きっと幸せになれるわ
状況を整理するだけの時間は生まれてからたっぷりあった。だってわたしは赤ちゃん。基本、眠っていることしかできないんだもの。
前世、わたしは日本人の女の子だった。
乳児院の前に突然捨てられていた赤ん坊がわたし。
でもそれを特別不幸だとは思わなかった。親がいなくても成長できる環境はあったし、周囲は同じような子供達ばかりだったから。
必死に勉強して、生きる強さを身につけた。十八歳で、施設を出た。働きに出て、自分の力だけで生きていたし、これから先も、そのつもりだった。
だけど、自分の努力だけでは、どうしようもないこともある。
幼い頃から体は弱くて、だからそのせいかもしれない。日中、ふと気を失ったところまでは覚えているし、死の感覚もあった。次に気がついたときにはこの世界に生まれていた。
この世界に生まれて、自分の名前を知り、自分の姿を鏡で確認してから、確信をしたことが二つある。
一つ目は、わたしは今世でも、決して幸せにはなれないのだ、ということ。
施設にあった、誰が寄贈したのか分からないその長編小説のタイトルが「ローザリアの聖女」だった。
作者の名前はええと、確か――ああだめ、忘れちゃった。子供の頃に読んだだけだし、生まれ変わった今、前世の記憶は少し遠い。でも、作者の名前なんてどうでもいいの、重要なことじゃないもの。
わたしはどっぷりとその世界にはまり込んだ。現実とは異なるその世界は、心を慰めてくれたから。
物語の、おおまかな話はこうだ。
大陸の西にある島国、ローザリア帝国に生まれたヒロイン聖女アリアと、ヒーローである皇帝オーランドを中心とした、魔法あり、戦いあり、ロマンスありのファンタジー小説。
要は、陰謀を全てあばき、アリアとオーランド、愛し合う二人が結ばれて、幸せになるまでの物語だ。
そうして物語には当然、悪役はいる。
…………。
物語中盤までは、テミス家という成り上がり伯爵一家だ。彼らがどうあくどいかというと、聖女アリアを差し置いて、自分の家の娘を聖女だと、皇帝に差し出すくらいにあくどい。
聖女は皇帝の妻になるという掟がある。権力を得たいテミス家は、帝国に聖女が現れるという預言があってからすぐに、娘を聖女として献上した。
テミス家の娘は魔力が強く、しばらくの間は気付かれなかった。本物の聖女アリア・ルトゥムが現れるまでは。
聖女アリアが現れてから、国は大混乱に陥った。二人の聖女のうち、どちらかが本物で、どちらかが偽者なんだから。
聖女のために多額の寄付をした富豪たちも、聖女のために祈りを捧げた教会も、聖女のために賄賂を横行させた貴族たちも、皆が皆、慌てふためいた。そうして偽者は、正体を暴かれる。
偽者はテミス家の娘だった。帝国中を騙していたテミス一家は裁かれる。
けれどただ一人だけ、テミス家の中で生き残った者がいた。
ディミトリオス・テミス。
家族が皆、処刑された中で、聖女の兄であり一家の長男の彼は唯一、このとき本物の聖女アリア側に付いた。
幼い頃から頭が良かった彼は留学の後に宮廷へと入り、皇帝の近習として仕えることになる。役割としては皇帝のライバルだ。
金髪碧眼の皇帝オーランドに対して、黒髪に金色の瞳を持つ男だった。ディミトリオスはオーランドのよき友であり、恋敵、つまりアリアに恋する男の一人というわけだった。――途中までは、そうだった。
途中までは、というのは、彼こそが、この物語における黒幕だったからだ。あろうことかディミトリオスは、自分こそが皇帝になろうと目論み、様々な陰謀をしかけていたのだ。腹の底まで真っ黒な奴!
欲深き冷徹なディミトリオスは、家族を切り捨てることで、自分の立場を守ったのだ。
でもそんな彼も、妹の処刑には病んだ。彼女は自分を聖女と疑わず、清らかで純粋なまま死んだから。
だけど彼の傷心も長くは続かない。彼が立ち直ったのは、本物の聖女アリアの献身的な慰めがあったからだ。
今までは出世のために利用しようとだけ思っていたディミトリオスの聖女への感情が、愛情へと変わったエピソードだ。
ディミトリオスもまた、皇帝になりたいという欲望と、アリアへの恋心の狭間で揺れ動く。
最終決戦の地は帝都の城だった。
アリアを誘拐したディミトリオスだったけど、オーランドとの戦いの中で城が燃え、燃える城の中、二人を生かすために命を落とした。最後は欲を捨て、アリアを愛しながら、死ぬ。そんな彼のラストシーンに、ファンも多かった。
だけど、考えてもみて。イリスが可哀想すぎない?
