イリス、今度はあなたの味方
何が起こっているのか、全然分かりませんでした。
ディミトリオスお兄様は、牢に入る必要はないのだと言った後、わたしの手を引き、お城へと連れて行きます。お兄様の左手が、金属製の義手だということに、わたしは気が付きました。
「お兄様の左手はどうされたのですか?」
「何言ってんだよ、その場にイリスだっていただろ」
尋ねても、そう返されるだけでした。
わけがわからないままでした。けれど繋がれたお兄様の手はとても温かくて、どうしても、胸が高鳴ってしまいました。
ずっと昔は、よく手を繋ぎました。わたしとディミトリオスお兄様は、領地でいつも、二人で遊び回っていたのです。
でも、大きくなって、離れ離れになってからは、彼がわたしに触れたことは、一度を除いてありませんでした。
お城に入った時、わたしは不安で一杯になってしまって、前を行くお兄様に問いかけました。情け無く泣きそうになるのを堪えます。
「あ、あの、ディミトリオスお兄様! お城に入って、怒られませんか? オーランド様とアリア様は、わたしがここにいる姿を見て、お兄様までも牢に入れようとするのではないのですか?」
そんなことになったら嫌です。
お兄様の手に、力が込められます。
「二人は城にいない。皇帝は僕だ。誰も僕を咎めない」
驚き、立ち止まってしまいました。わたし達の手は離れます。
「どうしてお兄様が皇帝なんですか?」
お兄様も立ち止まり、振り返りました。ようやくわたしと目が合った彼の黄金の瞳には、深い悲しみが浮かんでいました。
「イリス、冗談のつもりなら本当にやめてくれ」
「わたし、冗談なんて言っていません――……何がなんだか、全然分からないんです」
必死に訴えました。
「さっきまで、牢にいたんです。お祈りをしていました。一人でいたんです。……そう、お兄様だって、会いに来てくださったではありませんか! それで、一緒に故郷に戻ろうって……だけどわたし――その後、誰か――……」
思い出そうとしても、上手く思考がまとまりません。お兄様と、牢でどんな会話をしたんでしたっけ。わたしはなんと答えたのでしたっけ。ついさっきのことなのに――。
「とにかく、僕の部屋へ。君に何かが起きているんだ。先生を呼んで、意見を聞こう」
先生とは、誰のことなのでしょうか。
お兄様の話し方も、わたしの知る彼よりも、ずっとずっと柔らかいものに感じます。
「大丈夫さ、イリス。疲れてるだけだ。すぐに、元に戻るよ」
混乱はしていましたけれど、ディミトリオスお兄様がそう言ってわたしの頭を撫でてくれたので、幾分安心して、頬が赤くなるのを感じました。
それに、決してわたしにとって悪いことではないということが、すぐに分かりました。だって、だって……――。
わたしがお兄様のお部屋だというその場所で――わたしの認識だと、オーランド様の寝室だったその場所で、一人、待っていたときです。
お兄様は、その人たちと一緒に戻ってきました。わたしは思わず叫び、その人たちに飛びつきました。
「お父様! お母様!」
記憶の中よりも、白髪の多いお父様と、記憶の中よりも、ずっと顔色のいいお母様がおりました。
「お父様……! 本当にお父様なのですか? 生きて、いらっしゃったの?」
その体を確かめずにはいられません。少なくとも幽霊ではありませんでした。
お父様はわたしが十歳の時に亡くなっております。お父様のご遺体のお隣で泣き崩れるお母様の姿を、今だってよく覚えておりますのに、目の前には朗らかに笑うお父様がおりました。
「おう! 俺はいつだって生きてるぞ!」
そのお隣にいるお母様もお元気そうです。
「お母様……! お母様も……」
お母様も、つい先日、つい先日――つい先日、首を切り落とされ処刑されたのを、塔の中から見ておりましたのに――……。
生きておりました。お父様とお母様の体は温かいのです。そうしてずっと昔みたいに、わたしに優しく微笑みかけてくださいます。
涙が止まりませんでした。
ああ、これほど幸せな夢があるのでしょうか? たとえ次の瞬間目が覚めて、孤独な檻の中にいたとしても、こんな夢が見れただけでも、わたしはとても幸せです。
お母様は、泣くわたしの背を撫でてくださいました。幼い頃と、同じように。
「イリス、どうして泣くの? 泣くことなんてないでしょう?」
「エルアリンド様はどうされたんです? お母様は、いつもあの方と一緒でしたでしょう?」
「わたしがあの人と一緒にいたことなんてないわ。第一、彼はもう亡くなっているじゃないの……」
「エルアリンドは、イリスを庇ってくれたんだろ」
お二人が、交互にそう言います。そうして少し困惑したように、お兄様に目を向けました。
わたし達の様子を見ていたお兄様は、感情を抑えるように、言いました。
「状況は、お話ししたとおりです。僕にも分かりません。突然、イリスが、まるで……」
その先の言葉を、お兄様は言いません。お母様の目に、見る間に涙が溜まっていきます。
「イリス、本当に忘れてしまったの? あなたが戦った日々や、必死に生き抜いた、今日までのことを?」
「いいえ、忘れてなんていません」
一生懸命にわたしは言いました。
「わたし、全部覚えています。十歳で帝都に入ったことも、お父様が亡くなってしまったことも、お母様とエルアリンド様がご結婚されていたことも、そうしてアリア様が現れて――わたし達、処刑されるはずだった……」
でも、気が付いたら、全然、違っていて。わたし、分からないんです。
だけど――それにしてもこの夢は、なんて心地が良いのでしょう。
お父様がわたしの肩に手をかけ、わたしの目を覗き込み、言い聞かせるようにおっしゃいました。
