番外編:聖母ミランダ・テミス
ミランダ・テミス――過去
ミランダ・テールがアレン・テミスを初めて見かけたのは、十二歳の時だった。来客としてやって来た伯爵、エルアリンド・テミスの小間使いとして連れてこられており、なにか失敗をしたとかで、こっぴどく怒鳴りつけられていたのを目撃したのが初対面だった。
当時から、ミランダは彼が気にかかっていた。
両親はすでに亡くなっており、病弱な妹を養うために幼い頃から親族の伯爵家に奉公に出ていたという彼は、同じ年の貴族の少年たちに比べると大人びた顔つきをしていたし、背が高く、一見、無骨で粗野でありそうなのに、気心のしれた使用人同士で会話している時など、子犬のように純粋に笑った。普段、微笑みの一つにも打算が隠れているような貴族ばかり相手をしていたミランダが、出会ったことのない人種だった。
話しかけたのは、ミランダからだった。親の目を盗み、エルアリンドの馬を一人、世話していた彼に忍び寄り、こう声をかけた。
「ねえ、ジンジャークッキーは好き?」
彼の驚きようといったら――結婚した後でも、度々ミランダは、夫にその思い出を持ちかけてはからかった。
彼は文字通り飛び上がり、顔を真っ赤にしてしどろもどろになりながら、もごもごと口の中で返事をした。
ミランダの心に、きらめくそよ風が吹いたように思った。たちまち彼が気に入った。考えていた通りの可愛い人だと、彼女は思った。
それからも、ミランダは両親やエルアリンドに隠れてアレンと話すようになった。
彼は裏表のない人で、いつも楽しそうに笑っていた。
少女の頃の好奇心と恋が、ミランダの心を占めていた。アレンもまた、ミランダに恋をしているということを、隠そうとはしなかった。二人の恋は、純粋なものだった。彼は、指一本として、ミランダに触れようとしなかった。
転機が訪れたのは、十五歳の時だった。
テール家で開催されたパーティでのことだった。
そのことを父から聞いたミランダは、思わずその場を逃げ出した。
ミランダの逃亡に困惑するエルアリンドを置き去りにして、ただ、その人を探した。
アレンの馬が見え、彼の姿を確認した瞬間、ミランダは大声を出した。
「アレン! ここにいたのね!」
息を切らして現れたミランダを、屋敷の外の川辺に寝転んでいたアレンは、困惑げに振り返る。
「ミランダ様、パーティはよろしいのですか?」
彼を見ると、ミランダはいつだって嬉しくなる。汚れるのも厭わずに、隣に座ろうとすると、慌ててアレンがハンカチを地面に差し出した。
「パーティなんてつまらないもの。馬で遠乗りしていた方がいいわ」
「あなたは昔からお転婆ですからね」
アレンが笑うのを見て、ミランダは更に心が弾んだ。
「エルアリンド様ったら、わたしに乗馬を教えたのは自分だと思っているのよ? おかしいでしょ、本当はアレンなのにね」
アレンは気まずそうに頭をかいた。
「バレたらきっと殺されます」
再び草むらに寝転がるアレンを見下ろした。エルアリンドの赤毛とよく似ているのに、どうしてアレンの髪の毛は、これほど触れたくなるのだろうと、思いながら。
気がついたら、言葉が出ていた。
「どうして同じ家なのに、あっちが貴族であなたが使用人なのかしら。あなたが伯爵だったらいいのに。そうしたらわたし、結婚したくないなんて言わないわ」
先ほどの父の言葉を思い出した。
アレンはゆっくりとミランダに目を向ける。
「……あまり、そういうことを言わないでください。俺は馬鹿だから、本気にしてしまいます。今日、皆様の前で婚約を発表するのだと、エルアリンド様はおっしゃっていました。世界がひっくり返ったって、あなたと俺は結婚できません」
「わたしは本気よ。あなたとなら、どんな貧乏生活だってへっちゃらだもの」
「それはミランダ様が、本当の飢えを知らないからですよ。俺達平民は、毎日毎日、金持ちに媚びへつらって食い物を探してる。人生に自由なんて少しもない。そんな生活、姫のような暮らしをしているあなたが耐えられるはずがありません」
「わたし達だって一緒だわ。毎日毎日、本心とは別の綺麗事を並べて、それなのに、心の中はドロドロなのよ。お父様だって、そう――……。お父様だって……」
耐えきれなくなり、わっと、ミランダは泣き出して、アレンの体を抱きしめた。
“我が娘は、エルアリンド・テミス様と婚約することになるでしょう”
来客の前で、父がそう高らかに宣言した。ミランダは、まるで聞かされていないことだった。
――結婚なんて絶対にしません!
