番外編:聖父アレン・テミス
アレン・テミス――現在
アレン・テミスは単純な思考をする人間だと周囲に言われていたし、本人もそう思っていた。嬉しい時に泣き、悲しい時に泣く。子供の頃からそうであり、大人になっても変わらない。
だが、今、アレンは自分が、どのような感情を外に表せばいいのか、全く分からなかった。
愛娘がまるで、知らない人物になってしまったようだった。
話し方も、表情も、よく知る娘のそれではない。イリスは、アレンが生きていることに心から喜び、幸福そうに笑った。アレンが死んだことなど、過去一度もなかったにもかかわらず。
それは自分が戦地へ赴いている間、家族の共有認識になっていたイリスの前世で読んだ“小説”の中のイリス・テミスによく似ているのだと、ディマが言っていた。
初めて小説の話を聞いたのは、クリステル家の領地でだったが、家族が冗談を言っているのだと思った。
だがイリスの真剣な語り口から、そうではないらしいということが分かった。次に思ったのは、己の頭が悪いから、ミランダやディマと同じようには、イリスの話を理解できないのだろうということだ。しかし実際、妻も息子も、その小説の話を、どこまで理解しているのか分からなかった。
アレンは今も小説のことは分からないし、なぜイリスが人が変わったようになってしまったのかも少しも分からない。
彼女の持つ記憶は、今までアレンが経験してきた思い出とは、あまりにかけ離れたものであった。分かることは、変わってしまったイリスも、両親のことを愛しているということだけだ。
彼女に今までの思い出を教え、彼女からも話を聞いた。重なる部分もあったし、異なり過ぎている箇所もあった。アレンの生死など、その筆頭だ。
(一過性の混乱なのか、それとも――……)
それとも、よく知る娘は、永遠に失われてしまったのか。
それでもイリスの前では、必要以上に明るく振舞った。
その実、心の内では、激しい混乱が渦巻いた。
それは妻のミランダも、同様だったようだ。
二人が使っている城の一室に入るなり、ミランダは一瞬にして笑顔を解いて、泣き崩れた。アレンにしがみつきながら、肩を震わせる。
「ねえ、アレン! あの子は、どうしてしまったの? 今までのこと、少しも覚えていないのよ! じゃあ、今まで側にいてくれたあの子は、どこに行ってしまったの? わたしたちの運命を、強烈に引っ張ってくれたあの子よ……! わたしたちに、強い愛をくれたあの子よ! ねえアレン、あの子に何が起きているの?」
アレンは無言でその背を撫で続けた。妻の問いに、答えを持ち合わせていない。
妻と娘は、アレンが戦地に赴いて、ディマが異国へと行っている間、ひたすら身を寄せ合って支え合い生きてきた。その絆の強さは、アレンには計り知れない。
「何が起きているのかは分からない。だがクロード様は、健康には問題ないと言ってくださった。見守るしか、今はできない」
ようやく家族揃った矢先に、何より大切な娘がおかしくなってしまった。だが彼女は死んだわけではない。生きている。だから、最悪というわけではないのだと、アレンは自分に言い聞かせた。
腕の中ですすり泣く妻に向かって、声をかける。
「何か、飲み物でも厨房から貰ってこよう」
今や皇帝と聖女の両親となったアレンとミランダには大勢の使用人が付いていたが、元々身分のない出のアレンは、人を使うことに慣れていなかったため、度々自ら動いていた。
ミランダの背を撫でながら、そっと言う。
「ミルクに蜂蜜を入れたものはどうだ。お前は昔から好きだっただろう」
聞いたミランダはようやく少しだけ、微笑んだ。
自分の分には酒を入れ、飲み物を二人分調達してきた。ミランダは先ほどより落ち着いた様子で、ソファーに腰掛けていた。だがその目は赤く、頬を幾筋もの涙が流れた跡がある。
アレンが向かいに座ると、囁くように彼女は言う。
「クロードは、ずっと前に言っていたでしょう? イリスの魂がぶれて二重に見えるって」
