イリスの平和
わたしの生活は、とても単調なものでした。
早朝に大聖堂へと向かい、時折、ヴァリ聖密卿とお話して、午前中の多くはそこで過ごします。午後になればわたしに会いたいという方たちにお会いして、可能な限り、彼らの願いを叶えました。
夕食は、お母様とお父様と一緒に三人で食べました。時々そこに、ディミトリオスお兄様が加わります。温かな家族の会話は心地よくて、わたしはこの時間が大好きでした。
わたしの知るディミトリオスお兄様は、両親のことを――とりわけ、お母様のことを嫌っておりましたから、こんな時間が、奇跡のように思えました。
お兄様は山ほどの侍女を、わたしに付けておりました。アリア様が現れて以来、わたしの側にいてくださる彼女たちは減ってしまっていたのですが、今は以前よりもずっと多くの人たちが、わたしの側にいました。
その中で、ひときわ幼く、可愛らしい侍女がおりました。アリア様の妹の、ライラさんです。
リオンテール家出身の母を持つ彼女は、わたしの遠縁にも当たるのでした。わたしは多くいる侍女たちの中で、彼女との交流を、最も多く持ちました。
時間の空いた日中など、彼女は頬を赤らめながら、囁くような小声でわたしに言います。
「イリス様、またお話してくださる?」
「はい、もちろんですよ。ライラさん」
お姉様がおらず、さみしい思いをしているのでしょう。わたしは彼女を向かいの椅子に座らせると、幼い頃にお母様から聞いたような童話を、度々語ってみせるのでした。
領地を出てから、わたしは孤独な子供時代を過ごしました。自分自身にして欲しかったことを、彼女にしただけなのかもしれません。
ライラさんはわたしの紡ぐお話に、目を輝かせながら聞き入ります。わたしと彼女の友情は、こうして少しずつ、育まれておりました。
段々と、暮らしに変化がありました。
オーランド様が、帝都郊外のお屋敷に招いてくださったのです。よく晴れたその日に、お母様と一緒に向かいます。
「お母様が側を離れないから、イリスは思い切り楽しめばいいのよ」
馬車の中でそう言って、お母様は、小さい頃と同じように、わたしの頭を撫でてくれました。だからわたしも、何一つ心配なく、オーランド様のお屋敷に向かうことができたのです。
貴族のどなたかが所有している屋敷の一つを、オーランド様が自ら買い取られたというお屋敷です。小ぶりではありましたが、洗練された雰囲気のお家でした。
出迎えたオーランド様は、わたしの手にキスをします。なんて無駄のない挨拶なのでしょう。
サーリ様はお庭にいらっしゃって、これから芽吹く木の枝に止まる小鳥を、見つめておられました。
「母上、二人が来ましたよ」
オーランド様の声に、サーリ様が振り向き、わたしとお母様を見て、ぱっと満面の笑みになります。記憶の中と同じく、儚げで穏やかな美しい彼女に、わたしはほっと、安堵の息を漏らしました。
何もかも記憶と違うこの世界で、変わらないものが嬉しかったのです。
「イリス、来てくれて嬉しいわ。ミランダも、二人共、ありがとう」
サーリ様はそうおっしゃってくださって、わたしとお母様の手を、交互に何度も握りました。握り返した際の手の細さに、彼女の苦労が現れているようで、胸がぎゅっと苦しくなりました。
庭にテーブルを出して、お茶にすることにしました。
美味しいお茶とお菓子に手を付けながら、サーリ様はそっとおっしゃいました。
「こうして会いに来てくれるなんて、とても嬉しいわ。まるでいつもと変わらない日常の中で、過ごしているみたい。敵味方に別れて争っていたなんて、嘘みたいに思えるの。
……わたくし、考えるのです。オーランドは生むべきではなかったのかもしれないと」
サーリ様の手は震えておりました。だからわたしは、考える前に彼女の手を握っておりました。
オーランド様はわたし達から離れた場所で、本をお読みになって過ごされております。会話は聞こえていないようでした。
けれどサーリ様がそう言われて、わたしはひどく、傷ついたような気持ちになりました。
「わたし、オーランド様に出会えて嬉しいです。だって大切なお友達ですもの。だから、彼は生まれてきて良かったのだと思います。彼を生んでくださったことに、感謝していますわ」
言うと、サーリ様は目に涙を浮かべました。
「イリス、あなたは、本当に可愛らしいわ。あなたの母になりたかったのは本心よ。あなたのこと、大好きよ……」
サーリ様の肩を、お母様は抱きしめました。
わたし達三人は、こうして長い間、ただただ、ひたすらにお話しを続けました。
ここには陰謀も、策略も、悪意もなくて、心からの慰めと友情があるだけでした。誰もわたし達を責めません。わたし達を見て、悲しむ人も、おりません。
サーリ様は宮廷での失敗談を語りました。お母様も負けじと、今まで出会ったおかしな人たちのことを身振りも合わせて話します。じゃあわたしも――と思ったのですが、お話できるほどの出来事は、そもそもないように思いました。けれどお二人は、わたしが何も話せなくてもまったく気にした様子はありませんでした。
不思議な平穏が満ちて、久しぶりにわたしはお腹の底から笑いました。
オーランド様はそんなわたし達の様子を、見守ってくださいました。
帰り際に、彼は言いました。
「あなたさえ良ければ、また来てくれないか。私もあなたに会いたい」
嬉しいと、素直に思いました。オーランド様の微笑みに、心臓がドキドキしました。誰かに優しくしてもらえることがこんなに嬉しいだなんて。
わたしは、二つ返事で了承しました。
それからも度々、サーリ様とお会いしました。
わたしの日々は、そうやってごくわずかながらも彩りを加え、過ぎていきました。
平和だったのだと思います。
時には聖女である立場も忘れて、心から笑うこともありました。けれどディミトリオスお兄様のわたしを見る瞳だけは、どうしても忘れることはできませんでした。
ルシオさんとオーランド様が連れ立ってお城にやってきた姿を見かけたのは、そのような折でした。中庭の木はすでに花を咲かせており、日に日に暖かくなっていく、そんな日のことでした。
お二人の目指す場所がどこかは存じておりました。
ディミトリオスお兄様のお部屋です。
だからわたしは――ああ、いけないことだと分かっていつつも、彼らの会話を、盗み聞きしてしまったのです。




