蜘蛛の巣のような
瞬間浮かんでしまった本能的な嫌悪を、うまく隠せたか分からない。
エルアリンド・テミス――広大な領地を持つ伯爵で、その出世欲は天井を知らない。アレンの死後に、欲のためにミランダと再婚して、聖女イリスを擁立し、栄華を極めた後、破滅への道を爆走する男だった。
「どうしてお父さまの従兄弟がここにいるの? 領民とお友達だけを招いたパーティなのに」
敵意を声に含ませながら言うと、彼は苦笑する。
「それは私がお父さまとお母さまの友人だからさ。テミス家本家の者だから、彼らがなにかを行うときは、必ず知らせが届くようになっている」
それでわざわざ、領地からか帝都からか、この田舎にやって来たらしい。
エルアリンドはじろりとわたしの頭からつま先まで視線をすべらせた。絡め取られるような目付きに、妙に居心地が悪くなる。
「それにしても驚いたな。君は夫人にまるで生き写しだ。彼女の子供時代を見ているようだよ」
そう言って彼はお母さまに目を向ける。彼女は領民の奥様方と話に花を咲かせていた。
エルアリンドの目は、まるで飢えた狼のようだ。嫌なやつ。ミランダは若くて綺麗だ。彼がミランダと再婚するのは、聖女の父親になりたかった以外の理由もありそうだった。
「ミランダはテール家の令嬢だった。あの子が十代の頃は、誰もが彼女を射止めようと躍起になっていた。私が一手早かったんだがね、彼女に乗馬を教えたのは、幼なじみのこの私だったのだから。
それがまさか身分のない男と、駆け落ち同然で結婚するとは思わなかったよ。それも私の従兄弟の中で、一番だめな男と。……妊娠さえしなければ、きっと私と彼女が結婚していただろうな」
酔っているのだろうか。確かに彼が持つグラスは空だった。
だけど酔っているからってそれがなに? 失言のいいわけにはならない。いけ好かなさは頂点に達した。
「じゃあお母さまはあなたと結婚しなくて本当によかったんだね。だってお母さまはお父さまのこと大好きだもん。他の誰と結婚しても、今以上にしあわせにはなれないもの。賢い選択をしたんだわ」
怒るなら怒ればいい。子供に怒った男として、みんなに嫌われればいいんだわ。そう思って放った言葉だったけど、わたしの当てこすりは彼を小さく笑わせただけだった。
「どうやら性格の方はアレンに似たらしい。残念なことだな」
余裕ぶった態度がさらに反感を招く。けれどわたしが更に彼に食って掛かるまえに、間に割って入った人がいた。
「エルアリンド様ですね。妹が失礼をしましたか」
ディマだった。ちらりとわたしの方を見てから、またエルアリンドに向き直る。少女たちから逃れ、こちらにやってきたらしい。
エルアリンドは薄ら笑いをやめなかった。
「君がディミトリオスか。あまり両親に似ていないな。……いや、親族としてイリス嬢と仲良くなりたかっただけなんだが、どうやら嫌われてしまったようだ」
ディマも愛想の良い笑みを返し、わたしの手を握る。
「妹は、今まで家族と使用人以外の人間に、ほとんど会ったことがないんです。母に礼儀を叩き込まれたのですが、はしゃいですっかり忘れてしまったんでしょう。それに、このくらいの年の子は、誰だって人見知りをするものですよ」
「君はしないのかな?」
「ぼくは兄ですから」
年上の女の子たちに囲まれて、しどろもどろだったときとはまるで別人のように、ディマは物怖じせずにエルアリンドに対峙していた。エルアリンドは腕を組み、値踏みするようにディマを見る。
「兄ねえ……。不思議なのは、いつミランダが長男を出産していたのかということだ。君は八歳? この私さえ、当時君の存在を知らなかったのはなぜなんだい」
握るディマの手にわずかに力が込められる。
「無理もありません。両親はぼくを妊娠していたとき、必死に存在を隠したそうですよ。彼らはまだ子供ともつかない歳だったし、恋は秘密でしたから。それに、ぼくは体が丈夫ではなかったので、生まれてすぐに遠地へ療養に出されました。極秘出産の末、極秘に匿われたのがぼくでした。
だけどイリスを妊娠したとき、もう隠しきれないと結婚を決めたと聞いています。それのどこがおかしいのでしょうか?」
「まるで予めこう話そうと決めていたかのようにスラスラと話すね」
愉快そうにエルアリンドは笑い、さらに言った。
「なら聡明な君に教えていただきたい。赤毛の男と銀髪の女からどうやって黒髪の子供が生まれるんだ? 九年前、ミランダの側に黒髪の男がいなかったか、探してみたことはあるのかな」
彼はミランダが、アレン以外の男と浮気してディマを妊娠したと言いたいのだ。残念ながらその予想は大きく外れているし、蜘蛛の巣のように張り巡らされた見え見えの罠にハマるほど、ディマは愚かではなかった。
「黒髪が珍しいのですか? ぼくの曽祖母が黒髪だったと父は教えてくれました。あなたにとっても祖母ですが。
父はぼくを一種の先祖返りで、そういったことは珍しくないと言っていましたよ。あなたも息子を持てば、黒髪が生まれるかもしれない」
