二人きりの幸福
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王の部屋は広い。一番奥に寝室が、その手前に書斎が、さらに手前に応接間が、そのさらに手前に家臣たちが控える間が、その間の向こうには、長い廊下があった。わたしが入ったことがあるのは書斎までだったけど、昨日の夜は最深部まで入ってしまった。
早朝、ディマを起こさないようにして、ベッドを抜け出し応接間までやって来た。
窓の側まで寄って、外を眺めた。空は白み始めていた。遠くに煙が見えるのは、既に起き出した市民の生活の証だろうか。
ふいに昨日のことを思い出して、顔が熱くなるのを感じた。
「馬鹿ね、イリスったら本当に世間知らずなんだから。動揺することなんてないでしょ? 恋人だったら普通のことよ。こんなに初心で、よく前世で男に騙されなかったものだわ」
ぶつぶつと独り言を呟いていた時だ。
「イリス!」
起きたらしいディマに名を呼ばれ、振り返る前に背後からきつく抱きしめられた。彼の顔には焦りが浮かぶ。
「良かった……! 起きたらいないから、いなくなってしまったかと思った」
体にガウンだけ身に纏った姿で、ディマはそこにいた。わたしもたいがい、似たような格好だったけど。
「いなくなんてならないわ。なぜ?」
「僕に嫌気が差したのかと」
「どうして?」
ディマは答える。
「僕が、あまりにも不甲斐ないから」
まだわたしの体を強く抱きしめながら、ディマは言う。
「昨日だって、イリスに無理をさせた。結局、僕は自分が、抑えられなかった……」
ようやく振り返ると、何がそれほど苦しいのか、苦悶に満ちた顔のディマがいた。思わず眉をひそめた。別に無理強いをされたわけでもないのに。
「そんなに弱気で、よく反乱なんて成功できたものだわ」
「イリスのことになると、全然だめなんだ、僕は……。余裕なんて無くなるし、嫉妬深くなるし、独占欲の塊みたいになるし、理性がなくなる。そもそも感情がわけわかんなくなるんだ。
イリスを誰にも見せたくない。だって皆の聖女じゃなくて、僕だけの女の子だ。本当だったら僕の側に縛り付けて、どこにも出したくない。ずっと僕のものにしたい」
あまりにも真剣なディマの顔に、おかしくなって、わたしは吹き出す。
そんなに思い詰めなくたっていいのに。
「そんなことしなくたって、わたし、どこにも行かないわ。嫌気が差すなんてあり得ない。だって日に日に、恋に落ちていくみたいなんだもん」
わたしも彼の体を抱きしめ返す。ディマは猫のようにわたしの頭に顔を擦り付けた。
「前にお母様に、イリスと手を繋いだり、頬にキスをしたりすることを禁止されたな」
「そうなの? 全然、知らなかった」
……もうそれ以上、してしまった。けれど今はお母様だって、何も言ってこないだろう。
「密約も交わした。すべて終わったら、イリスを僕にくださいって。お母様は納得してたよ――多分」
ディマは少し得意げに言う。それも全然、知らなかった。
青空が続く、晴れやかな日だった。穏やかな表情をしているディマに、わたしは言った。
「ねえディマ。わたしね、あなたの、お母さんについて、考えたの。こんなこと言ったら、あなたは怒るかもしれないんだけど――」
「怒らないよ」ディマは微笑む。
「カミラ様がディマを殺すつもりだったなら、先にそうすれば良かったんだと思うの。心中だったらその方が簡単だわ。だからわたし、彼女はきっとあなたに選択肢をあげようとしたかったんだと思うの。暗い選択には違いないけど、生きて欲しいって、一方では思っていたはずよ。だってお父様か来る日を、彼女は知っていたんでしょう? 自分が死んで、ディマが生きていたら、お父様なら助けてくれるって、信じたに違いないわ」
しばらくの無言があった。やがて髪の毛に、何度もキスが落ちてから、震える声で、ディマは言った。
「イリスに出会えて、本当に良かったって、今、また思ったよ。君が僕の運命だ」
それからディマは、わたしの頭の上に顎を乗せたまま、窓の外を見たようだ。朝日が街を照らしていた。
「綺麗な街だ。ローザリア帝都は、美しいな」
眩しそうに、彼は目を細める。
「……ミアは、死の間際、僕に希望を託した。
以来、ずっと考えてるんだ。未来永劫続くローザリアを、どう形作ったらいいんだろう。誰もが平等で自由で幸福な国。そんな国、本当に実現できるんだろうか。……だけど僕は作らなくてはならない。それが皆との約束だから」
ディマに体を預けながら、わたしは言った。
「わたし達で、一緒に作ろう。皆、味方になってくれるわ。わたしだって、ずっとディマの側を離れないから」
「当然だ。イリスがどこか遠くに離れたって、全力で探し出して、捕まえるさ」
ディマは笑って、わたしの顎を上げると、蕩けるような口付けをした。
顔を離した後、彼の吐息が漏れ、わたしの顔にかかる。
「予定、中止にして、ずっとこうしていようかな」
「だめよ。皆が待っているのよ? 皇帝陛下、しっかりして」
両手でディマの顔を挟むと、ディマは声を上げて笑った。
「じゃあ、また夕食後に部屋に来て。それか、僕がイリスの部屋に行く。また一緒に過ごそう」
名残惜しそうに、ディマが最後のキスをした。
わたしと彼は、今までで一番幸福だった。たった二人の世界で、たった二人の時間を過ごすことができたんだから。
心の中のイリスが、微かに声を上げたような気がした。
それは彼女の、喜びの声のように思えた。




