混乱するイリス
数日で、クロードに対する考えを再び改めた。できればなるべく、顔を合わせたくない人に変わる。
彼はわたしへの授業を諦めることなく、わたしに魔法が使えることを信じて疑わず、それが使命であるかとでも言うように、わたしに魔法を教えようとした。幸いなのは、わたしに魔力があることを、やはり両親には黙っていてくれたこと。
クロードの話に興味がないわけじゃなかったけど、わたしは魔術の授業が始まると、いつも外に出ていたし、探されないように、隠れていた。
大抵は庭だ。色とりどりの夏の花が咲きほこる庭は、散歩していても飽きない。背の高い草木は、背の低いわたしを隠すのに最適だった。
そうしながら、小説の内容を何度も何度も反芻した。主に、テミス家の不幸の部分について。
イリスが聖女にならなければ、不幸は終わると思っていた。だけど、本当にそれでいいのだろうか。
ローザリアは絶対王政に近い。議会はあるけど、貴族議員だけで、国民の声はほとんど届かない。だからこそ、貴族達の握る権力は絶大だった。貴族なんて、この国の、一割にも満たないのに。
もしも、テミス家とテール家を滅ぼしたい誰かがいたとしたら――。話は単純ではなくなる。
ディミトリオスに野望を抱かせず、エルアリンドを義父にしない。それだけで防げる不幸ではないのかもしれない。
小説の中で、国政の要として登場した貴族達の名は多い。思い出せるだけでもフォルセティ家、ナツィオーネ家、クリステル家、リオンテール家、ガモット家……。
古い家、新興の家、入り交じっていたけど、皇帝に近づこうと、各々の陰謀を画策させていたことは、どの家も同じだ。
いずれも国中枢にいる名家だった。小説にテール家の名はなかったはずだけど、この世界において絶大な権力を握っていることは、歴史書で読んだ。
考えながら花々の間を歩いていると、剣を素振りするお父さまの姿があった。わたしに気がつくと、にっと笑う。
「おうイリス、勉強はサボりか?」
「お父さま!」
思考を止め、かけていくと、お父さまは剣を置いてわたしを抱き上げた。それなりに大きくなったわたしの体だけど、未だ軽々と持ち上げられる。朗らかに父は笑う。
「勉強が嫌なら止めてもいいぞ。ミランダに、子供たちへの英才教育なんて後でいいんじゃないかと言っているんだ。俺も勉強は苦手だったからなあ」
「ううん、イリス、おべんきょう好き! 今はまほうの授業だから、つまらないの」
お父さまは感心したように頷いた。
「頭がお母さまに似て本当に良かった」
「お父さまはお稽古?」
ああ、と彼は言う。
「腕が鈍らないようにな。敵が来ても、お前達を守れるように、いつだって備えておかなくちゃならん」
彼の腕の中にがっちりとだっこされたまま、その横顔を見た。余計な贅肉もなく、引き締まっている。見た目は少しもイリスに似ていない。
彼は腕の立つ剣士だったらしいけど、小説だとイリスが十歳の時に死んでしまうのだ。
赤毛がわたしの顔について、くすぐったくてもがくと、彼は笑い、わたしを下ろして、手を繋いで歩き始める。
彼はいい父親だ。優しくて、明るくて、この家の太陽のような存在だった。
だけど身分は低い。お母さまと違って。当然人間の価値は身分ではないと知っているけど、このローザリアでは身分差のある結婚はほとんどなされていない。
お父さまはお母さまをどうやって奥さんにしたんだろう。
以前から持っていた疑問をぶつけてみる。
「お父さまとお母さまはどこで出会ったの?」
わたしと歩調を合わせながら、お父さまは答える。
「帝都のお母さまのお屋敷でな。お父さまはエルアリンド様の小間使いで、リオンテール家に出入りしていて、それでお母さまに一目惚れしたんだ。あの頃のお母さまは、本当にかわいらしかったんだ。もちろん、今もかわいいけどね」
惚気の部分は聞き流す。
新たな疑問ができてしまった。
「お母さまの出身は、テール家じゃないの?」
お、とお父さまは、嬉しそうにわたしを見た。
「よく知っているな。前の皇帝、リオン様が即位されたときに、テール家は名を変えたんだ。今は、リオンテールと彼らは名乗っているよ」
その顔は得意げだ。娘に教える機会を得られて喜んでいるのだろう。
だけどわたしは喜べないどころか、内心の驚愕を、表情に出さないように必死だった。
リオンテール家。もちろん知っていた。
ヒーローであるオーランドの母、皇太后サーリの出身が、リオンテール家だったはずだ。皇太后を輩出した名家として、小説では味方側だった。もちろん、アリア側の。
「じゃ、じゃあ皇太后さまと、お母さまは、同じお家出身だってこと?」
お父さまは今度は驚いたようにわたしを見る。
「サーリ様のことを誰から聞いたんだ? お兄様か?
