味方たち
ルシオ・フォルセティ
ルシオはその日、大量の本を抱えて、ディマのもとを訪れた。いずれも彼から頼まれた本だった。
皇帝の書斎は、ローザリアの頂点に君臨する者の部屋にしては、ありえないほど乱雑に散らかっていた。外部の人間が入る応接間は一応は体裁を保っているが、寝室はすでに侵食されている。侵蝕者は、主には、本と、紙だった。
言語、魔術、鉱物、歴史、童話、霊魂――あらゆる分野の本が持ち込まれていた。すべて、イリスに関するものだ。
事実と推論を並べるならこうだ。
聖女の力は教皇庁の水晶間で生まれたものを利用している。
聖女の寿命は二十年。その後は水晶結晶となる。
水晶結晶を体に取り込むと一時的には聖女と同等の力を得ることができ、その間、真の聖女は力を失う。一回に一人というのが原則のようだ。
何者かによって時が戻されており、その何者かは、今もなお、代償を払っている可能性がある。
時が戻る前のルシオ・フォルセティが執筆した小説を別世界のイリスが読み、魂がこの世界に転生した。
前のイリスには、時が戻る前の記憶はなかった。
今のイリスには、時が戻る前の記憶しかない。
だがイリスの魂は、以前と同じ。
そうして、彼女の水晶化を阻む術は、今のところ、ない――。
夕暮れ時だった。
部屋にはディマとルシオの二人だけがいた。いつものように、どかりとソファーに座り込むと、ディマも向かいに腰掛ける。彼の表情は日に日に険しくなり、苦労の陰も濃くなっていた。
「彼女に戻ってきてほしいか」
そう尋ねたのは、ルシオ自身にも答えが出せなかったからだ。
ルシオは前の彼女のことが好きだった。守るべき聖女であり、頼りがいのある友人でもあり、親友の恋人であったからだ。反乱に共に加わってからは、ますます好きだった。なにせ、命の恩人だ。
前の彼女が消えてしまった喪失は当然抱えていたが、彼女のことだ、明確な意思を持って消えたのだと納得していた。それに、今の彼女も同様に好きだ。素直な可愛らしさがあり、同時に哀れさが掻き立てられた。
ルシオの問いに、ディマは瞳を暗くする。
「今のイリスと前の彼女、どちらがより大切かなんて選択を、僕はしたくない。でも、簡単に割り切るには、僕と彼女には思い出が多すぎる」
今のままのイリスを愛すると、彼は誓ったようだった。養父アレン・テミスから学ぶ騎士道的精神が、誠実でいることを彼に強要しているように感じる。
だが割り切れないのだろうと、一方でルシオは考えていた。寝る間も惜しみ没頭する様は、病的な執着のようにも思える。だから毎日、彼の様子を見に来ていた。
「別世界に存在した同等の魂がイリスとして引き寄せられたのか、二重に見えていて、今はそうでないのなら、そもそも二つの魂は同じ存在で、片方が消え、もう片方に吸収されたのか……。同じ魂だったとしても、性格も違えば記憶も違う。俺には魂なんて見えんから、クロード・ヴァリがお前の心を救ってやりたくて、適当ぬかしているだけにも思えるぜ」
ルシオの呟きに、ディマも反応する。
「イリスの残した手帳の中に、時戻りの魔術以外にも魔法陣がいくつか描かれていた。
一つはこれだ。時戻りの魔術と同じく、いかなる魔術書にも記載がないから、おそらくは前のイリスが創作したものだと思う。聖女は魔法陣を使わないから、思考を整理するために書き出したんだ。実際に使えるかは不明だ。少なくとも僕の魔力では無理だった」
得体のしれない魔法をよく試せるものだ。ディマが写し取ったらしい魔法陣が描かれた紙切れを見せられるが、ルシオにはさっぱりわからない。見たこともない術式だった。
「魔法陣の模様は……破壊と、肉体、分裂――か?」
意味の分かる箇所を読む。攻撃魔法でも一般的に使われるものだ。だが多くの術式は、見慣れないものだった。
「意味を取るなら、生命、肉体、新生、精神、破壊、反魂、統合、分裂、死……だと、思う」
「何を表す?」
「攻撃魔法の一種とも取れるし、いかようにもこじつけられそうではあるが、もしかしたら彼女らの魂に関するものじゃないかと考えている」
はあ、とルシオはため息を吐いて天井を見上げた。分からないことばかりではあるが、ルシオも、彼らの力になろうと真剣だった。
「ディマ、お前はどう思う? ヴァリが言っていたシューメルナの子供というのは、いかにも宗教家が考えそうな不気味な言い回しだが、聖女の体が水晶化するという事実を比喩的に表現したのか? それとも本気で、神秘的な力が働き、ミランダ・テミスの肚にシューメルナの子供が宿されたと考えているのか?」
「シューメルナの魔力と同じもので、イリスが作られたと先生は言った。先生には否定されてしまったが、聖女の水晶を飲んだアリアに力が芽生えたのなら、イリスも同じようなことをしたんじゃないかと思えてならない」
「水晶体を飲んだということか? だが適合したアリアでさえ、一年も体は持ちそうになかったんだろう。イリスはもう十六年近く無事に生きている」
