ひと夏が終わる
クロード滞在の残りの日々、わたしはとうとう、ディマとともに授業に大人しく参加することにした。そうして分かったことがある。こと魔術に関して、クロード・ヴァリは確かに非凡だった。
魔力はわたしには及ばないとは言っていたけど、理論の面において、敵う人はいないんじゃないのかな。彼はいい先生だった。
彼のことを、よく知るようになった。
年は二十歳、生まれは帝都、幼い頃はリオンテール家に奉公していて、ミランダとも親交があったけれど、学力が優秀で、帝都の司祭の後押しもあり、神学校へも入らずに、教皇庁で司祭になった。
「君の魔力の強さには気がついていた。正しく使わないと、命が危ないだろうということにもね。どうやって君に魔法を教えようかと考えていたが、こうして来てくれて嬉しいよ」
そう言って、クロードは笑った。
わたしは、イリス・テミスについて考えることが多くなった。夜、部屋にある全身鏡を見ては、自分の輪郭をなぞる。
銀色の髪の毛、緑色の瞳、赤い頬――どこをとっても、愛されるために生まれてきたような可愛らしい少女だ。あんな死に方をしていい人間ではないように思えた。
イリスは、どんな人だったんだろう。
心が優しくて、清らかで、純粋。本当に、本当に可愛い女の子。わたしとは全然違う。わたしは清らかでも純粋でもないから。
だけどもしわたしの魂をこの世界に呼んだのがイリスだとしたら。そのことを、ずっと考えた。
小説の中で、イリスは自分の運命を受け入れているように思えた。だけど――。
「だとしたら、あなたは、本当は生きたいって、思ってるって、思っていいのね? だから、全然性格の違うわたしを体にいれたんでしょう?」
鏡の中の自分に向かって話しかけた。
返事なんて当たり前になかったけど、問いかけずにはいられない。
イリスは運命なんてちっとも受け入れていない。死にたくないって、そういう、普通の願望を抱いているって、思っていいんでしょう?
気が弱そうな顔が、不安げに見つめ返してくる。だけど、心は全然違う。
わたしの中に、本物のイリスがいるのなら。あの可哀想な女の子がいるんだったら。
小説の中と同じ運命を辿らせない。わたしはイリスを、自分のように愛して、絶対に守り通してみせる。どうせ一度は死んだ命だ。この世界はちょっとした延長戦に過ぎない。前世と同じように、この命だって戦い抜いてやるわ。
貪欲に幸せを求め、いつか本物のイリスが生きてもいいと思えたら、彼女に人生を返してあげよう。
運命を変えるために、彼女がそうして欲しいと望んだから、わたしは彼女の中にいるのだと、このところはそう思う。
「だったらわたし、あなたに感謝してる。だってまた生きられるなんて、思ってもみなかったんだもの。だから、そんなに心配そうな顔、しないで。わたしがあなたを守るから」
イリス、あなたは皆に愛されて、必要とされている。両親にも、兄にも、領民にも。だからあんな死に方、させるわけないじゃないの。
「二人で幸せになりましょうね、イリス」
言うと鏡の中のイリスは、少しだけ微笑んだ。
クロードが教皇庁に戻る頃にもなれば、わたしとディマの兄のようになっていた。
彼は誠実で、かなり真面目で、それ以上に優しい人物であるということが分かったから。
わたしたちは彼がとても好きだったし、彼も、公平であるという聖職者の理念を忘れ、わたしたちを可愛がってくれたように思う。授業だけじゃなく、領地内も三人で散歩した。森で昆虫を捕まえ、川で魚を釣った。もっと暑い日には水遊びもした。むせ返るように暑いこの夏中、彼はわたしたちの側にいたのだ。
彼から、たくさんのことを学んだ。
わたしにかけられている闇の魔術に関しても、事細かに教わった。世界の理を変えるような魔術が闇属性に分類される。
空間を繋げるとか、氷や炎を瞬時に出すのだってわたしに言わせれば理の外の力に思えるけど、どうやらそれは自然なもので、闇属性にはならないのだそうだ。
じゃあ何が闇属性になるかというと、たとえば死者を甦らせるとか、時を過去へと戻すとか、普通に生きていてそうはならない、この世にその事象を無理矢理生み出す、そういったものが理を変えてしまうものが該当する。つまりそれが、わたしにかけられている。
誰がわたしに魔術を行使したのか、一体どういう類のものなのか、クロードにも分からなかった。しかも前に彼が言っていたみたいに、わたしの中にある膨大な魔力を安定させる役割を担っていて、攻撃性のあるものではないのだという。だから心配はいらないとクロードは言う。
それに、ひとまずわたしがすぐに取り掛かる必要があるのは、別のことだった。
魔法陣を使わずに魔法を使うのは、赤ん坊のころ部屋を焦がして以来で、普通に使うと馬鹿みたいに大きなエネルギーになってしまう。繊細なコントロールの仕方を学ぶのが、わたしの喫緊の課題だった。
「魔術には、それに相応するだけの魔力があれば、ほとんど不可能はない。イリス、君の才能は、この国の上層部に目を付けられるかもしれない」
クロードはよくそう言っていた。
「だから、自分を守る術を持ちなさい。魔力ではないよ、頭脳の方だ。利用されるだけで終わる人間にはなってはいけないよ」
もしかするとそれは彼自身の哲学なのかもしれない。その教えは、胸に刻んでおこうと思った。
だから別れは本心から寂しかった。ディマもそうだ。最後の授業が終わったとき、名残惜しそうに言う。
「先生に教わったこと、ぼくは忘れません。また会いにいらしてください。それか、ぼくが会いに行きます」
クロードは笑って、ディマの頭を撫でる。
「ディミトリオス君。君はとても優秀な生徒だった。きっと出世するだろう」
それからクロードは、わたしに向き直ると、懐から何かを取り出した。
「これを持っていなさい。教皇庁のあるエンデ国で採れる希少な水晶だ」
それは小指ほどの小さな水晶柱で、紐がくくりつけてあった。彼はそれを、わたしの首に下げる。
「これは魔力を吸収し、溜めることができる特殊なものだ。だから、君の魔力が安定するまで、つけていなさい」
曇り無く透明な宝石は、日の光を通してキラキラと輝いた。
「高価なものじゃないの?」
問うと、彼はわたしの頭も撫でた。
「司祭である私が、特定の子供たちに肩入れはできないものなんだけど、君たちは私の生徒だ。だから、もし困ったことがあったらクロード・ヴァリを頼りなさい。いいね?」
結局彼は、わたしにかけられた魔術を解くには至らなかった。だから罪滅ぼしのつもりなのかもしれない。彼が罪の意識を感じることではないのだけど。
はい、と返事をすると、彼は満足そうに頷いた。
そうして一夏の終わりとともに、家庭教師クロード・ヴァリは去って行く。次に再会するときは、彼は聖密卿になっているかもしれない。願わくばそれが帝都での再会ではなく、この地での再会でありますように。




