喪失
ディミトリオス・フォーマルハウト
国政において、ディマはあらゆる改革に手を付け始めた。
有能であれば、身分のない者にも役職を付けた。スタンダリアにクリステル家の植民地は渡らずに、代わりに戦後賠償金を減額することで和解した。約束した平和と自由を叶えるために、手を緩めるわけにはいかなかった。
一方で、イリスの様子はひと月が過ぎても変わらなかった。
一緒に過ごしてきたイリスとは、なにもかも異なる今のイリスに困惑している。国政改革に没頭するようになったのは、それ故でもあったのかもしれない。熱のこもった瞳でディマを見つめる今のイリスを、まっすぐに見つめ返す自信がなかった。
「初めから二つには見えていない。ブレて二重に見えていただけだ。そして今、魂は二重には見えない」
――それはディマの質問に対し、クロード・ヴァリが答えた言葉だった。
“イリスの魂は、今も二つに見えるのですか”
その問いに対する、回答だった。
二つに見えることと二重に見えることの何が違うのかディマには分からない。少なくとも、かつてイリスとしてディマが接していた少女の方が、重なる魂であったという確信だけがあった。
二重に重なっていたということは、今いるイリスも、生まれてから今日まで、彼女と一緒に存在していたということなのだろうか。その彼女は消え、純粋なイリスだけが残された。
「こんなのって、あんまりだろ、イリス」
自室で、ディマはそう呟いた。昼だったが、自分以外、誰も部屋にはいない。謁見の合間に時間が取れ、少しの間、一人になった。
クロードの言葉を思い出す。
「イリスがなぜ、別の記憶を有しているのかは分からないが、今まであった彼女の魂と、同一の存在だよ」
「まるで違います」
ディマの反論に、クロードは静かに答えた。
「それは君が、表面しか見ていないからだ」
この時ばかりは、ディマは彼に賛成できなかった。
「闇の魔術の方は、どうなんです。今も、彼女の中にあるんですか」
「それどころか前よりもよく見えるようになっている。君も目を凝らして見てみるといい」
言われて初めて、改めてイリスを凝視した。
そこでディマもまた、以前は全く視えなかった彼女を取り巻く夥しい量の魔法陣を認識した。瞬きの間に消えてしまうほどに目視が難しい魔法であったが、そこに確かに存在している。
だが見たことのない術式だ。クロードに尋ねても、問題ないの一点張りであるから、ディマは自ら魔術式について調べることにした。彼女にかけられた術式が何を意味するのか、結論はまだ、出ていない。
かつてのイリスは、馬が好きだった。
オーランドの婚約者として城にいたときも、馬を何頭も所有していた。一人でどこにでも行けるような気がするから、馬が好きなのだと、そう言っていた。
一番のお気に入りは、ミア・クリステルを真似た白馬だ。ヘルへの遠征の際に兵士の一人から献上されたというその白馬を、彼女はとても可愛がっていた。
だが、今のイリスに愛馬を見せた時、困惑しながら彼女は言った。
「わたし、一人で馬に乗れません」
そうか、とディマは答え、以来、馬の話はしなかった。それでも馬番に、彼女の馬の世話を丁寧にさせることはやめなかった。
ヘルの城壁の上から見た、こちらに向かい駆けてくるイリスの姿を、今も鮮やかに思い出せる。文字通り、天からの救いの使者のように思えたのだから。彼女なら、馬に乗れないはずがない。
だが困惑と失望を、表に出すわけにはいかなかった。それにアレンとミランダが、今のイリスを愛情を持って受け入れているのだから、自分がそうしないわけにはいかない。
それでも募る、たとえようのない空虚があった。
「一人にしないで、離れるのは嫌だと、言ったのはそっちじゃないか――」
会いたい。寂しい。恋しくてたまらない。
抱きしめて、名前を呼んでほしい。抱きしめさせてほしい。笑ってほしい、ただ側に、いてほしい。
幼い頃の寂寞が、今になって蘇る。
「君なしで、どうやって生きていいのかさえ分からないんだ……」
机の上には、人の頭部ほどの大きさと、拳ほどの大きさの、二つの水晶結晶が並んでいた。城に入り、ルカ・リオンテールとアリア・ルトゥムの部屋を探っていた際に、見つけたものだった。
(何も解決していないんだ)
聖女の魔力は、アリアから再びイリスに戻った。
抗うために、アリアを見つけ連れてきたが、全くの無駄だったのだ。
水晶には削られた形跡がある。それが何を意味するのか、薄々ディマは勘づいていた。だが、問いただそうにもルカは死亡し、アリアは大聖堂の司祭の保護の下、未だ昏睡状態が続いている。
(せめてアリアが目覚めれば――)
彼女らの陰謀がいかなるものであったのか、全貌は把握できていないままだ。イリスはまるで気付いていなかったが、ライラは人質として城に留まらせていた。そうである以上、アリアも素直に語るはずだ。敵対した娘だが、妹への愛情は本物に思えた。
ルカとアリアがどのようにして聖女の力を得たのか、それを知れば、今のイリスの状況にも、少しは説明が付くのではないかと、蜘蛛の糸にすがるようなわずかな希望を、ディマは抱いていた。
諦めたわけではないが、イリスを水晶体にしない方法が分からない。
死体に形成される水晶はあるらしいが、人体が水晶に変化する事例は、学者を回っても見つけられない。しかし手をこまねいているだけでは、状況に変化は訪れない。クロードに相談しても、諦めろ、聖女とはそういうものだと言われるばかりだ。他の人間にも、この事実を打ち明けることはできなかった。
“成れ果ての部屋”で見た最も若い享年は、十六歳だった。
「時間が、ないんだ」
救わなければ。何がなんでも、イリスを救わなくては。
と、その時だ。
コンコンと、扉が叩かれる。家臣を通さずに、直接叩かれるこの遠慮がちなノックが、誰のものか知っている。ディマは水晶に布をかぶせ、棚の中に収めてから、声をかけた。
「お入り、イリス」
入ってきたイリスは美しい白いドレスに身を包み、やはり美しく微笑んだ。
第四章開始です!
引き続きよろしくお願いします。
補足:死体に形成される鉱物として、ビビアナイトというものがあるようです。