エルアリンドの顔色が、さっと赤くなるのが分かった。ディマが意図して言ったのかは不明だけど、エルアリンドは過去二人の妻を持ち、娘ばかりが生まれている。跡を継ぐ息子は一人もいないのだ。
ディマの言葉は彼を激昂させたらしかった。
「私の息子の髪が黒いものか、赤毛に決まっている! 黒髪は実に良くない。良くないものの象徴だ! そうだ、あの女、なんと言ったか……ローザリアの娼婦と侮蔑されたあの女だ。皇帝セオドアを誘惑し、皇妃の座を掠め取ろうとした……蜘蛛のようなあの女。あの女が、実に艶やかな黒髪を持っていた。君のようなね。ああ、そう、カミラ・ネストだ」
ディマの顔は蒼白になる。
子供をいたぶって遊ぶなんて、この男、碌なもんじゃないわ。我慢ならずに抗議しようと口を開きかけたとき、思わぬ助けが入った。
「エルアリンド公、あまり子供をいじめるものではありませんよ。人の家の事情に首を突っ込むのはいかがなものでしょう。
私も黒髪ですが、善なるものの象徴のような職に就いていますよ」
諭すような口調で声をかけてきたのは、黒服を着た、若い男の人だった。すらりと背が高く、色白で、黒い髪は品よく整えられている。柔和で優しそうな印象を持つけど、今は苦虫を噛み潰したような表情で、エルアリンドを見つめていた。
二人は知り合いのようだ。
立ち振舞いからして、農民ではなさそうに思えるし、洗練された雰囲気から、この田舎の人間でもないような気がしていた。
エルアリンドは不快感を隠さない。
「私はテミス家本家の人間だ。分家となったアレンのことを把握しておく必要がある。貴族に奉公していたあなたならお分かりでしょうが」
強い口調のエルアリンドにもひるむことなく男性は答える。
「さあ、私は聖職者ですから、貴族社会のことなど分かりかねます。分かることは、すでに幸福である人の家庭の子どもたちに、こんな顔をさせることを、聖女シューメルナ様はお許しにならないということだけです」
聖職者、という言葉を聞いて、改めて彼を観察した。なるほど確かに黒服は司祭が着用するものと同じだ。
この国――というか大陸のほとんどの国では広く聖女シューメルナが信仰されていて、各地に教会があり、両親も度々祈りを捧げに出かけていた。このパーティに司祭を呼んだとは、彼らも中々信心深い。
庭の一角で、突如として生じた不穏な空気に、さすがの両親も気がついたらしい。連れ立ってやってきた。
「エルアリンド様、クロード様、どうなさいましたか? うちの子供たちが粗相をいたしましたでしょうか」
代表して発せられたお父さまの問いに、エルアリンドは鼻を鳴らし、大股で歩き去っていった。場は収められたのだ。
だけど更に混乱した人間がひとり。わたしだった。
司祭の服を着たクロードという人間に、心当たりがあった。
わたし、この人のことを、知っている。知っている、というのは、小説を読んだからだ。つまり彼も登場人物だ。
「うそ……」
思わず漏れたつぶやきに、ディマがわたしを見たのがわかった。
現在、聖女シューメルナを信仰する国には、教皇庁から聖密卿という役職の聖職者たちが、一人ずつ派遣されている。彼らはその国の教会の頂点に立つのだ。ローザリアには現時点で、ヘイブン聖密卿という初老の男性がいるはずだ。
だけど小説では、将来、ヘイブン聖密卿は出世し教皇となり、ローザリアには新しくクロード・ヴァリ聖密卿がやってくる。
とはいえ、クロードの役割は敵でも味方でもない。クロードは皇帝オーランドを神の教えから導くために宮廷にいて、求められれば度々政治にも意見し、聖女とも近い場所にいたけど、あくまでも中立だった。彼が仕えるのは神であり、権力ではないからだ。小説においては世界観を説明するための存在であり、さほど重要人物ではないけれど、彼がここにいることに、わたしは動揺していた。
「お、お兄ちゃんは、領地の人なの?」
子供のふりしてクロードに尋ねる。
「いいえ、ご両親の友人です。国を巡礼していたのですが、近くの教会に滞在しているところに偶然会って、お招きいただいたんですよ」
ミランダがにっこり笑う。
「クロードはもともとはわたしの家に奉公していたのよ。姉弟のように育ったんだから。
でも、随分と出世なさいましたね。次の聖密卿はあなたではないかって、みんなが噂していますわ。最年少で指名されるんじゃないかって」
「まさか。私は司祭として地方を回るのが性に合っていますから」
親しげに二人は会話を交わす。
お母さまの言う通り、彼は後に最年少で聖密卿となり、ローザリアの教会の頂点に立つのだ。
クロード・ヴァリと、イリスの母親が友人だったなんて。そんな繋がりがあるなんて。
だけど、それが一体何を意味するのか、わたしには分からない。どのみち、小説ではその繋がりに言及されることさえなく、友人だからといってクロードがミランダの死を助けることもなかったのだから。