そう叫び、逃げたのだ。
出会ってから初めてアレンの体に触れ、熱いほどの体温を感じながら、そのシャツを掴み、訴えた。
「アレン、キスして。お願い、キスして! わたし、その思い出があれば、どんな苦痛にだって耐えられる! エルアリンド様と結婚したって、あなたとのキスの思い出があれば、ずっとあなたを愛することができる……!」
アレンは体を起こし、片手でぎこちなくミランダの肩に触れる。
「……できません、あなたを汚せません」
「わたしが嫌いなの? 主人の結婚相手になりそうだから、重荷に感じているの?」
「違う! あなたが好きだからです!」
風が吹き、草木を揺らす音がした。ミランダは、アレンの気持ちには気付いていた。だが声に出されて言われたのは、初めてのことだった。
「あなたが好きだから、俺ではだめなんです」
彼の温かな色の目が、ミランダを真剣に見つめていた。
「大聖堂の司祭様がおっしゃっていたわ。愛があれば、どんな困難だって乗り越えられるって。わたしはあなたを愛しているわ。本当にあなたを愛しているの。アレン、あなただって、わたしを愛しているんでしょう……?」
「俺は身分も学もない人間です。頭も悪い。あなたはまるで正反対です。それなのに、どうしてあなたの愛を信じられるというのでしょう」
自分で言うほど、アレンは頭の悪い人間ではないとミランダは知っていた。学ぶ機会さえあれば、高慢な貴族など足元にも及ばないほど立派になるはずだと、そう思っていた。
「信じてとしか、言えないわ」
目を背けずに、彼を見つめた。アレンの瞳が揺れる。
「本当に、愛してくださっているのですか」
「ええ、本当に、あなただけを愛してる――」
ミランダから、彼に口付けをした。途端、アレンはミランダを荒々しく引き寄せると、さらに深く、それを交わす。恋心はついに決壊し、二人を一層強く結びつけた。
キスの後で、ミランダは言う。
「このままわたしを、お城まで送っていって。サーリ様にお会いするわ。あの方なら、きっとわたしを保護してくださる。侍女にしたいって、言ってくださったこともあったもの。家にはもう、帰らない」
アレンも手早く頷いた。ミランダの覚悟を知ったのだ。
「分かりました」
城の入口で別れる寸前に、アレンはミランダに囁いた。
「ミランダ様。少し前から、考えていたんです。……戦場へ、行こうと思います。戦場で手柄を上げた人間が、貴族にしてもらったという話を聞いたことがあります。
カミラ・ネスト様をご存知でしょう? 彼女は、野心のある人間には優しくしてくださいます。先日開かれた剣術大会で俺の剣の腕を見て、自らのお父上の戦場に、俺を派遣してもよいと言ってくださったのです。
俺は、あなたに苦しい生活をさせたくありません。戦場へ行って、手柄を得て、必ず出世して、金持ちになって帰ってきます。だからどうか、俺を信じて待っていてくださいませんか」
「待つわ」即座にミランダは返事をした。
「お父様になんと言われようとも、婚約なんてしない。エルアリンド様は辛抱強い方じゃないもの。わたしが拒否し続ければ、他の方と結婚するはずだわ」
アレンはミランダに、触れるようなキスをする。
「必ずあなたを迎えに来ます」
ミランダは、彼を疑うことはなかったし、実際に彼は、約束を果たした。
◇◆◇
アレンとミランダは、何度も手紙のやり取りをした。離れていても、彼をいつも感じていた。
戦場へ旅立ってから四年後に、アレン・テミスは約束通り騎士の称号と、地方の小さな領地を得た。貴族にはなれなかったが、それは貴族になった平民が、腐る程の金を積んでいたからだとミランダは知っている。アレンは金を積むこと無く、騎士になったのだ。だからアレンの方が遥かに立派なのだと、強くそう思った。
だが二人の結婚を、テール家の両親は認めなかった。
元々のアレンの身分を気にしてのことだ。加えてミランダの美しすぎる外見は、エルアリンドでなくとも高位貴族の目を引き、分家で爵位もないテール家の娘にしては良すぎるほどの縁談が舞い込んできていたことにもあった。
くだらないことだと、ミランダは思っていた。
結婚にさえ値段をつけたがる貴族社会には、辟易していた。
大聖堂に通い始めたのはその頃だ。セオドア帝の死後、司祭たちは呼び戻され、再び聖女派が実権を握っていた。
昔、テール家の使用人として働いていた少年が司祭になり、ローザリア帝都の大聖堂に戻っていたことも、通うきっかけになっていた。
