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イリス、今度はあなたの味方  作者: さくたろう/「悪女矯正計画」1&2巻発売中
第四章 彼女に捧ぐ鎮魂歌

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愛する人よ健やかに

ディミトリオス・フォーマルハウト

 物音がし扉を開けると、部屋の前で、イリスが倒れているのを発見した。側には嘔吐していた形跡もある。

 ディマは戦慄した。今までの会話、すべて聞かれていたのだろうか。


 彼女の顔はいつにも増して青白く、血の気が引いていた。


 彼女を寝室に運び、医師とクロードを呼んだ。

 衰弱があると、医師は言う。休養を取らせろと。クロードも、医師と同じようなことを言う。彼が彼女に魔力を流し込むと、顔色はわずかに良くなった。


 眠っている彼女を、一層の美しさが包んでいた。お前に相応しくない、遠い存在なのだと言われているような気がしていた。


 イリスの魔力の使い方には、常に注意を払っていた。

 魔力を使わせ過ぎてもいないし、使わな過ぎてもいない。倒れたのは心労と疲労だとクロードは言った。魔力に関するものではないと。


 すぐに目覚めると医師もクロードも言ったが、数時間経っても彼女は眠ったままだ。

 使用人を全て下がらせ、二人きりになったところで、ベッドの上の彼女の、手を握った。


「イリス」


 名前を呼んでも、返事はない。


 無垢なる少女のように眠り続ける彼女は、一切の苦痛から開放されたように見える。真珠のような涙が閉じられた目の端に浮かび、ディマは指先でそれを拭った。


 近衛兵の話だと、ルシオとオーランドの後にすぐ、イリスが部屋に入ったらしい。だとしたら会話は初めから聞いてしまっていたのだろう。

 どこを聞かれたなど問題ではない。どこを聞かれても問題しかなかったのだから。


「イリス、すまない」

 

 謝罪の言葉は、誰にも届かず消えていく。


「君は、少しも悪くない。僕が、自分を憐んでいただけなんだ」


 眠る彼女の手を握る。血の通った右手の方で。

 オーランドから投げかけられた問いに、即座に答えられなかった。唇を噛んだ。


 愛する、愛さない。そんな単純な二択ではない。


 イリスの中に、イリスが見える。

 かつての彼女が恋しくて、今のイリスを愛そうとしているのか、今のイリスに恋をしているのか、ディマは自分でも分からなくなっていた。


 なんと愚かだったのだろう。部屋に別の人間がいれば、普段ならば気づいたはずだ。だが見逃してしまうほどに、自分自身しか見えていなかった。

 自分を憐んでいたまさにその瞬間、すぐ隣の部屋で、彼女がずたぼろに傷ついていることに、気づきもしなかったのだ。

 

 彼女を愛せないのか? 頭の中で問いを反芻する。


(――いっそのこと、そうだったらマシだった)


 彼女の手に、キスをした。その時だった。


「お兄様、手が、強いです」


 ぼんやりとした、彼女の声がした。

 イリスが薄く目を開き、ディマを見つめている。深い翠色の目を、随分と久しぶりに直視しように思い、その事実に気づいた時、己の残酷さを知った。自分は彼女を、見ようとしていなかったということに。

 

「イリス、良かった。痛いところはないか」


 感情を極力抑え問いかけるが、イリスはディマを見つめたまま、抑揚のない声で言う。


「お兄様は、言ったわ。時が戻ったんだって。わたし、時を戻した人、知ってる」


 驚嘆するディマを朧げに見つめながら、イリスは更に言った。


「可哀想な、人。救ってあげたかった」


「誰が――」


 だが再びイリスは目を閉じて、寝息を立て始め、朝まで目覚めることはなかった。



 

