生きてこそ
オーランド・リオンテール
その日の内に言語学者が呼び出された。初老の男で、オーランドとディミトリオスを前にし、極短い間面食らったような表情を浮かべた後で、自らの職務に取り掛かる。
「九十近い表音文字と無数の表意文字が組み合わされております。上から下へ、あるいは左から右へ読むのは間違いありません。途切れ方かそうですから。
文法として、近い成り立ちの言語は存在しているのですが、この文字そのものの言語は、過去においてもありません。完全に未知なる言語で、発音さえも不明です。
それで大変申し訳ないのですが、分かっていることは実に少なく、とても半年では、解読できておらず――」
机の上に広げられたのは文字表のようなものだ。
オーランドはルシオとともにそれを覗き込むが、確かにさっぱり分からない。しかし傍らにいたディミトリオスだけは諦めてはいなかった。
言語学者が持つイリスの手帳をめくりながら、彼は言う。
「頻出している単語のいくつかは分かります。この文字が“聖女”だ。こっちが“世界”……これが、“家族”、“小説”だ。間違いない」
聞いた刹那に、学者の目が輝いた。
「ということは、この部分が“小説・・・・・・聖女”というものですか」
「はい。恐らくは“小説ローザリアの聖女”と書かれています。言葉を聞いたから間違いありません」
「それが分かれば、一気に進みますよ!」
だがオーランドの方は謎が深まるばかりであった。そんな小説、聞いたこともないし、過去にもないだろう。ローザリアに聖女が現れたのはイリスが初めてだからだ。
ディミトリオスはさらに手帳のページをめくった。
「人物名と地名はローザリア語だ」
隣から覗き込むと、めくられたページには、ディミトリオス・テミスとアグスフェロ・ヘイブンの名が並列されていた。別のページにはオーランド・フォーマルハウトの名もある。
「それから、魔法陣の写しか。魔導書には載っていないものだ、彼女の創作か――見たことのない魔法だ。……こっちの文字はローザリア語だ。……なにかの題名だろうか」
オーランドにも覚えのある題名だった。
「宮廷にいた頃、彼女が取り寄せた本だ。今も図書室にある。確か異国の童話や民話だったかと思うが」
「それがなんの意味があるんだ……」
ディミトリオスは考え込んだ。答えは出ない。
オーランドは彼に言った。
「そちらの本は私が探ろう。ディミトリオス、君は手帳の解読を進めろ。後で互いの考えを示し合った方が早い」
「ありがとう、心強いよ」
ディミトリオスに礼を言われ、思ったほど悪い気はしなかった。
「なぜ君が付いてくるんだ」
城の中庭を横切りながら、オーランドは背後のルシオにそう言った。
皇帝だったオーランドと、公爵の息子のルシオは互いに高い身分ゆえ、幼い頃からの顔見知りだが、オーランドの方はこの男の軽い性格を好いてはいなかった。オーランドが皇帝の座を辞した瞬間、馴れ馴れしい口調で語りかけてくるのも気に食わない。
「あっちにいても邪魔だろうしさ。なあそれよりも、オーランド、どうせ暇だろ、今晩、酒場に女を引っ掛けに行こうぜ」
付き合いきれず無視すると、先ほどと同様、半ば強引に肩を組まれる。
「なあ、おいって。イリスに振られて寂しいだろ、初めから彼女はお前に興味はなかったとはいえさ」
「もう一度死ね!」
腕を振り払い放った辛辣なオーランドの言葉にも、ルシオは声を上げて笑っただけだった。
やがて図書室に到着する。オーランドが残したその場所は、ディミトリオスによっても綺麗に整備されていた。
かつてここで襲撃があり、イリスは命を懸けてオーランドを護ろうとした。あの共闘ほど、心が熱く燃えた戦いはなかっただろう。今思い出しても、愛おしさが募る。
交わした情は、決して一方的なものではなかったはずだ。彼女と共に過ごした日々に、真の心は確かにあった。だが彼女は、その記憶もまた、失ってしまっている。
陽の光が、いつかのように、天窓を通して降り注いだ。
多くの輝きが、オーランドを包んだ。かつてこの帝国の頂点に君臨していたことが、すべて懐かしく、夢のように感じる。栄華は消え失せ、獅子の尾も獅子と同じく滅びた。
