ヴァリ聖密卿
イリス・テミス
お兄様がアリア様とお話しされている間、わたしはヴァリ聖密卿と小部屋で待っておりました。質素な部屋で、小さな丸テーブルを囲み、二人で向かい合い座ります。
わたしの目の前には、蜂蜜の入った冷たいミルクと、ジンジャークッキーが置かれております。
「どちらもわたしの好きなものです」
「以前は渡せなかったからね。今日きっと、ディミトリオスはあなたも連れて来るだろうと踏んで、準備していたんだ。こうして待ちぼうけになるだろうから」
不思議な気持ちになりました。わたしの知るヴァリ聖密卿は、わたしにこんなに優しくなかったものですから。どちらかと言えば淡白で、関わりも最小限でした。
彼はわたしとお兄様が幼い頃に、ひと夏、家庭教師をされていたそうです。領地で開かれたパーティで、お父様と盛り上がり、そういう話にまとまったと聞きました。
わたしの思い出にはないことでした。両親がパーティを開いた記憶はありましたけれど、ヴァリ聖密卿がいらっしゃったのかは、分かりません。幼い頃のことなので、忘れてしまっておりました。
「以前のわたしは、ヴァリ聖密卿と仲良しだったのですね」
感慨を込めてそう言うと、やはり彼は優しく笑ってくださいました。
「ああ、私はイリスのことがとても好きだったよ。今も、それは変わりない。ディミトリオスとあなた、二人のことを大切に思っている。大事な生徒で、友人だからね。それに、あなたの魂は、とても美しい。何時間でも、見つめていたいくらいだ」
わずかな驚きが生じます。司祭様というものは、神様と同じく平等で、特定の誰かに肩入れをするものではないと思っていましたから。
ヴァリ聖密卿は、わたしが以前のイリスとは異なる記憶を持っていることを知っております。それでも変わらず接してくださっているようでした。
「今までの記憶がないことを、気にする必要はない。どちらもイリスだ」
「お兄様は、そうは思っていません。わたしもそうは思えません。わたしと彼女は、あまりにも違いますもの。わたしが戦うなんて……。反乱のことも、まだ信じられません」
反乱ね――、そう言って、ヴァリ聖密卿は目を細めました。
「あなたも素晴らしかったが、ディミトリオスも実に見事だった。彼は自身の問題を、帝国民一人ひとりの問題にすり替えてしまったのだから。信仰、身分、貧富――あらゆる問題を個人間に落とし込んだ。だから皆、奮い立てたんだろう。自らの幸福の追求は、単純だが、何よりも強烈な動機だ。彼自身、意識していなかったのだろうが、人々に夢を見させ、惹きつけた」
やっぱり、知らないことでした。両手を膝の上で握りしめ、俯くわたしに向かい、ヴァリ聖密卿は声をかけてくださいます。
「以前のイリスと今のあなたが異なることが、それほど辛いかい。思い出の共有がなくとも、あなたが生きてきた時間が、消えてなくなったわけではないだろう」
それでも、答えられませんでした。必要とされているのは、わたしではないのです。お兄様に必要とされていない人生なんて、空虚でしかありません。
膝の上の手を、聖密卿は握ってくださいます。大人の男の人の手で、熱いほどでした。彼の黒髪が揺れ、わたしのことを、青い瞳が見つめました。
「イリス、あなたはどんな人生を歩んできたんだい」
どんな――。
答えに詰まってしまいます。わたしは一体、どんな人生を生きたというのでしょう。
「何だって構わないよ。あなたのことを教えてくれ」
温かな声色に背中を押され、ぽつり、とわたしは話し始めました。
「生まれたのは、お父様の持つ、小さな領地でした。お屋敷の三階には眺望のための小さなお部屋があって、夕焼けを浴びながら、そこで本を読むのが好きでした」
いつだって帰ることを夢見た、大好きな故郷です。
「お兄様がテミス家にやってきたのは、わたしが三歳の時でした。今日から兄になるのだと言われたこと、よく覚えています。血縁上は、わたしの従兄弟に当たるのだと、お父様はおっしゃっていました」
それまでお屋敷の外に出たことはなく、同じ年頃の子供に会ったのは、それが初めてのことでした。お兄様がフォーマルハウト家の血を引く方だなんて、わたしは知りませんでした。話しながら、どんどん思い出が蘇ります。
「わたしは嬉しくて、毎日、お兄様の後を付いていきました。お兄様は多少わたしが煩わしそうでしたけれど、いつも一緒に遊んでくださいました。他に遊び相手がいなかったせいもあるのかもしれません。