……まあ、だけどそうだよ。同じ家と言っても、昔、分かれた家同士だけどね。サーリ様が本家だし、俺は当然、お会いしたことさえない」
じゃあ、テール家……もといリオンテール家を滅ぼすために、お母さまを始末したということは、少なくともないということだ。だけど、この符号をどう考えればいいだろうか。
不穏が心を取り巻いた。
お母さまと皇太后が親族だった。ということは、イリスにとっても親戚だ。なのに彼らはわたしたちを助けることはなかった。
単に国家に背く者を庇いきれず、切り捨てたということだろうか。
それとも彼らにとって、イリスの死が意味を持っていたのだろうか。イリスが死ななくてはならなかった動機があるとでもいうのだろうか。イリスの死に、どんな――。
お父さまの話に適当な相づちを打ちながら、歩いていたときだ。ふいに、楽しげな子供の声が聞こえた。
ディマは今、授業のはずだ。このお屋敷に、子供は二人以外いない。なのに、声がした。
お父さまの手を離すと、不思議そうにわたしを見た。わたしの視線は、庭の先に向いていた。
「誰?」
子供がいた。
二人が遊んでいる。男の子と、女の子。
黒髪の男の子が、銀髪の女の子の手を引き、森の方へと走って行く。
「待って! 森は危ないわ!」
慌ててその後を追った。お父さまが何かを叫んだけれど、次に聞こえた子供たちの声でかき消される。
――来いよイリス!
――ディミトリオスお兄さまぁ、まってぇ!
一人はディマで、一人はイリスだと気がついた瞬間、血の気が引く。幻だ。
小説には、ない場面。
イリスとディミトリオスの幼少期の話なんて、わたしは読んだことがない。にもかかわらず、わたしは知っている。混乱していた。妄想だ。最近、小説のことを考えすぎて、ありもしない幻を見た。だけど妙に懐かしい。この胸の疼きはなに?
もう子供達はいない。幻視は消え失せる。
胸が痛い。苦しい。苦しい。
助けて――!
刹那、わたしは咳き込んだ。口から何かが出て、両手を見る。小さな白い手は、真っ赤に染まっていた。
血だ――。
脳裏に処刑台の映像が蘇る。斧で首を切られる娘。目隠しさえもされずに、自分の命の終わりを両目に焼き付けた、可哀想な女の子。なんの罪を犯していないのに。
わたしは自分が叫んでいることに気がついた。
自分の体から恐ろしいほどの質量を持った魔力があふれ出す。止めることができない。
お父さまが叫びながらわたしに向かって来ようとしても、わたしから流れる魔力が嵐のように彼を阻む。
ここから逃げたい。そればかりを考えた。だってここにいたら、イリスは処刑されてしまう。嫌だ、二度と死にたくないのに!
無我夢中でもがき、ひどい混乱の中で、わたしの体はどうしようもなく魔法に包まれた。