「そんなことには、なっていないんだ。少しもそんなことには、なってないんだよ、イリス。お前が、決してそうならないように、俺達を守ってくれたんだ」
お父様がなんのことを言っているのか、やっぱりわたしには分かりませんでした。まるで登場人物だけが同じの、別の世界にわたし一人迷い込んでしまったようです。
扉が叩かれたのはその時です。
お兄様が開けると、現れたのはヴァリ聖密卿でした。見慣れた司祭服で彼は入ってくると、わたし達家族を順に見ました。厳しかった視線は、穏やかなものに変わります。
「大丈夫かディミトリオス、一体何が起きたんだ? 緊急事態と聞いたが、全員無事のようだ」
ディミトリオスお兄様が、わたしを見ていいました。
「イリスを診てやってください、先生」
なぜお兄様が、ヴァリ聖密卿を先生と呼ぶのでしょうか。彼らに関わりは、なかったように思います。
聖密卿は、わたしに視線を移し、それから微笑みました。わたしと彼の間には、聖女と司祭という関係以上のものはないはずなのです。けれどなぜだか、友人へ向けるような、親愛のこもった笑みに感じました。
「――ああ、イリス、戻ったのかい」
「戻ったって、何がです」
お兄様が責めるような口調でヴァリ聖密卿に詰め寄ります。
一瞬、脳裏をよぎったのは、わたしがどこか遠い場所にいて、そうしてこの地に戻ったと言いたいのかと思いました。けれど聖密卿が言いたいことは違ったようです。
「魔法だよ」と彼は言いました。
「魔法がアリアから君に戻ったんだろう? 使ってご覧なさい」
言われて初めて気が付きました。今まで気が回らなかったのです。
確かに、体に流れる魔力を感じました。わたしは手を天井にかざすと、光の雨を降らせました。アリア様が現れてからほとんど失せたわたしの魔法が、今再びこの手に戻ってきました。
「それはどういう魔法?」
問う聖密卿に、答えました。
「えっと、意味は特に、ありません。ただ、美しいだけの光です」
彼は楽しげに笑います。
「大変結構だ」
「じゃあ……無駄、だったのか? 何もかも、無駄だったのか? 先生……イリスは、聖女のままなんですか」
ディミトリオスお兄様の懇願に似た声が、聞こえました。聖密卿は憐れむように答えます。
「教皇庁は初めから、そう言っているだろう。アリア・ルトゥムは聖女の力を得たが、一時的なものだった。彼らは短期戦を考えていたんだろうね。
聖女はこの世に一人だけだ。イリス・テミス以外にいない」
◇◆◇
結局、誰も明確な答えを持ち合わせていませんでした。けれどぼんやりと察するに、わたしではない誰かがわたしとして生きて、わたしの知る世界を、わたしの知らない世界に、してしまったのだと思いました。
お兄様とお父様とお母様は、一日中わたしの側にいて、わたしと過ごした思い出を教えてくれました。身に覚えがないもの、ばかりでした。戦場に出て兵を率いて戦ったことなんて、わたしにはなかったのですから。それに、ディミトリオスお兄様がセオドア様の息子だったなんて、わたしはちっとも知りませんでした。
夜になって、お兄様は言いました。
「今日は、僕の部屋でお休み。僕はソファーで眠るから」
お兄様はわたしの髪を撫で、頬にキスをして、抱きしめてくれました。
温かなお兄様の体を抱きしめ返しました。
心臓がどきどきしていました。わたしはどんなことをされたって、何があったって、ディミトリオスお兄様のことが大好きです。彼と一緒に生きていけたら、どんなに幸せだろうと、いつだって夢想していたのです。
彼と血の繋がりはないことは知っていました。彼がテミス家に来た日のことを、はっきりと覚えているのですから。
「イリスは、何も心配しなくていいんだ。僕が守る。僕が、助ける。何があっても、必ず」
わたしはすでに幸せです。
一体、何から守って、助けてくれるというのでしょうか?
ふいに鏡と目が合いました。そこには、わたしの知るわたしより、ほんの少しだけ強い表情の女の子が写っています。
――あなたは、誰?
心の中でそう問いかけると、彼女は微かに笑いました。
耳には、優しい誰かの声が蘇りました。
目を開ける直前でした。その声が、わたしの頭の中に響いていました。だからわたしも安心して、目を開くことができたのです。
ねえイリス、と彼女は何度も呼びかけてくれました。
何も心配しなくていいのだと、彼女は言ってくれました。
ようやくわたしを幸せにできたのだと、そうも言ってくれました。
そうして最後に、温かな声で、柔らかな口調で、確かに、こう、言ってくれたのです。
この世界は、イリス、今度はあなたの味方だから――と。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
第三章はこれで終わりになります。
敵味方入り乱れての総当たり戦みたいな物語が書きたくて書いた本作ですが、ここで争乱編は終わりになります。(残念)
第四章を投稿するまでに、またお時間をいただければと思います。一応、次が最終章の予定です。
ルシオの生死について迷いすぎて禿げそうだったのですが、(死なせておいた方がストーリー的に美しいのではないかと書き直そうか迷っていました)生きたままお話を進めていこうと思います。
全体の構成としては、
第一章 イリスの中にいる「とある彼女」がメイン
第二章 ディミトリオスがメイン
第三章 オーランドがメイン
第四章 本物のイリスがメイン
の予定で考えていました。予定通りにすると思います。
ちなみに余談ですが、作者はニコラ・テスラという名前がとてもお気に入りでございまして、イリス・テミスの名付けも少し寄せてみました。
では、引き続き第四章もお楽しみいただけると嬉しいです。
感想もいただけると嬉しいです。




