失いたくない人
わたしがディマに会えたのは、それから二日後のことだ。一家揃っての逃亡を恐れたのか、お母様の同行は許されず、代わりに付いてきたのはフォルセティ家のファブリシオ・フォルセティだ。わたしの心が清いと言った割りに、終始疑念を隠さなかった、あの髭面の男性だった。
エルアリンドは脳震盪でも起こしたのか、しばらくの間眠り、起きてからわたしに文句を言おうとしたけど、その間に、話はどんどん進んでいたから、機会がなかったようだ。
灰色の石造りの塔。
夏なのに、入るとひやりと冷たかった。塔の横には広場があり、人々が憩いの場としている。あの広場で、イリスは首を切られたのだ。
ディマが閉じ込められていたのは、最上階だった。その姿が見えた瞬間、駆け寄る。
「ディマ!」
「イリス!」
わたしに気付いたディマはぱっと笑顔になって、間を置かずに抱きしめられる。
小説で描写されていた鉄格子はここにはなくて、兵士に見張られてはいたものの、ディマは部屋の中で自由に動き回れているようだった。ディマの体に暴力を受けた形跡はないし、その笑顔にも曇りはない。そのことに、わたしは計り知れないほどの安堵を覚え、次に罪の意識が込みあげる。
「ディマ、ごめんなさい。本当にごめんなさい! なにもかもわたしのせい。わたしが余計なこと、あなたに言ってしまったから……!」
「イリスのせいなもんか。僕が自分で下手打っただけだ」
そういうとディマは、わたしの体を離し、目を覗き込む。
「やつれた? ちゃんと眠れてるのか。エルアリンドにひどい目に遭わされていない?」
「平気よ。陛下がいてくださるから」
見張りで付いてきたファブリシオはそんなわたし達の様子を、部屋の入り口に隠れるようにして見つめている。
ディマは彼に気付いてさえいないように、顔を歪めた。
「……婚約したのか」
聖女は皇帝の妻になる。そんな掟が、この世界にはある。
「うん」頷くと、ディマの目が揺れた。隠すように彼は目を閉じた。
「……この塔にも噂は流れてきていた。聖女様が見つかって、オーランドと婚約したって。近くその存在を公表するんだってさ。皆、馬鹿みたいに浮かれて喜んでる」
「ディマ、皇帝陛下と言った方がいいわ」
ファブリシオが見張っている。報告されたくない。
不安を覚え言うけれど、ディマは再び目を開き、ほんの少しだけ寂しそうに笑って、わたしの目から流れかける涙を手で拭っただけだった。
「すっかり宮廷の生活が板に付いたみたいだ」
瞬間、馬鹿みたいに胸がときめいた。
ディマが触れただけなのに。
離れていたせい?
こんな牢での再会なのに。どうしてわたしの心は高鳴るの。理性が危険と告げている。この胸の鼓動は、心地が良くて恐ろしい。
ディマにもファブリシオにも気付かれてはいけないと思い、そうしてここに来たそもそもの目的を果たすため、わたしはいまだに頬に触れていたディマの手を取って言った。
「ディマ、聞いて。あなたは近く、処刑場に連れて行かれる」
その顔が恐怖に染まりかける前に、言葉を重ねる。
「だけど大丈夫、あなたは死なない。司祭が告解を迫るわ。その時に言って。“罪を悔いている”って。聖女を他の人と言ったのは間違っていたって、そう告解するの」
――告解し、罪を認め、悔い改めた者を許すことこそ、皇帝ではないでしょうか?
