愛する人よ健やかに
ディミトリオス・フォーマルハウト
物音がし扉を開けると、部屋の前で、イリスが倒れているのを発見した。側には嘔吐していた形跡もある。
ディマは戦慄した。今までの会話、すべて聞かれていたのだろうか。
彼女の顔はいつにも増して青白く、血の気が引いていた。
彼女を寝室に運び、医師とクロードを呼んだ。
衰弱があると、医師は言う。休養を取らせろと。クロードも、医師と同じようなことを言う。彼が彼女に魔力を流し込むと、顔色はわずかに良くなった。
眠っている彼女を、一層の美しさが包んでいた。お前に相応しくない、遠い存在なのだと言われているような気がしていた。
イリスの魔力の使い方には、常に注意を払っていた。
魔力を使わせ過ぎてもいないし、使わな過ぎてもいない。倒れたのは心労と疲労だとクロードは言った。魔力に関するものではないと。
すぐに目覚めると医師もクロードも言ったが、数時間経っても彼女は眠ったままだ。
使用人を全て下がらせ、二人きりになったところで、ベッドの上の彼女の、手を握った。
「イリス」
名前を呼んでも、返事はない。
無垢なる少女のように眠り続ける彼女は、一切の苦痛から開放されたように見える。真珠のような涙が閉じられた目の端に浮かび、ディマは指先でそれを拭った。
近衛兵の話だと、ルシオとオーランドの後にすぐ、イリスが部屋に入ったらしい。だとしたら会話は初めから聞いてしまっていたのだろう。
どこを聞かれたなど問題ではない。どこを聞かれても問題しかなかったのだから。
「イリス、すまない」
謝罪の言葉は、誰にも届かず消えていく。
「君は、少しも悪くない。僕が、自分を憐んでいただけなんだ」
眠る彼女の手を握る。血の通った右手の方で。
オーランドから投げかけられた問いに、即座に答えられなかった。唇を噛んだ。
愛する、愛さない。そんな単純な二択ではない。
イリスの中に、イリスが見える。
かつての彼女が恋しくて、今のイリスを愛そうとしているのか、今のイリスに恋をしているのか、ディマは自分でも分からなくなっていた。
なんと愚かだったのだろう。部屋に別の人間がいれば、普段ならば気づいたはずだ。だが見逃してしまうほどに、自分自身しか見えていなかった。
自分を憐んでいたまさにその瞬間、すぐ隣の部屋で、彼女がずたぼろに傷ついていることに、気づきもしなかったのだ。
彼女を愛せないのか? 頭の中で問いを反芻する。
(――いっそのこと、そうだったらマシだった)
彼女の手に、キスをした。その時だった。
「お兄様、手が、強いです」
ぼんやりとした、彼女の声がした。
イリスが薄く目を開き、ディマを見つめている。深い翠色の目を、随分と久しぶりに直視しように思い、その事実に気づいた時、己の残酷さを知った。自分は彼女を、見ようとしていなかったということに。
「イリス、良かった。痛いところはないか」
感情を極力抑え問いかけるが、イリスはディマを見つめたまま、抑揚のない声で言う。
「お兄様は、言ったわ。時が戻ったんだって。わたし、時を戻した人、知ってる」
驚嘆するディマを朧げに見つめながら、イリスは更に言った。
「可哀想な、人。救ってあげたかった」
「誰が――」
だが再びイリスは目を閉じて、寝息を立て始め、朝まで目覚めることはなかった。
一晩中、ディマは起きて寄り添い、彼女の手を握り、魔力を流し込み続けた。青ざめていた顔色は、朝になると再び色が戻ってきた。
起きた時、彼女は自分の置かれた状況を理解するのに、少し時間がかかっていた。
ディマに手を握られていることに気が付いて、飛び起き、顔を真っ赤にする。
「ひゃ! ディミトリオスお兄様!? ここ、どこ!? お兄様の寝室……!?」
あまりの反応に、深刻な気分も忘れ、思わずディマは笑ってしまった。恥ずかしがる彼女を見て、素直な愛おしさが込み上げた。
「おはよう、体調が良さそうで安心した。朝食は食べられそうか?」
彼女が頷いたのを確認し、準備をさせるために立ち上がる。だが部屋を出る手前で立ち止まり、振り返った。
「昨日、一度目覚めた時に言っていたことを、覚えている?」
「え? ええと、ごめんなさい。わたし、今までずっと眠っていたんじゃ……」
数度目を瞬いて答える彼女に、嘘を吐いている雰囲気はなかった。
「時を戻した人を知っていると言っていた」
更に目を丸くする彼女に向かい、言う。
「昨日の僕等の会話を聞いたんだろう?」
イリスの顔は蒼白になる。
「ご、ごめんなさい、わたし――」
ディマは再び彼女のベッドの横に行くと、床の上に跪き、頭を垂れた。
