ディミトリオスは葛藤する
ディミトリオス・フォーマルハウト
考えるのはどうしても、以前のイリスのことだった。
(あの子が僕の腕を見て悲しそうにする度に、僕は満たされた気分になっていた。ずっと僕のことを考えて、離れないでいてくれるから)
正常な考えかは分からないし、彼女は遠く離れてしまった。いずれにせよ、今のイリスはそんな風には思わないだろう。ディマが左腕を失った理由さえ覚えていないのだから。
ディマはこの日も、文机の上に水晶を置いた。
そうしてその手前で水の入ったグラスを持った。水晶とグラスの間には、水晶を削り取った粉末があった。
――アリアの妹、ライラから聞いた話があった。
姉が何かを水で飲んでいたと。薬だと思ったが、飲んだ後に吐血をしている姿を目撃しているという。
アリアとルカの部屋で見つけた削り取られた水晶を、その答えに当て嵌めるのは、何もディマだけではないだろう。だからディマは、水晶を粉にし、彼女らがしたことと同じように、体の中に飲み込もうとしていた。だが飲み込む寸前で、手が止まる。
(無害なのか、有害なのか――)
おそらくは、聖女の魔力に適合する者としない者がいるはずだ。皆が適合するならば、ルカがアリアをディマの前に置くまでに、あれほどの時間をかけるはずがない。アリアを見つけるまでに、相当数の少女が死んだはずだ。そうしてそれはネルド=カスタもそうだったに違いない。あの城は、実験場であるとともに虐殺現場だったのだろう。
(僕は、あの水晶部屋に入ってもルシオのように気分が悪くはならなかった。適合する可能性はある)
だが万が一、適合しなかったら。飲んですぐに死ぬものだろうか。
第一これは、過去の聖女の遺体が結晶化したものだ。倫理道徳の面からしても、積極的に飲みたいわけではない。
クロードに尋ねてからにすべきだろうか。
逡巡し、ひとまず粉をグラスの水の中に入れてみた時だ。部屋の前の廊下で何やら言い合う声がしたかと思うと、勢いよく扉が開かれた。
目に飛び込んできたのは、目がチカチカしそうなほど派手な柄のシャツを着たルシオ・フォルセティだ。
一度死んだ後遺症など微塵もなく、争乱が無事終結した後も城にとどまり、ディマの近習として城を彷徨いていた。
今、彼は近衛兵にひどく怒っていた。
「俺はディマの親友だ! お前らを通す必要はない! そもそもここまで廊下を突っ切って来たんだぜ、護衛共も俺がここに来る権利を認めたってことだ!」
「なりません、陛下の部屋に誰も入れるなというご命令です!」
近衛兵がルシオの体を掴み止めているが、ディマは兵を制した。
「放していい。問題ない。――任務を遂行してくれてありがとう」
兵は、皇帝に褒められて誇らしげにしながらも、一礼して下がっていく。もみくちゃにされた服と髪を正しながら、ルシオは鼻を鳴らした。
「家臣に礼なんて言うことねえだろ。つけ上がるぞ」
「僕はそうは思わない。彼に感謝したから礼を伝えただけだ」
ルシオは片眉を上げると、ヅカヅカとディマに向かい歩み寄り、何か文句を言いたげに口を開いたが、机の上のグラスに気がつくと、素早く奪い取った。
「お、ちょうど喉乾いてたんだよ。酒の方がいいが、水で我慢しよう」
「馬鹿、飲むな!」
ディマがルシオの手からはたき落とした時には、すでにグラスは空だった。
瞬間、ルシオは青ざめた顔をしながら、急いで窓に駆け寄ると、手早く開き、外に向かって嘔吐した。
「う、おえええ!!」
ディマもルシオに寄り、背を撫でる。とにかく彼に吐ききらせなくてはと思った。
刹那、窓の下から男の悲鳴が聞こえる。
ディマの場所からでは誰が下にいるのかまるで見えなかったが、すべてを吐ききったのか、晴れやかな表情のルシオは、下に向かって叫んだ。
「悪いなオーランド! 風呂でも入れよ!」
そう言って、ルシオは窓をピシャリと閉めた。
ディマはルシオの様子を覗う。
「水、飲んだのか?」
「いや、一滴残らず吐き出した。なんだアレは。毒か?」