いつかは全て消えていく。あれほど激しく愛したイリスさえも、消えてしまったのだから。
しかし感傷に浸る間は、そうなかった。
本を手分けして探し、テーブルの上に並べ、順に二人で読み始める。
「ほとんど童話か。一体イリス様は、これから何を読み取っていたんだか。それとも面白くて、単に集めていただけか?」
「分からんが、彼女に通じるものであることは間違いない。何か気付いたなら伝えてくれ」
ルシオが微かに笑った気配がした。
「意外だなオーランド。お前がそこまで真剣に、ディマに力を貸すとは思わなかった。あいつはお前のこと、個の欲ではなく国の利を取ったのだと納得しているようだが、本当にそうか?」
手を止め、ルシオを見た。
己の欲を抑え国に尽くす、そこまでオーランドは純情ではなかった。
「私はあの男が心の底から怖いと思う。あれほど完膚なきまでに屈服させられたのだ。敗北などしたことのなかった私が、初めて恐怖し恐れた男だ。
そうしてその私ごと、彼は受け入れた。尊敬……とも少し違うが、彼に従うのは、苦痛ではない。個の欲はある。だからこうして無様にも生き延びているのだ」
「まあ、ほっとけない奴ではあるよな。一人にすると、永遠に一人で悩んで勝手にどん底に落ちる男だからな」
オーランドはずっと考えていた疑問をぶつける。
「君は、私をどう思う? 新たな皇帝に仕え、生き延びるために魂を売った男だと思うか」
この軽薄な男から導きを得ようとしたわけでは無いが、一市民の代表のような彼の考えが知りたかった。
ルシオは片方の口の端を吊り上げ、鼻で笑う。
「お前、ヘルで嘘吐いただろ。イリス様の側に付き添い、声をかけたのは自分だと言っていたな」
オーランドは驚愕した。確かに彼女を前にして、嘘を吐いたことがある。だがそれを何故ルシオが知っているのだ。疑問の答えは、彼の口から直接あった。
「俺とディマは、すぐ横にいたんだ。聖堂のあの部屋に、物入れがあったろ、その中にさ。で、全部聞いていた。ひどい嘘つき野郎だと思った。ディマより俺の方が怒っていた。オーランドから必ずイリス様を奪い取れと、腑抜けたあいつを叱り飛ばしまでした。その時にはあいつがセオドア帝の落し子だと、俺は知っていたから、あいつこそが皇帝に相応しいのだと、友情を抜きにして本気で考えていた。お前のことは、ほとんど考えなかった」
オーランドは答えられなかった。まるで知らないことだったからだ。
掴みどころのない飄々とした男だが、この図書室に共に来たのは、あるいはオーランドを見張るためでもあるのかもしれない。
いつになく真面目な表情で、ルシオは言った。
「親父は信じたもののために死んだ。俺もそうだ。蘇ったが、俺も命を捨てるほど信じたものがあった。
……だが本音を言うと、別に死にたくはなかった。死を切望したわけじゃない。生きてこそ人間の本懐は遂げられる。生き続けてこそ、生まれた意味はあるのだと、今になっても信じてる。死んだ奴等だって平和な世の中が良かったに決まってる。ルカ・リオンテールでさえそうだと思っている。……だから、オーランドとディミトリオスの和解が、死んだ奴らの救いになればいいと、今は思うだけだ」
それから彼は、表情を緩めた。
「俺はお前とは、絶対に上手くやれんと思ったが、案外今のお前は好きだ。お前のことを以前よりもよく知ったからな。フォルセティ家に生まれたやつは、敗北し、誇りをへし折られている人間を、嫌いになれん性がある」
思わず自嘲が漏れた。不可解そうに眉を上げたルシオに対し、言う。
「愛し合った者から生まれた、愛を知る人間だと、ふざけたことをディミトリオスは私にぬかした。……愛など、知るものか」
ルシオは目を細めた。
「間抜けのようだが、あいつは愛ってやつを、心の底から信じてるんだ。いや、もしかしたら存在を疑っていて、だから余計に信じたいのかもしれない。そういう気持ちは、俺にも少しは分かるぜ」
――ああ。と、オーランドは曖昧な返答をした。