わたしはそう言った。
ディマを異端者として曝し、その罪を改めさせることで、信仰を高め、皇帝の慈悲を民衆に知らしめる。
無我夢中で思いついたその考えで、一応はその場にいた者たちは納得した。
「イリスは聖女じゃないだろ」
「だけど、今は聖女なの」
「違うって、自分は聖女じゃないって、あれほど言ってただろ。僕と一緒に、あの領地で暮らすって言ったじゃないか。年を取っても、ずっと一緒にって」
夢を見たのは世間知らずだったから。
夢を見続けるには、この世界はあまりにも強くて頑丈で、どれほどわたしの魔力が大きくても、壊すことができない。そう、きっとすぐには。
「わたしも、そうしたかった。だけど、できなかったの。わたしが聖女じゃないと言えば、異端で、家族皆殺されるかもしれない。そんなこと、耐えられない」
家族なんて知らない、愛なんて、もっと知らないわたしに、テミス家はそれを教えてくれた。だから絶対に、失うわけにはいかない。
「わたしの夢は、今も一緒よ。家族みんなで、いつもみたいに笑い合って、あの故郷で暮らすことだけよ……」
だから、処刑のふり。いつか訪れる幸福な未来のために、どれほど泥臭くたって、今を生き延びるしかない。
だれも彼も、タネを知ってる手品の中で、自分たちの役割を演じるだけの、寸劇だ。悲しいのは、泥にまみれるのは自分ではなくて、ディマだということだった。
「こんなひどいこと、本当にごめんなさい。でもお願い、ディマ。お願い――。あなたを失いたくないの」
ディマは黙っている。沈黙が恐ろしくて、わたしはまた言った。
「お願いよ……。それだけで、あなたは生きられる。わたし、あなたに生きていてほしいの」
数度息を吸って、吐く音がした。
小さな部屋で、わたしたちの呼吸は混じり合う。何度目かの息の後で、ディマはやっと答えた。
「分かった。分かったよ。言うさ。言えばいいんだろ」
ほっと、力が抜けた瞬間、ディマの両手が頬に触れ、一瞬のうちに、額への口づけがあった。急なことに、驚いて反応できないわたしに向かい、ディマは小さく笑いかける。
「……イリスと結婚するのは、僕だと思ってた」
「なに言ってるの、こんな時に――」
「前に、イリス、言っただろ。僕が強くなったって。あの時は言わなかったけど、僕が強くなったのは、イリスがいてくれたからだ。恐怖と不安に飲み込まれそうになるたびに、同時にイリスの温もりを思い出していた。背中に触れた小さな手を、思い出した。僕が強くなったと感じたなら、それはイリスがいてくれたからだ。人生なんてどうとでもなるって思えたのは、イリスがいてくれたからなんだ。
イリスはいつだって側にいてくれた。守ってくれてた、ずっと。だから僕が、今度はイリスを守りたかった。だけどできなくて、結局守られてばかりだ。……ごめん」
これはわたしたちの敗北だった。偽の聖女と悪役が、そんな未来を回避しようと策を練ったけど、あまりにも強大な渦の中で、必死の努力など飲み込まれてしまった。
だけどディマの黄金の瞳に、浮かぶのは、今はもう悲しみではなかった。静かな、闘志が宿るのが見える。
「イリスは僕に多くのものを教えてくれた。子供の時代が暗く塗りつぶされなかったのは、イリスが側にいてくれたからだ。イリスが僕に、生き直す機会を与えてくれたんだよ。だからイリスのためなら、誇りなんていくらでも捨ててやる。
オーランドが望めば、奴の靴の底についた犬の糞だって舌で舐め取ってやるよ。こんなの仮面劇だ。耐えられる。それぞれの役を演じればいいだけだ。なんてことない。僕はきちんと、役割を全うする」
瞳の中の強さに、ふいに心が溶かされる。
同時に胸の高鳴りが、またしても体の中に響き始める。だけど必死に気付かないふりをした。
キスを感じた額が熱い。ディマを見て、心臓が高鳴ったのは。
キスされて、嬉しいと思ったのは。