その少年――クロード・ヴァリは、十歳にして司祭になり、エンデ国で学んだ後、ローザリアへと帰郷し、今は十三歳だ。だが彼の年を揶揄する人間は一人もいない。それだけ彼が、恐ろしいほどに、才能に恵まれたということだろう。
だがミランダにとっては、懐かしい友人で、弟のようなものだった。常に公平に物事を見る彼は、信頼する人間の一人だった。
聖堂に行くと、クロードは必ず時間を割いてくれていた。
ミランダは、神に対する態度と同じように、彼に対しても祈った。
「クロード、お願い。アレン・テミスと結婚させてほしいの。神様のお許しをください」
小さな部屋で、ただそれだけを、常にクロードに訴えた。
「子供を授けてくださるように、お祈りをしているの。子供が欲しい。子供さえいれば、きっと幸せになれるわ。子供さえできれば、お父様だって許すしかなくなるはずよ」
「彼の了解は得ているのですか?」
ミランダは、首を横に振る。涙が頬を伝った。
「彼は順序を踏んでからだと、まだ渋っているわ」
アレンは真面目な人間だった。結婚の了解を得る前に子供を作ることはできないと、首を横に振られてしまった。
ミランダの体は震えていた。
「だけどこのままじゃ、わたし、愛してもいない貴族の妻にされてしまうわ! お父様はアレンとわたしを引き剥がそうとして、誰かとの縁談を勝手に進めているわ。今はお城でサーリ様の側を離れないようにしているから安全だけど、誘拐して、無理矢理結婚させるつもりでいるって、仲の良い使用人が教えてくれたのよ! それにお城にももういたくない。お城の男の人なんて、肉を目の前にした狼みたいな目でわたしを見てくるんだもの。とても気持ち悪いわ。アレンと結婚したい。彼と一緒になれなかったら、わたし、死んでしまうわ!」
ほとんど喚くように言うミランダに、クロードは優しく声をかける。
「どうか、死ぬなどとはおっしゃらないで。食事をきちんとされていますか?」
ミランダは、またしても首を横に振る。このところ食欲はなかった。
「衣食住が人間の基本ですよ。何か持ってきます。食べたいものはありますか?」
「ジンジャークッキー……」
クロードは、困ったように眉を下げた。
「あいにくありませんので、他のものを持ってきます」
そう言って一度部屋を出て、再び戻ってきた彼が持ってきのは、ハーブティーとジャムの乗った柔らかそうなパンだった。
「大聖堂の修道者たちの手作りです。とても美味しいですよ」
口を付けると、確かに力が湧いてくるように思えた。
「ねえクロード。愛があれば、どんな困難だって乗り越えられるって、あなたもそう思う?」
「ええ、私もそう思います」
クロードは微笑む。
「大丈夫ですよ、ミランダ様。聖女シューメルナ様は、あなたに必ず幸せをくださるでしょう。いつでもここにいらしてください。またご馳走しますよ」
彼の言葉に甘えて、それからも頻繁に、ミランダは大聖堂を訪れるようになった。
状況は双方にとって限界だったに違いない。父から手紙が届いたのはそんな折だったのだから。
手紙を読んだ瞬間、ミランダは悲鳴を上げた。
“エルアリンド・テミス公が離縁し、お前を妻に迎えることが決まった。従わないのならば、アレン・テミスの騎士の称号と領地を没収する”
その文字が、刃物のようにミランダの心を刺した。一度はミランダを諦めた彼は、貴族の娘と結婚したが、女ばかり生まれたことに腹を立てているという噂があった。もっと若く、美しい妻を望んでいるのではないかとも、囁かれていた。
――それがミランダであったらしい。
嫌悪感で、鳥肌が立った。アレンに会わなくてはならなかった。
裏手からこっそりと城に入ったアレンと、庭の小さな小屋で会った。庭師の道具入れとして使われているこの小屋に入る者はまずおらず、二人の逢瀬の場所としてはうってつけで、いつもこの場で会っていた。
アレンの姿を見るなり、駆け寄り抱きしめ、次には泣き崩れた。
「アレン、お願い。お願いよ! わたしもう、耐えられない……!」
「落ち着いてください。俺の称号と領地はネスト家が与えてくださったものです。テミス家が手を出せるはずがありません。あなたのお父様の、脅しですよ」
慰めにも、ミランダの心から不安の霧は晴れなかった。
「でも、本気だったら? あなたが必死で努力して積み上げてきたものを、あの人たちは平気で奪っていくつもりなのよ、少しの罪悪感もなく!」
考えるように黙るアレンに、ミランダは泣きながらすがりついた。
