家庭教師
長机に子供達と、家庭教師。向かい合って座ったまま刹那の沈黙が流れる。
午後の夏の日差しが背中をじりじりと焼いていたけど、冷たい汗が背を伝った。
ディマも面食らってしまったのか、すぐには反応できない様子だ。
「し、知らないよ。だってイリス、まほう使えないもん! 本当に使えないんだもん!」
やっとわたしはそう言った。
「クロードお兄ちゃんのいじわる! そんなこと言うなんてひどい、ディミトリオスお兄さまに使えてイリスに使えないこと、気にしてるのに!」
罪悪感を植え付けようと子供らしくかわいこぶってそう頬を膨らませてみるけど、クロードには全く効果がなかった。申し訳ない顔をするどころか、ますます眉間に皺を寄せる。
「誤魔化すんじゃない。私はこう見えて魔術の才能は幼い頃から認められてきたんだよ。自慢じゃないが、その人を見れば、流れる魔力がどれほどの力量かくらいは分かる。
それでイリス。君の才能はとてつもない。ディミトリオスや私など遙かに凌ぐ、おぞましいとさえ思えるくらいの魔力がその体に流れているんだ」
大人の前での態度と、子供の前での態度が異なるのは、彼もまたわたしと同じだ。
仮面を付けず、本心で話しているという点では、ある意味子供に寄り添う信用できる人間ともいえるけど、今、この瞬間だけなら、彼は敵だった。
ディマが助け船を出す。
「妹に魔法の才能はありません。毎日一緒にいるぼくがそういうんだから間違いありません。クロード先生の勘違いではないでしょうか?」
だけどクロードは首を横に振る。
「このまま魔法を使えないふりを続け、いつか暴走したらどうする? きちんと習い、制御しなくてはならないよ」
まったく理性的な言葉だったけど、魔法が使えることを認めるわけにはいかない。だって彼は両親に伝えるはずだ。そうしたら、いつか、わたしが聖女とされたとき、両親は悪気なくそう信じてしまう。わたしに魔法が使えたら、きっとそうだ。
だからやっぱりだめ。イリスは魔法が使えない。その前提を崩すわけにはいかなかった。
「ディミトリオスお兄さまの言うとおり。イリスは魔法が使えないし、使ったことないもん」
「使えるはずだ。使い方を教えるから、魔法を使ってご覧なさい」
クロードの頭の固さと来たら、わたし以上かもしれない。家庭教師として、自分の役割を果たそうとしているだけなんだろうけど。
「だって本当に使えないんだもん」
「なら、初めの質問に戻ろうかイリス。
なぜ、魔法が使えないふりをする? お父様とお母様にどうして秘密にしているんだ? 普通は隠そうとしても隠せないものなんだけどね。乳児期に、自然と出てしまうものだから」
ディマも黙ってわたしとクロードを交互に見ている。兄にしても、なぜわたしが魔法を使わないのか、疑問があるのだ。
なんて答えれば、この男を黙らせることができるだろう。沈黙は肯定に限りなく近い。納得させられるだけの理由を早く考えなくては。
思いつかない。仕方ない!
「だって、だってイリス、分かんない! クロードお兄ちゃん怖い! う、うわーん!」
わたしは泣き出した。気持ち的には本当に泣きたい気分だったけど、これは嘘泣きだ。
嘘泣きと気付いているディマは涼しい顔をしていたけど、クロードは初めてぎょっとした表情になった。
扉が開いたのはその時だった。
出て行ったばかりのミランダがひょっこりと顔を覗かせたのだ。
「どうかしら? 順調? やっぱり気になって、片付けをアレンに任せて来ちゃったわ。……あらあらイリス、どうしたの?」
涙を流すわたしに気がついて、頭を撫で、抱っこをする。お母さまの腕の中で、ここぞとばかりにわたしは訴えた。
「イリス、まほう使えないんだもん。使えないんだもん!」
背中がぽんぽんと叩かれる。
「お兄様ばかりの授業で悲しくなっちゃったのね? そうそう、イリスは魔法が使えないから退屈だと思って戻ってきたのよ。じゃあイリス、お母さまと遊びましょう。ほら、ミーシャがいるわよー!」
お母さまはそう言うと、片手に持っていたらしいわたしの相棒、猫のぬいぐるみミーシャを取り出し、裏声を使ってぬいぐるみを左右に振った。
「“ぼく、イリスと遊びたいな~!”」
わたしのために来たのは本当のようだった。笑ってしまったのは本心からだ。ディマも笑ったし、クロードも笑う。
ミランダはかわいい。本当にかわいい。大好きな人だった。