……つまり、偽者の聖女の死それ自体、ディミトリオスがアリアへの恋心を自覚する舞台装置でしかなかったってこと!
しかもそもそも、偽の聖女を信奉する皇帝の地位を揺るがそうと、本物の聖女アリアを連れてきたのはディミトリオス自身だった。結局皇帝もアリアを聖女と確信し、イリスを排除したのだから、痛手にはならなかったのだけど。
だけどディミトリオスは実の妹さえも、自身がのし上がるために蹴落とした。なのにイリスが死ぬと嘆き悲しむ。なんて奴? ひどい男!
そう、肝心なのは、このわたしのこと。
わたしが誰に生まれ変わってしまったか。それが重要なの。
もう分かるでしょう?
今世のわたしの名前はイリス・テミス。……そんなの、怒るに決まっているじゃない! 誰だってわたしの立場なら、神様の理不尽と己の運の悪さを嘆くはずだ。
前世、死の間際、神様に願った。
“もし生まれ変わったら、家族がいて、健康な体で、お金持ちに生まれますように”
それがどうしてこんなことになったの? 願いが叶っても、十七歳で死ぬことが運命付けられている人生なんて! しかも物語の悲劇の装置として? あり得ない!
そう叫んだけど、口から出たのは赤ん坊の声だった。
「だぁ! だあ!」
お母さまのお膝の上で、わたしは揺すられる。
「かわいいイリス? どうしたの?」
お母さまはいつもわたしをだっこしたがった。
乳母はいるのに、お母さまは隙を見つけてはわたしの側にやってくる。
じっとわたしを見つめるお母さまは、前世のわたしと同じ年くらいに見える。
若い母親。銀髪に青い瞳。かなりの美人だ。
わたしはイリス・テミス。
成長と共にテミス家から差し出される偽の聖女だ。
だけど、わずかに。わずかに、小説との違いはあった。
お母さま――ミランダ・テミスがとても優しいということ。
小説の中のテミス家は、互いに愛情を抱いているという描写はなくて、むしろ家族間は冷え切り、出世欲で結びついた絆があるだけだったように思う。
親子の愛情というものも、ほとんど表現されていなかった。
だけどそもそも小説でイリスは脇役だったから、幼少期が書かれているはずもなく、この家の詳細なんて知らないし、もしかしたらテミス家のミランダも、昔は優しく愛情深い人だったのかもしれない。
だとすると、母の性格を変えてしまう何かがあったということだ。そうしてその何かに、わたしは心当たりがあった。
テミス家の元々の家族構成はこうだ。
父、アレン・テミス。
母、ミランダ・テミス。
長男、ディミトリオス・テミス。
長女、イリス・テミス。
そうして父アレンは、イリスが皇帝に差し出される時期に死んでいる。小説では、事故で死んだと一節で触れられただけだ。
その後、テミス家には新たな主人がやってくる。
アレンの従兄弟に当たるエルアリンド公。領地を持つ伯爵だ。
ミランダの美貌と聖女の父親という地位を得るために、彼はテミス家に来たのだ。エルアリンド公こそ、欲まみれの最低の男で、まるで物のように、ミランダとイリスを扱った。
――希望はある、あるはずだった。
この世界に生まれて、自分の名前を知り、自分の姿を鏡で確認してから、確信をしたことが二つある。
一つ目は、わたしは今世、決して幸せにはなれないのだ、ということ。
二つ目は、だからこそ運命を覆さなくてはならない、ということだ。
未来のことは分かってる。アレンの死を防ぎ、ミランダに再婚なんてさせない。
もしわたしが聖女だと預言を受けたなら、全力でアリアを探し出して、彼女こそが本物なのだと言えばいい。それが無理なら、家出をして、どこか遠くで暮らすのよ。
――きっとできるわ。大丈夫よ。
小さな両手を握りしめ、決意を固めると、お母さまは愛おしそうにわたしの額にキスをくれた。