 一晩中、ディマは起きて寄り添い、彼女の手を握り、魔力を流し込み続けた。青ざめていた顔色は、朝になると再び色が戻ってきた。

 起きた時、彼女は自分の置かれた状況を理解するのに、少し時間がかかっていた。

 ディマに手を握られていることに気が付いて、飛び起き、顔を真っ赤にする。


「ひゃ! ディミトリオスお兄様!? ここ、どこ!? お兄様の寝室……!?」


 あまりの反応に、深刻な気分も忘れ、思わずディマは笑ってしまった。恥ずかしがる彼女を見て、素直な愛おしさが込み上げた。


「おはよう、体調が良さそうで安心した。朝食は食べられそうか?」


 彼女が頷いたのを確認し、準備をさせるために立ち上がる。だが部屋を出る手前で立ち止まり、振り返った。


「昨日、一度目覚めた時に言っていたことを、覚えている?」


「え? ええと、ごめんなさい。わたし、今までずっと眠っていたんじゃ……」


 数度目を瞬いて答える彼女に、嘘を吐いている雰囲気はなかった。


「時を戻した人を知っていると言っていた」


 更に目を丸くする彼女に向かい、言う。


「昨日の僕等の会話を聞いたんだろう?」


 イリスの顔は蒼白になる。


「ご、ごめんなさい、わたし――」


 ディマは再び彼女のベッドの横に行くと、床の上に跪き、頭を垂れた。


「謝るのは僕の方だ。どうか許して欲しい。昨日、僕が言ったこと、全てに対して謝罪する」


 暫くの間、返事はなかった。ディマは何度か、彼女の呼吸の音を聞いた。

 やがて、今にも消えそうな小さな声が、彼女から発せられた。


「お兄様……わたしの側にいるのが辛いなら、わたし、領地に帰ります」


 ディマは首を横に振った。


「だめだ」


「どうして?」


「君が好きだ」


「嘘です」


「本当だよ」


「嘘、です……。お兄様が愛しているのは、前にいた、彼女……」


 ディマは、否定はしなかった。


「ああ。僕は、彼女を愛していた。間違いなく、愛していた」


 イリスの華奢な肩が、震えている。


「前のイリスに、帰ってきてほしいから、わたしが邪魔なんでしょう?」


「違う、違うんだ。そんなことは思ってない」


「だけど、わたしに消えて欲しいのでしょう? 彼女を取り戻したいから」


 ディマは首を振った。今のイリスの消滅を、願っているわけじゃない。故に葛藤しているのだ。


「……僕は、納得したいんだ。なぜ彼女が存在して、そしていなくなってしまったのか、その理由が知りたかった。あまりに突然のことだったから、受け入れるのに時間がかかってしまった。だけど君に、消えて欲しいわけじゃない」


「どうして? わたしはお兄様が愛したイリスじゃないのに」


「ああ。そして僕も、君のディミトリオスお兄様じゃない」


 イリスの瞳が、果てしのない闇を孕んだように思った。


「わたし、もう、やだ……」


 囁くほどの声量でイリスは言うと、シーツに顔を埋めた。


「イリス、僕を見てくれ」


 髪に触れると、今にも泣き出しそうな、潤んだ瞳がぎこちなく向けられる。

 ディマは、告解人のように掌を組み、ベッドの上に置いてから、余すことなく伝わるよう、一つ一つ言葉を考えながら、言った。


「今まで、すまなかった。昨日、君が僕の部屋の前に倒れていて、僕は、自分の失態をようやく思い知った。君の寝顔を見つめながら、一晩、考えたんだ。僕が、どうすべきかを。……君の言ったとおり、君は、僕の知るイリスじゃない」


 イリスの大きな瞳に、見る間に涙が溜まっていく。だがディマが彼女に伝えたいことは、その先にあった。


「そして僕も、君の知るディミトリオスじゃない。残酷かもしれないが、僕は彼じゃない。考え方だって、多分、違っている。だからイリス、僕等は互いのことをよく知っているつもりで、全然知らない他人同士なんだ。

 僕等はあの日、あの夕日の見える帝都の橋の上で初めて出会って、そうして僕は君に恋をした。だから本当は、そういう、単純な話でしかないんだと、思う。彼女を愛していた。だけど、彼女は、自らの意思で姿を消し、そうして僕に、君を残してくれた。文字通り命を懸け守り愛し抜いた大切な君を、僕に残してくれたんだ」


 遂に彼女の瞳から涙が零れ落ちた。

 どうしたって、愛さずにはいられない。なぜなら目の前にいる少女も、イリスであるからだ。

 彼女を見つめながら、ディマは一つ、思い出した。


「僕は一度、君に会った気がする。スタンダリアの聖密卿からイリスを助け出し、ヘルへと戻る道中で、君は確かに彼女の中にいた。あの時、僕に話しかけてくれたのは、君だったんだろう?」


 イリスは何も答えないが、ディマは確信していた。この彼女も、今まで確実に、側にいたのだと。イリスの中に、イリスはいた。


(……彼女は、見越していたのかもしれない。僕が、今のイリスも愛するようになることを。あるいはそれを、切望していたのかもしれない)

 

 だとしたら、これは正しい感情なのだ。


(そうだろう、イリス?)


 ディマはイリスの頬に伝わる涙の一筋に唇を寄せると、そのまま、ゆっくりと口付けをした。

 初めてのキスだった。抵抗はなかった。彼女の瞳から、更に大粒の涙が流れるのを、ディマは見た。


「もし君が、僕をまだ見限らないでいてくれるなら、聞いて欲しいことがある。今日の一日を、僕にくれないか」


 イリスは、静かに頷いた。


 そうしてディマは、今のイリスに全てを語った。

 小説のこと、水晶のこと、何もかも、全て。

 多くは昨日、ルシオとオーランドに話した内容だったが、イリスはじっと、噛み締めるように、黙って耳を傾けていた。

 語り終えた時に、ディマは彼女に再び問うた。


「誰が時を戻したか、昨日の夜、君は知っていると言った」


 イリスは、力無く首を横に振る。


「ごめんなさい、わたし、全然、覚えていなくて。分からないんです」


 寝言だったのか、または彼女の心の奥底にある記憶が、何らかの形で表出したのか。いずれにせよ、本当に心当たりはないようだった。


 ディマももはや、彼女に対して秘密を持たなかった。それはやはり、初めてのことだった。

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