「うん! お母さまとミーシャと遊ぶ!」
だから勉強部屋の長机の端っこで、ディマとクロードの授業の邪魔にならないように、お母さまと二人、小声で遊ぶ。人形遊びをしたり、絵を描いたり。
こうしているのは、不思議な気分だった。わたしの精神は大人だから、子供のふりをしているだけだけど、ミランダといると、彼女が本当にわたしの母親のような気がしてくる。もちろんイリスの体を産んだのはミランダだけど、精神を産んだのは、前世の顔さえ知らない誰かだった。
もし、この世界で本当に生まれるべき、あの心の優しいイリスの体をわたしが乗っ取ってしまったのなら、本物のイリスにも、イリスを産んだミランダにもひどく申し訳なく思う。だからわたしは両親の前ではいつだって、本物のイリスの役割を続けていた。せめてもの罪滅ぼしのつもりだった。
聞き耳を立てていたクロードの授業は、理路整然として大層分かりやすかった。わたしとディマは主に本から魔術を学んでいたけれど、それだけでは理解が難しい部分もある。クロードは子供にも分かりやすく、実践を交えてくれたから、確かにわたしにとっても、有り難い内容だった。
とりわけクロードを信頼したのは、彼がアレンとミランダの前で、わたしに魔法が使えると疑っていることを一切黙っていたことだ。油断ならない人だけど、子供の秘密を守る人間であることは確かだった。
その、夜のことだった。
寝かしつけられた後に、控えめなノックの音がする。
「イリス、入っていい?」ディマだった。
「いいよ」そう言って招き入れる。
わたしたちは眠れない夜、しばしば互いの部屋を行き来していた。時々はそのままどちらかの部屋で眠りに落ちることもある。
燭台に魔法で火を灯すと、ディマの顔がちらちらと照らされる。ソファー代わりに、二人してベッドに腰掛けると、ディマは切り出した。
「ぼく、イリスのこと、大事だと思ってる。妹で、家族で、一番大事な女の子だから、ぜったいに、味方でいるつもりだ。何があってもさ」
ディマはいつになく真剣な顔をしている。両手はベッドのヘリを握りしめていた。
「前に、イリス、言ってくれただろ。自分がぼくの姉さんになるから、何でも話して欲しいって。でも本来は、ぼくが君の兄さんだ。だから、ぼくにも、なんでも話して欲しいんだ。イリスがぼくの味方でいてくれるみたいに、ぼくだって力になりたいんだよ。
どうして、魔法を使えることを秘密にするんだ。クロード先生はいい人だと思う。優しいし、教え方も上手だ。あの人に教わったら、きっともっと魔法だって上達するよ。お母さまとお父さまにだって話せばいいじゃないか」
ディマは思い詰めているようだった。
「ただ、隠してるだけならそれでいい。だけどイリスの性格的に、そうじゃないだろ。何か不都合があるんだろ? 不安なことがあるんじゃないのか。魔法が使えることが、何か、別のことにつながると思ってるんだろ。ぼくはそれが知りたいんだ」
真摯な言葉だったけど、わたしは首を横に振る。
「大丈夫、なんでもないの」
「イリス、話してくれよ。何が不安なんだ」
「……話せないわ」
ディマが目を伏せたのが分かった。
話せないのは、彼が信用できないからじゃない。いくら賢いとはいえ彼は子供だったし、自分の恐ろしい未来を知りたくないはずだ。それに……どちらかと言えばこっちの理由の方が強い。話すことで本当にその未来が確定的になりそうで、わたし自身が怖かったのだ。
「いつか、話すわ。いつか。それが必要なら。それか、全然そうならないって、笑える日が来たら。まだ分からないの。本当にそうなるかも、分からない。だけど、心の底から、全力でこの暮らしを守っていきたいの」
「イリスに魔法が使えることを秘密にすることが、この暮らしを守ることなの」
「それだけじゃないかもしれない。だけど、その一つではある」
「分かった」
自分を納得させるように、ディマは数回頷いた。
「だけど、一人で抱え込まないで。限界になる前にすぐに言えよ。必ず力になる。……ぼくは君が好きだから」
微笑みで返した。
その好きが、家族に向けたものか、恋なのか、分からない。だけど純粋なものから向けられていることは、分かっていた。いつかディマがアリアに出会って恋をする時――いいえアリアでなくても、本当に大切な人と出会えた時、余計な野望やしがらみや憂いもなく、心から愛することができますように。ただ、それだけを思った。