あれは、イリスの魔力が暴走し、一週間も寝込んだ後のことだ。懐かしく、アレンは思い出した。領地で初めて開催したパーティが上手くいき、クロードが家庭教師として、子供たちの面倒を見た。
思えばあの頃が、騎士テミス家にとって最も幸福な日々だった。
ミランダは続ける。
「わたし、もしかしたらって、思ったの。本物のイリスは今のイリスで、わたしたちの側にいてくれたあの子は、前世で不幸な死を遂げた、別の子だったんじゃないかって。だってあの子、小さい時からすごく賢かったわ。その子がイリスに重なって、イリスとわたしたちを助けようと、ずっと側にいてくれたのよ」
思い返せば、確かに子供の頃のイリスは聡明だった。妻に流れる大貴族の血がイリスを天才たらしめているのだと親馬鹿的に思ったこともあったが、それはイリスの中に、別人の魂があったためなのだろうか。
過去を思い出し、唐突にアレンは吹き出した。驚いたように目を見張るミランダに向けて、すまんと謝った。
「思えばイリスは、あざといほどに子供らしい子供だったと思ってな」
ミランダも頷きながら、おかしそうに笑った。
「演技だったのかもしれないわ。わざと子供ぶっていたのよ。それでいてお菓子を使用人からたくさんもらっていたのよ? あの子らしいわ、まったく」
何もかもが懐かしく、何もかもが、愛おしかった。
小さい頃のイリスを思い出しながら、アレンは言った。
「可愛らしいな、俺達の娘は。きっと俺達に心配かけまいと、子供のふりをしていたんだ」
「ええ、本当に。本当に可愛かったわ」
「ああ、可愛かった――」
言葉が詰まったアレンの前で、ミランダの瞳が再び潤む。
「……だけど、それだって、イリスだった。わたしにとっては、かけがえのないイリスだったのよ――」
ミランダの言葉に、耐えきれなかったのはアレンの方だった。
嗚咽が漏れ、両手で顔を覆う。
寂しさがあった。悲しみもあった。ひたすらの空虚が部屋を覆い、ただでさえ暗い夜の闇を一層深めたようにさえ思えた。
イリスを失ったわけではない。彼女は今も生きている。それでも、それだからこそ、この胸の空白の埋め方が分からない。喪失を、抱くことさえ後ろめたい。
今度はミランダがアレンの側にやってきて、背を撫でる。
「アレン、アレン……。泣かないで」
「すまん、すまない……」
今にあっては、妻の方が強かった。努めて穏やかに、彼女は言う。
「あの子は、死んでしまったわけじゃないわ。あの子のことだもの、納得して姿を消したはずよ。……あの子はたまに、自分を俯瞰して見ていたの。いつかこうなるって、考えていたのかもしれないわ。……それにしたって、何か言ってくれたらよかったのにって、思うけれど。でも、悲しい別れじゃないんだわ。少なくとも、あの子にとっては」
彼女の声の震えには気付いていた。
ああ、ああ、と、アレンも自分を納得させるために頷いた。
それに、いつまでも、嘆き悲しんでいるわけにはいかない。
立ち止まっている場合ではなかった。現状で、最も辛い思いをしているのは、自分達ではないのだから。
ディマは大丈夫だろうか、とアレンは思った。妻の手を取り、言う。
「すまん、もう、俺は平気だ。……二人の前では、動揺しないようにしよう。暗い顔をするのは、これで最後だ」
涙を抑え、ミランダの翡翠色の瞳を見た。
「何があっても、俺達はディミトリオスとイリスの親だ。それは変わらない。あの子らが辛い思いをしないよう、俺達は明るくいよう。二人が幸せを見つけられるように、支えてやらなくては」
ええ、と妻も強く頷いた。
「わたしも、もう大丈夫。わたし達なら、乗り越えられるわ。愛があれば、どんな困難だって絶対に乗り越えられるはずよ」
愛が失せたわけではない。
今までのあの子を、深く愛している。
そうしてこれからのあの子のことも、少しも変わらず、愛してる。
きっとそれが、親というものだ。自分達がなりたかった、親というものだろうから。