お兄様はとても優秀で、頭も良くて魔法の才能もありました。だから、領地の司祭様の推薦で、ミーディア国の神学校に行かないかというお誘いもありました。両親も、お兄様も乗り気でした。今思えば、お兄様はお母様と、あまり上手く行っていなくて、だから離れたかったのかもしれません。でもわたしが泣いて拒否してしまいました。だってお兄様のこと大好きでしたもの。離れ離れになるなんて、絶対に嫌でした」
「彼はミーディア行きを諦めたのか」
「はい。わたしの頭を撫でて、イリスが嫌なら仕方ないと言ってくださいました」
「あなたが聖女として発見されたのは、やはり十歳か?」
もう一度、わたしは頷きました。
「あの日、夜、エルアリンド様がいらっしゃって、聖女の心臓に触れてみろと。触れたら、赤く光って、だからエルアリンド様は、わたしを連れて行こうとしました。両親は抵抗しました。わたしが大泣きしてしまったせいかもしれません。帝都になんて、行きたくありませんでしたから……。結局その日、お父様が守ってくださって、わたしは帝都に行くことはありませんでした。でも――」
思い出して、声が詰まりました。ヴァリ聖密卿の握る手に、わずかに力が込められます。
「翌日、お父様は亡くなりました。夜道の見回りの時に、強盗に殺されたのです。
い、遺体は血まみれで、お母様は泣き崩れておりました。お屋敷に滞在されていたエルアリンド様は、その間に、わたしを帝都まで連れていきました」
お父様の死から、お母様は心を失ってしまったように思います。エルアリンド様と再婚されてからも、まるでお人形のように、彼に従っていたのですから。
それだけ深く、お父様のことを愛しておられたのです。わたしもそうでした。お父様を喪失したことは、深い傷となって心を抉り、生涯癒えることはありませんでした。
「それで……帝都に行ったわたしは、聖女としてオーランド様の婚約者になりました。何か失敗したら、お母様とお兄様を殺すと、エルアリンド様はおっしゃいました。だからわたしは、必死で、ただ、必死で――……」
思い出して、身震いしました。一つの失敗も許されませんでした。聖女として、常に自分以上のものにならなくてはなりませんでした。笑顔を絶やさず、人を憎まず、人を愛するように。
「神学校へ行ったお兄様と再会したのは、わたしが聖女になってから、五年後のことでした。お兄様は、とても優しかったんです。誰にも本心を語れない宮廷の中で、彼だけは陽だまりのようでした。いつもわたしを笑わせてくれて、逃げ道になってくださいました。わたし、たちまち彼に恋をしました。
彼だけが、わたしのことを、本当に愛してくださったの。一緒に生きることは叶わなくても、側にいてくださるなら、それだけで、わたしは幸せでした」
けれど、お兄様はアリア様を連れていらっしゃいました。
お兄様はアリア様に恋をされていました。そうだと、わたしは思っていたのです。
「アリア様が現れてから、わたしは日々、自分の存在が小さくなっていくみたいでした。だけどそれでも、構わなかったのです。お兄様がわたしのお側にいてくださるのなら、どうだって良かったのです。それで、だけど。でも、わたし」
そこからの記憶は、霧がかったように曖昧になってしまいます。
「裁判が、あって。ずっと、塔の中にいました。エルアリンド様が、はじめに処刑されました。つ、次は、お、お母様が」
あの光景が、瞼の裏に焼き付いて離れません。お母様も、首を切り落とされました。
震えながら、ヴァリ聖密卿を見つめました。
「その次は、わたしでした。わたし、わたし、処刑されたんです! 覚えています。その時の、孤独と空虚と、恐怖……。すごく、怖くて、痛くて、寒くて。
でも、その前のことが、ひどく曖昧で。塔の中で、わたし、何か、とても大きな感情の渦の中にいた気がするんです」
頬を伝った涙を、彼の指が拭っていきます。頭の中に、今も空洞があるみたい。その中を、覗き込んではいけないと分かっていても、わたしは言葉を止められませんでした。
「わたし、何かを、忘れているような気がするんです。ご、拷問がありました。毎日、毎日、痛めつけられて、その度に、治癒魔法をかけられました。治った体を、また痛めつけられて、また治されて、ずっと、その、繰り返し……。
だけどわたし、何も言いませんでした。だってわたしは、嘘なんて言っていなかったもの……!