「アレン、お願い。子供が欲しいわ! 子供が欲しいの。周囲が絶対にわたし達を夫婦だって認めるような、愛の証が欲しい……誰にも奪われない幸福が、欲しい……」
「先に結婚をしなくては。誰もが認めてくれる幸せな結婚を――」
「誰もが認める幸せなんてこの世にはないわ! これだけたくさんの人が同じ場所で生きているんだもの! 皆を納得させるなんて無理に決まっているわ!」
遂に立っていられず、ミランダはその場にへたり込んだ。
「お願いよ……わたし、このままじゃ、死んでしまいそうになるの。わたし、あなたと結婚できないなら、生きている意味がないわ……」
アレンの大きな体が、遅れてミランダを包み込む。
「泣かないでくださいミランダ様。あなたに泣かれると、俺も悲しくなってしまう。そこまで思い詰めさせてしまって、すみませんでした」
アレンは言う。
「俺は、親になるのが恐ろしかったんです。だって親なんて知りません。子供の頃にいた孤児院では、怒鳴られ、殴られるのが当たり前でした。世間を憎んでいた。
同じことを、子供にもするんじゃないかと思ったら……。同じようなことを、子供にも思われるんじゃないかと思ったら、怖くなってしまったんです。強いあなたに、気後れしていました。だけどあなたも、強いわけじゃなかったのだと、やっと今になって分かりました」
ミランダの涙は引っ込んだ。いつもおおらかに笑うアレンが、世間を憎んでいたなどとは、少しも知らなかったからだ。
「今も世間が憎いの?」
「いいえ、あなたを知ってからは、少しも。あなたがいるこの世界ごと、愛せるようになりました」
愛おしさが募り、ミランダも、アレンを強く、抱きしめた。
それからもミランダは父からの手紙を無視し続け、大聖堂に通い続けた。
妊娠が発覚したのは、それからすぐのことだった。
家に向けて、一通だけ、手紙を書いた他は、ほとんど準備もせずに帝都を旅立つ。屋根のない安い辻馬車を拾い帝都を出て、小さな宿屋に着いた。
一息つき、ミランダの腹に触れながら、アレンが言う。
「俺が親に……親に、なれるでしょうか。普通の親というものは、どういうものなのでしょうか」
彼の手に自分の手を重ねた。
ミランダにもよく分からなかった。自分自身、両親との仲は、それほど良くなかった。
それでもこの腹の中に、まだ見ぬ愛おしい我が子がいると考えるだけで、心がまどろむ。
「この子には、幸せをたくさんあげましょう。わたし達が両親にしてほしかったことを、なんだってしてあげるのよ。本をたくさん読んであげて、たくさんキスして抱きしめるの。毎日大好きだって伝えるわ。この子が愛を疑わないように、愛してるって言い続けるの。
たまには喧嘩もするかもしれないわ。でも頭ごなしには否定しない。受け入れて、よりよい道に導いてあげるの。いつかこの子が愛する人を見つけて、温かい家庭を作るまで――いいえ、それからもずっと、この子を愛して、何よりも大切にするんだわ。わたし達の、命の終わりまで」
これからの暮らしを想像して、自然と笑みがこぼれた。
「本がたくさん欲しいわ。わたし、宮廷にいた時、男の人からたくさん宝石の贈り物を貰ったものを持ってきたの。それをお金に変えて、本をいっぱい仕入れて、この子に読んであげたい。嫁入り道具なんて誂える時間もなかったもの、その代わりよ」
アレンも笑った。
「領地の屋敷に、ちょうどいい大きさの小部屋があります。そこを図書室にしましょう。この子がいつでもそこに入れるように。絵本から歴史書まで、なんだって揃えましょう。……俺はあまり本が読めないから、代わりにこの子にぬいぐるみでも贈ってやろうかな」
ミランダはアレンの頬をつねる。
「後ね、言いたかったの。敬語はもう嫌よ。だって夫婦になったんだもの」
アレンは眉を下げた。
「だけど、そんな急にはできません。ミランダ様、あなたは俺の女神のような人だし――」
頬を膨らませてみせると、ようやく観念したように、アレンは言った。
「……ミランダ。これでいいか?」
「上出来よ」
にっこりと笑って、ミランダは言った。
「世界が、ひっくり返ったでしょう?」
いつか言われた言葉を思い出しながら言うと、アレンは幸福そうに微笑んだ。
「ああ、思ったよりも簡単に」
◇◆◇
数カ月後に、天使のような娘が生まれた。
――イリス。そう名付けた。
虹の女神の名前だ。愛と奇跡を運んできた赤ん坊に、相応しい名前だと思った。




