ぶのは、娘が可愛くて仕方がないせいだ。初めは戸惑ってしまったけど、もう慣れた。
上々よ、と答えるお母さまに、彼は満足そうに笑い返し、わたしを軽々と持ち上げた。
兵士だったから体は大きくて、そうして彼生来のものらしき性格の明るさが、この家でひときわの存在感を放っていた。わたしがこの父親を好きになるのに、時間はそうかからなかった。年はミランダと同じらしいから、二十代前半だろう。年若い領主様だ。
わたしを抱き上げたせいで、お父さまの赤毛の巻き毛が揺れる。
小説の中で、この家の長男ディミトリオスは“深い夜空のような黒髪”と表現されていたから、兄にもわたしにも、彼の赤毛は継承されなかったらしい。
このお父さまは、朝と夜、来ては必ず額と頬にキスをくれる。
お父さまの腕の中で、わたしはキャッキャと喜ぶ素振りをしてみせた。両親に接する普通の赤ん坊というのがどういうものか分からないけど、多分こんな感じでしょうというのを、いつも演じてみせていた。
家族なんて知らないし、愛なんてもっと知らない。
けれどいざというとき、彼らが力になってくれるのかもしれないのだから、媚びを売っておくのは悪くない。生き延びるために、家族だって愛だって、あるに越したことはない。
お母さまが言う。
「なんてかわいいの? この子は天使だわ」
お父さまも深く頷いた。
「イリスは俺たちの最愛の宝だ。生まれてきてくれてありがとう」
こそばゆい。
前世では、自分の力だけで生きていこうと思っていた。たった一人で、誰にも頼らず生きることが、正しさだと思っていた。努力して、努力して、ただひたすらの努力をした。
存在しているだけで感謝されるなんて、あり得ないことだった。
溺愛。その言葉が相応しい。
アレンとミランダは、とてもいい人たちだと思う。普通の家庭の両親たちも、子供が生まれたらこんなに愛するものなのか、前世捨て子だったわたしには分からない。少なくとも日々は平和で、わたしは順調に成長していった。
だけど、気がかりなことはあった。それは兄、ディミトリオスについてだ。
彼が、どこにもいないのだ。
もちろん、わたしはまだ生まれたての赤ちゃんだから、どれほど努力しだってハイハイもまだできなくて、お屋敷中を歩き回ることなんてできない。だからこの屋敷のどこにも兄がいないと断言することはできないけれど、それにしたって違和感はある。
乳児だからかもしれないけど、ミランダはわたしにつきっきりで、長男のところにいく様子はない。イリスとディミトリオスは二歳違いだったから、ミランダは二歳の男の子をほっぽり出してわたしにかまけていることになる。
なくないけど、このミランダの性格からして、子供を放っておくことなんてしないような気がするし、幼い長男がいたら、この子供部屋に連れて来て、一緒に面倒を見ようとするんじゃないかしら。
それに、アレンがミランダに「次は男の子がいいな」なんて言っていたこともあった。既に男の子がいるのに、そんなこと言うのかな。
だから、わずかな期待が頭をもたげる。
もしかして、いない? ディミトリオスが? あの欲にまみれた冷ややかな男が?
もしかして、違うの? ここはあの、小説の世界じゃないの?
だめよイリス。期待は禁物よ。わたしは自分に言い聞かせた。
前の世界だって、いろんなことに期待して、そうして見事に裏切られて来たじゃないの。
「おにーちゃは? おにーちゃ」
なんとか発音して問うても、喃語としてしか取り扱ってもらえない。お母さまとお父さまは、互いの顔を見つめ合って、幸せそうに微笑み交わしただけだった。