「別の方法があるんだと思う。もっと危険度が少なく、バレにくく、本人さえも気づかない、持続力が長い方法が。イリスはシューメルナの子供なんてものではなくて、お母様の……確実にミランダさんが生んだ娘だ。あれほど外見が似ていて、他人だとは思えないだろう。
イリスが初めて魔法を使ったのは乳児期で、しかも魔法陣を使わなかったらしい。だとしたらイリスに魔力が与えられたのは、ミランダさんが妊娠している、胎児の時だと思う」
「元々の力じゃないってことか?」
「ああ。アリアに聖女の力があった時、イリスの力は皆無か、ほんの僅かなものだった。本来の彼女の魔力はそれなんだと思う」
「胎児にどうやって聖女の力を与えるんだ?」
「分からない。でも確実にあるはずだ。ネルド=カスタも、聖女を作れるのだと言っていたというだろう」
「それはアリアのようにだろ」
だがディマはきっぱりと否定した。
「いや、違うと思う。ルカ・リオンテールは僕を排斥するために急ぐ必要があったから、アリアや他の少女達に水晶結晶を飲ませるという方法を取ったが、ネルド=カスタがそんなもので聖女の誘拐と殺害を企てるとは思えない。スタンダリアに聖女が長期間君臨するだけの確証があった。だから、イリスと同等の力を得た人間が居たはずだ。だがルカは、ネルド=カスタの城でその人間を殺し焼き払った。だからあの実験場が燃えた直後に、イリスに力が戻ったんだと思う」
「胎児の聖女がいて、ルカは殺したというのか」
ルシオは眉を潜めディマを見た。ディミトリオス・フォーマルハウトは優秀な人間だった。彼の見つめる未来は遥か彼方で、時に大臣達でさえ、その考えを理解するのに苦慮していた。
だから今も、そうなのだろう。ルシオには妄言にすら感じられる彼の話は、きっと事実なのだろう。
遠慮がちなノックの音とともに、涼やかな声が聞こえたのはその時だった。
「お兄様? 入ってよろしいでしょうか」
イリスの声だ。ディマが立ち上がり、扉を開けるのを見ていると、開かられた扉の向こうには、意外にもイリスの他に、オーランドがいた。
「今まで二人でいたのか?」
ディマの問いに、オーランドが答える。
「ああ、私の屋敷で話した後、見送るついでに図書室に二人で居た。……なんだその顔は、不服そうだな?」
「別に……。さあ、イリス、お入り」
イリスは素直に頷き中に入り、ルシオに気づくと嬉しそうに微笑んだ。ルシオも彼女に微笑み返しながら、ディマとオーランドの様子を見守る。
この二人は、仲が良いのか悪いのか、さっぱり分からない。不穏な空気を醸し出したかと思うと、すぐに認め合うという、ルシオにしては不可解な関係性だった。少なくとも今は、不穏が前皇帝と現皇帝を取り巻いていた。
今日はオーランドの方がディマに突っかかっていた。
「何が不満なのだ? 私と二人きりになって何が悪い。彼女は君のものではないだろう」
このところの睡眠不足が、ディマを単純な男に変えていた。案の定、ディマは低い声で言う。
「何が言いたいんだ? じゃあ自分のものだとでもいうのか?」
「愚か者め、彼女は彼女自身のものだ。君は、イリスのこととなると、途端に腑抜けで間抜けになって、知能が落ちるな」
イリスが不安そうに二人を見ているのを感じ、思わずルシオは立ち上がる。
「ディマ、喧嘩するなら他でやってくれ。この書斎は神聖な研究室だぜ。オーランドにしても、お前がそれを言うのか?」
だがオーランドは、余裕の表情で一笑しただけだ。
「ああ、あそこまで悩み抜いた私だから言えるのだ。二人で逢瀬を重ねていたわけでは無い。かつてのイリスが読んだ本を追っていた。いくつか推論が立てられたから、共に来ただけだ。それに、見せたいものがある」
言ってから彼はディマの脇を抜け、悠々と部屋に足を踏み入れると、先ほどまでルシオが座っていたソファーに腰掛けて、懐からなにやら取り出した。
「すでにイリスには読ませたが、アリア・ルトゥムから私宛に届いた手紙だ。ルカの実験の全貌と、彼女の知識すべてが書かれている。
それから、これまた長い私への謝罪と、それにも増して長い長い、イリスとディミトリオスに向けての、感謝の意だ」
オーランドは、そこまで言うと、ディマを振り返り小さく笑う。
「君は以前の私のようだな、底なし沼を疑いなく突き進んでいる。私を沼から引き上げてくれたのは、ディミトリオス、君とイリスだった。だから君が沈みかけているというのなら、今度は私が引っ張り上げよう。さあ、四人揃ったところで、聖女の謎でも解こうじゃないか」
こいつ、物凄く変わったな、とルシオは思った。まるで光の使者のような面をしている。
神学校時代、腐っていたルシオが変わったように、無限の出会いで人というものは永遠に変わり続けるのかもしれない。
友情がこみ上げたルシオはオーランドに抱きつき、間を置かずして殴られた。