「まあ、近いものだ」
「だったら俺が飲む前に止めろよ」
「止める前に飲んだんだよ」
ルシオの体調に変化はなさそうだ。体内に入ってはいないらしい。
「具合が悪くなっていないか。魔力が強くなったりは?」
「いやあ全然平気だぜ。魔力といえば、胸に水晶が生えてたときはちょっとばっかり強くなっていたが、全部剥がれ落ちてからは元に戻っちまったな」
言いながらルシオはソファーにどかりと座り込んだ。体は本当に無事のようだ。
目の前にディマも腰を下ろした瞬間、ルシオは言った。
「最近、イリス様は切なそうにしているぞ。お前を見ては、瞳を潤ませている。見ていて哀れだ。相手してやってるのか」
「当然だ。彼女が望むままに、一緒に過ごしている」
イリスの様子が変わったことを、ルシオも気付き、一部は話した。記憶の混濁があり、人が変わったようになり、以前のことを覚えていないのだと。小説がどうの――という話は、伝えてはいなかった。
ルシオの目が、探るように細くなった。
「お前はローザリアの新しい風だ。聖女と結婚することを、誰もが待ち望んでいる」
「分かってる。結婚するつもりだ」
ルシオの危惧は感じ取った。イリスがああなってからのディマの態度の変化に気付いているらしい。確かにディマは、自分の方からイリスに声をかけることが格段に少なくなっていた。よもや結婚までしなくなるのではないかと思っているようだ。
「今の彼女は受け入れ難いか」
ディマの本心を代弁するように、ルシオが言う。だがディマは首を横に振った。受け入れ難いのは今のイリスではなく、自分の中の葛藤だ。
「……僕はただ辛いんだ。今のイリスを受け入れることは、以前のイリスへの裏切りに思える。以前の彼女と全くの別人なのに――同じ見た目のイリスがいると、そのイリスから、あんな目で見つめられると、僕は、頭が狂ってしまいそうになる」
「なら抱いてやれよ。今のままじゃ、今のイリス様があまりにも哀れだ」
ルシオの直接的な物言いを、気にする間もなくディマは言った。
「僕は彼女との思い出を、そういう風に上書きしたくないんだ」
逃れるようにディマは立ち上がった。戴冠式を終え、そうして彼女が消えるまでの、ほんのわずかな間の幸福は、失った今になっては耐え難く体にのしかかるようだった。あの時間だけが、真の意味で恋人だった。誰にも邪魔されない二人だけの時間が、これから先も続くものだと思っていた。
ひたむきに恋し、愛し、愛し抜いた先に待つのがこんな答えだったなどと、どうして思えただろう。
だがルシオは座ったまま、冷静にディマを見る。
「気持ちは分かるが、戻らないんだろう。受け入れて、今の彼女ごと愛してみせろ。お前の愛ならできるさ」
「分かってる……! 僕は、そうしているだろう……!」
イリスを今も大切に思っている。その心には偽りはない。だが今の彼女と向き合うことを、恐れているのも本心だった。
文机の上にはまだ水晶が置かれている。それを見つめながら、ディマは言った。
「わざわざそれを言いに来たのか」
すぐにルシオの答えがあった。
「それもそうだし、城に入ってくるオーランドを見かけた。理由をお前に問いただそうと思ってな」
ディマはわずかに安堵した。ルシオが来た理由の、そちらが本命だろう。ならこれでイリスの話は終わりだ。
「ああ、僕が彼を呼んだ。渡したいものがあったから」
当のオーランドなら、先ほどルシオにゲロを引っ掛けられてしばらくはこちらに姿を見せなさそうではあるが。
はあ、とルシオがため息を吐いた。
「……国政のこと、イリスのこと、そうしてお前の手で破壊した奴らのことを、一手に背負うな。信頼できる人間にも一部を任せろ」
「考えておくよ」
信頼できる人間になら、多少当てはあると思いながら返事をした瞬間、近衛兵の声がした。
「オーランド・リオンテール様がお見えです」
思ったよりも早い到着だったなと思いながら、ディマは彼を出迎えた。