そうして、考えなくてはならないのだ、と思った。これからのリオンテール家のあり方を。母のあり方を。そうして、自分自身のあり方を。
敗者として潔く身を引き、生かされた命として、余生を静かに過ごすのか。
あるいは親愛なる隣人として、批判を覚悟の上で、彼らに関わり助けるのか。
決めなくてはなるまい。
「聖地付近の国の話が多くないか?」
既に会話に飽きたのか、背表紙を見つめながら放ったルシオの言葉で、オーランドは現実に戻された。次いで答える。
「奇跡に関する話も多い。大地の浮遊に、瞬間移動、怪我人や病人の大量治療だ――……この逸話など、君によく似ている。死者の蘇生だ」
「へえ」さして興味もなさそうにルシオは言って、持っていた本を差し出した。
「この古い地域信仰について書かれたらしい本は折り目がついてる。巨大な光る岩を信仰する民族の話だ」
「言われてみれば、こっちの童話にも出てくるな。光る、透明な、石だ」
「水晶か」
即座にそう反応したルシオは、思うところがあるらしい。オーランドにも、頭の片隅に光る何かがあった。
「……シューム・エ・ルナ」
「なんだって?」
「シューメルナ。初代聖女の名だが、一方で、輝く石、奇跡の石という意味の古代語だ」
ルシオは思案するように眉根を寄せた。
「教皇庁の地下で、水晶を見たとイリス様に話したことがある。それでこんな話を集めていたのか」
「この話などまさに、だ。魔力を帯びる石と愛し合った少女が魔力を得て、人々を救済したとされている」
「俺の胸に生えた水晶、ディマが時折眺める水晶、教皇庁の地下にあった水晶。そうして、クロード・ヴァリがイリスにあげたという水晶……なんだか気味が悪い。
どう思う、オーランド?」
「結論は、まだ出ないだろう」
しかしオーランドの胸中にも、不穏の影が広がった。
ディミトリオスの部屋へと戻り、分かったことを伝えると、頷きながら彼は言う。
「こっちもかなり進んだ。ひとまず見てくれ。分かりそうな箇所を選んで翻訳してみた」
と、紙の束を二人に寄越した。手帳の文字の写しと、その下にローザリア語が記されている。
読みながら、ルシオは言った。
「小説という文字が頻出するのはなぜだ? 彼女が真剣に考え残したものにしては違和感があるが……」
ディミトリオスは、首を横に振っただけだ。
他方、オーランドもあることに気づいた。
「ルシオ・フォルセティの文字はローザリア語か……なぜこいつの名だけ二重線が引かれてる? ディミトリオス、君等の仕業か?」
「文字そのままを書き写しただけだ」
他の人名がそのまま書かれているのに対し、彼の名だけが強調されている。
「イリス様は、俺のことが好きだったとか?」
「あり得ない」
オーランドが即答した後で、ディミトリオスも言った。
「その前の文字が意味をなしているんだと思う。まだ読めないが、数回出てきているから、重要なものだ。必ず解き明かす」
聞きながら、オーランドは紙をめくり続け、ある一枚に目を留めた。
「それが最後のページに書かれていた文字だ。それ以降は、白紙だった」
「“この世界の・・は、わたし”か。・・はどういう意味だ?」
言語学者が答える。
「これまでの使われ方から察するに、"異物”が最も意味が近いと考えます」
「では――」
再び文字に視線を落とす。
“この世界の異物はわたし”
それが彼女が最後に書いたものだということなのか。オーランドはますます混乱する。
「彼女は、異物などではないだろう。彼女がいたから……」
だが続きの言葉を言う前に、ディミトリオスが遮った。
「その右にも文字はあるから、まだ完全に意味を捉えたわけじゃない。だけどこの時間で読み解けたのはそこまでだ」
オーランドは、途端に彼が哀れに思えた。
ディミトリオスの思いは痛いほど分かる。今や彼の愛する人は、この紙切れの中にしか思いを残していないのだ。
「彼女は私にとってもかけがえのない――」――愛おしい人だという言葉を、オーランドは飲み込んだ。「――かけがえのない友人だ。困っているなら力になる。ディミトリオス、君にもな」
新たな皇帝は、やはり微笑み、静かに礼を言った。