そ、それで、お、男の人が、娯楽のようにわたしに触れて、何度も、何度も、わたしに触れて。彼等は、わたしを痛めつけることが、この上ない喜びであるみたいに、笑いながらそれをしたんです」
ついに座ってさえいれずに、床にわたしは崩れ落ちました。口から激しく嘔吐しました。なぜ、どうして忘れていたのでしょうか。あの恐怖を、あんな地獄を、どうして――。
気持ち悪い。気持ち悪くて、たまらない。それなのに、やはり記憶の反芻は止められません。混乱し、泣きわめきながら、わたしはヴァリ聖密卿に告白していました。
「その後で、お兄様が来ました。お兄様に苦しいことを忘れさせて欲しくて、わたし、彼に縋りつきました。光を求めて、彼なら、救ってくれると思って……!
でも、できなかったんです。苦しみは更に苦しみを生んだだけでした。わたしの希望は、お兄様がわたしのことを思い続けてくれることだけでした。そうすれば、きっと美しいまま、記憶の中で生きていけるって、そういう風に、思ったの。
だけど、またお兄様が、会いに来てくれて。一緒に故郷で生きようって、言ってくださったの」
嗚咽を繰り返すわたしの背を、ヴァリ聖密卿の温かい手が優しく撫でます。
「それで、それで……その後に、誰か来たように思うんです。でも、誰だか思い出せない。わたし、お兄様と一緒に故郷に帰るつもりだったんです。ほ、本当に、そうなの。でもわたしの体は汚れていて、わたし、お兄様に愛される資格なんて、ない……」
「私を見なさい」
そう言われて、顔を上げた瞬間、ヴァリ聖密卿の唇が、わたしの唇を塞いでいました。彼の手は、わたしの後頭部に添えられています。口付けは一瞬のことで、すぐに彼は体を離しました。
「え……?」
よく、分かりませんでした。さっきまで考えていたことが、彼方へ消え去りました。
「――……?」
「思い出したくないことは、忘れてしまいなさい」
彼はまたしても微笑みました。彼の目には、途方もない愛情が含まれているように感じます。吐瀉物も、そのままなのに。
以前のイリスは、ヴァリ聖密卿と気軽にキスをする間柄だったのでしょうか。
「愛してほしいという渇望を、一度でも抱いてしまうと辛いな。その欲には底がないのだから」
反応できずに固まるわたしを見つめ、彼は静かに言いました。
「檻の鍵は壊されていて道も示されている。なのにあなたは、逃げようとしない。だが苦しくなったら、いつでも私のところに来なさい」
彼の目を見つめ返しながら、そのことに気が付きました。
「あ、あの。あの、あの――……ヴァリ聖密卿」
けれどわたしが言葉を言い切る前に、突然彼は険しい表情になると、そのまま立ち上がり、お兄様とアリア様がいらっしゃる方を睨みつけました。
「まずいな。ディミトリオスがアリアを逃がすつもりのようだ。行かなくては」
それだけ言うと、性急に部屋を出ていかれます。まるでキスなんて、なかったかのような態度でした。混乱が続いておりましたけれど、しばらくの間の後で、慌ててわたしも後を追いかけました。