「謝るのは僕の方だ。どうか許して欲しい。昨日、僕が言ったこと、全てに対して謝罪する」
暫くの間、返事はなかった。ディマは何度か、彼女の呼吸の音を聞いた。
やがて、今にも消えそうな小さな声が、彼女から発せられた。
「お兄様……わたしの側にいるのが辛いなら、わたし、領地に帰ります」
ディマは首を横に振った。
「だめだ」
「どうして?」
「君が好きだ」
「嘘です」
「本当だよ」
「嘘、です……。お兄様が愛しているのは、前にいた、彼女……」
ディマは、否定はしなかった。
「ああ。僕は、彼女を愛していた。間違いなく、愛していた」
イリスの華奢な肩が、震えている。
「前のイリスに、帰ってきてほしいから、わたしが邪魔なんでしょう?」
「違う、違うんだ。そんなことは思ってない」
「だけど、わたしに消えて欲しいのでしょう? 彼女を取り戻したいから」
ディマは首を振った。今のイリスの消滅を、願っているわけじゃない。故に葛藤しているのだ。
「……僕は、納得したいんだ。なぜ彼女が存在して、そしていなくなってしまったのか、その理由が知りたかった。あまりに突然のことだったから、受け入れるのに時間がかかってしまった。だけど君に、消えて欲しいわけじゃない」
「どうして? わたしはお兄様が愛したイリスじゃないのに」
「ああ。そして僕も、君のディミトリオスお兄様じゃない」
イリスの瞳が、果てしのない闇を孕んだように思った。
「わたし、もう、やだ……」
囁くほどの声量でイリスは言うと、シーツに顔を埋めた。
「イリス、僕を見てくれ」
髪に触れると、今にも泣き出しそうな、潤んだ瞳がぎこちなく向けられる。
ディマは、告解人のように掌を組み、ベッドの上に置いてから、余すことなく伝わるよう、一つ一つ言葉を考えながら、言った。
「今まで、すまなかった。昨日、君が僕の部屋の前に倒れていて、僕は、自分の失態をようやく思い知った。君の寝顔を見つめながら、一晩、考えたんだ。僕が、どうすべきかを。……君の言ったとおり、君は、僕の知るイリスじゃない」
イリスの大きな瞳に、見る間に涙が溜まっていく。だがディマが彼女に伝えたいことは、その先にあった。
「そして僕も、君の知るディミトリオスじゃない。残酷かもしれないが、僕は彼じゃない。考え方だって、多分、違っている。だからイリス、僕等は互いのことをよく知っているつもりで、全然知らない他人同士なんだ。
僕等はあの日、あの夕日の見える帝都の橋の上で初めて出会って、そうして僕は君に恋をした。だから本当は、そういう、単純な話でしかないんだと、思う。彼女を愛していた。だけど、彼女は、自らの意思で姿を消し、そうして僕に、君を残してくれた。文字通り命を懸け守り愛し抜いた大切な君を、僕に残してくれたんだ」
遂に彼女の瞳から涙が零れ落ちた。
どうしたって、愛さずにはいられない。なぜなら目の前にいる少女も、イリスであるからだ。
彼女を見つめながら、ディマは一つ、思い出した。
「僕は一度、君に会った気がする。スタンダリアの聖密卿からイリスを助け出し、ヘルへと戻る道中で、君は確かに彼女の中にいた。あの時、僕に話しかけてくれたのは、君だったんだろう?」
イリスは何も答えないが、ディマは確信していた。この彼女も、今まで確実に、側にいたのだと。イリスの中に、イリスはいた。
(……彼女は、見越していたのかもしれない。僕が、今のイリスも愛するようになることを。あるいはそれを、切望していたのかもしれない)
だとしたら、これは正しい感情なのだ。
(そうだろう、イリス?)
ディマはイリスの頬に伝わる涙の一筋に唇を寄せると、そのまま、ゆっくりと口付けをした。
初めてのキスだった。抵抗はなかった。彼女の瞳から、更に大粒の涙が流れるのを、ディマは見た。
「もし君が、僕をまだ見限らないでいてくれるなら、聞いて欲しいことがある。今日の一日を、僕にくれないか」
イリスは、静かに頷いた。
そうしてディマは、今のイリスに全てを語った。
小説のこと、水晶のこと、何もかも、全て。
多くは昨日、ルシオとオーランドに話した内容だったが、イリスはじっと、噛み締めるように、黙って耳を傾けていた。
語り終えた時に、ディマは彼女に再び問うた。
「誰が時を戻したか、昨日の夜、君は知っていると言った」
イリスは、力無く首を横に振る。
「ごめんなさい、わたし、全然、覚えていなくて。分からないんです」
寝言だったのか、または彼女の心の奥底にある記憶が、何らかの形で表出したのか。いずれにせよ、本当に心当たりはないようだった。
ディマももはや、彼女に対して秘密を持たなかった。それはやはり、初めてのことだった。