わたしの中にいるイリスのせい。
きっとそう。
勘違いをしてはだめ。この世界はアリアとオーランドのもので、その次に、イリスのものだ。ディマが言うとおり、これは仮面劇だ。わたしはイリスという女の子を、演じているだけなんだ。
「もっと大きくなったら、絶対にイリスを迎えに来る。その時こそ、ずっと側にいる。僕は強くなる。誰にも負けないくらい、強くなるから。だから、待ってて欲しい」
そう言ってディマは気丈に微笑んだ。
◇◆◇
処刑を回避した後で、ディマは異国へ行くことになる。宮廷から離れて、遠くへ行く。前に行こうとしていた神学校へ。
ほとぼりが冷めるまで、そこで学ぶことを、皇太后サーリがそう決めたのだ。それは、こんな騒ぎを起こさなかった、小説の中のディミトリオスも通った学校だった。
帰りの馬車も、しばらくは無言だった。けれど隣に座るファブリシオの、小刻みに震える体と、漏れ出た嗚咽に気付いた。
見上げると、唇を噛みしめ、彼は目を抑えていた。ぎょっとして尋ねる。
「……おじちゃん、泣いてるの?」
「いや、まさか。泣いてなどいない!」
強くそう言ったけど、すぐに彼は目から手を離した。その目は真っ赤だし、大量の液体が頬を伝っていた。
大人の男の人が泣くのを見たのは、前世でも今世でも初めてで、どうしたらいいのか戸惑っていると、彼の方から言葉を発した。
「ああ、泣いている! 泣いているんだ。私は今日ほど自分を馬鹿だと思ったことはない!」
言ってから、彼は自分の膝を殴った。わたしの体はびくりと震える。
「私にも、君たちくらいの年の、末の息子がいるんだ。君たちほど純粋ではないがね……」
ファブリシオは長い長いため息をついた。
「昨日の私はどうかしていた。君に対する態度も随分とつまらないものだった。イリス・テミス嬢、どうか許してくれ。私はあの、エルアリンド・テミスという男が大嫌いでね、それであの男が連れてきた君に、当てこすりのようなことを言ってしまった」
「別に、気にしてないわ。わたしも、エルアリンドは嫌いだもの」
それに聖女じゃないから、彼の疑念は当たってる。
「君と君の兄の姿を見て、よく分かった。ご両親がいかに愛情深く真っ直ぐに育てられてきたのかを。
本来幸せになるはずの子供達が、悲しみを抱えるようなことがあってはならん。このローザリア帝国に、断じてあってはならん! 私が昨日、あの場でそう言えばよかったのだ。いいや、エルアリンドがディミトリオスを捕らえたと聞いたときに、すぐに会っておくべきだった。そうしておけば、彼は単に妹を思いやるだけの兄で、異端の罪などないとすぐに分かったはずだった! 処刑のふりなどと、いらぬ恐怖を与えずにすんだはずだ! 私は、己の意地で幼い子を恐怖させた、そんな自分が最も許せない!」
外で馬車を操る御者に、聞こえないかとひやひやするほどの大声だ。
「胸を打たれた、本当だ! 君たちの力になることを、私は決めたぞ! エルアリンド・テミスなど、追い払ってしまえ!」
まあ、なんてことでしょう。ディミトリオスは、一時間もしないうちに、公爵の心を溶かしてしまった。そこは流石、小説のメインキャラクターというべきかしら。あるいはファブリシオが、単純に熱血漢というだけなのかしら。
あっけに取られるわたしの横で、それからもファブリシオは、馬車が城に到着するまでの間ずっと、わたしとディマのことを褒めちぎっていた。
降りてからも、彼はわたしの背中を何度も叩きながら言う。
「安心したまえ、イリス嬢! 君と君の兄のために、私ができることを最大限にしようじゃないか!」
随分と豪快な人だ。
だけど、同時に嬉しいと思った。貴族達だって一枚岩じゃないのだから、何かのきっかけで味方になってくれる人もいるのかもしれない。
だから、去っていく彼の背に、深く頭を下げた。




