彼は目を開いた
外はすでに、夕闇を超えていた。薄暗い夜の中、ディミトリオスが、兵らの先頭に立っていた。その隣には――求め、焦がれ、そうして激しく憎んだ、美しい少女が佇んでいた。
彼女の瞳が、オーランドを見つめ、微かに潤み、揺れたのを見た。それだけで、一人で抱えきるには、あまりに途方のない情念が、オーランドの中に巻き起こる。
二人を前にして、何もかも持っているオーランドが、抱くにはあまりに滑稽な――強烈な恐怖と、目も眩むほどの憧れが、胸を締め付けた。
オーランドは、会ったその日から、ディミトリオスに憧れていた。だがそれも、過去のことだ。決着をつけなくてはならない。
城に残っていた数少ない貴族達も、脱兎のごとく逃げ出した。残っているのは、それでもオーランドに付き従う者と、母くらいなものだった。
どこまでも対比だな、と冷静にオーランドは考えた。
「オーランド、城を、明け渡してくれないか」
彼の声色に、こちらに対する威圧はなかった。むしろ穏やかな声色だ。
だがディミトリオスに対し、オーランドは剣を抜いた。こちらの負けは決まったようなものだ。しかしただで城を渡すつもりは、毛頭ない。
「決闘だ、ディミトリオス。この私と戦い、勝ったならば、好きにするがいい」
もしも立場が逆だったなら、オーランドは決してこの勝負を受けなかっただろう。戦うなど馬鹿げたことだと一笑し、家臣にディミトリオスを捕らえさせ、終えたはずだ。
しかしディミトリオスは、そうしなかった。
「……ああ。分かった」
彼は右手で剣を抜き、義手の左手を柄に重ねた。
「やる必要はない。余計な真似はよせよディマ」
ディミトリオスの側にいたルシオ・フォルセティが、かける声が聞こえた。
「手出し無用。僕と彼の勝負だ」
そう、答える声もまた、聞こえていた。
二人を取り囲むように、兵士の輪ができあがる。勝っても負けても、オーランドは死ぬのだろう。
夜の闇の中を、魔法で作り上げられた光と松明の炎が照らす。オーランドは、ディミトリオスを直視した。
なんと美しい人間だろうと思う。
端正な外見だけではない。鍛えられた体も、傷ついた左腕も、日に焼けた肌も、その体に宿る魂の熱も――全てが全て、完璧だ。だが何より美しいのは、彼の持つ黄金の瞳だった。
まるで彼の生きる全ての力が、その瞳に宿っているかとさえ思えるほどの、恐ろしい、瞳だった。その目が、真摯にオーランドを貫く。いつか怒りが宿っていたその目は、今にあっては凪いだ海面のように穏やかだった。
「行くぞディミトリオス!」
オーランドは、彼に斬り掛かった。
金属が打ち合う甲高い音が、城の壁に反響した。オーランドはディミトリオスに向かい叫ぶ。
「魔法を使えディミトリオス! 情けのつもりか!」
剣を受けながら、ディミトリオスは答えた。
「僕は君と対等でいたい!」
「それが既に見下しているというのが、分からんのか!」
オーランドは、さらに打ち込んだ。
「貴様のその達観した、人を見下したような態度が実に気に入らなかった! 今こそ這いつくばり、犬の糞でも舐めてみせろ! 魔法を使え! つけあがるな、妾の子風情が! 片腕では碌な魔法は練れないか?」
「くそ……! そんなに言うなら使ってやる!」
二人の間に、小さな魔法陣が生じ、爆発する。オーランドの頬と手を裂き、血が流れる。
だがディミトリオスの本気を知っている。彼が本気だったなら、この一瞬でオーランドは死んでいたはずだ。だからこそ腹立たしい。
「それが本気のつもりか! どこまで私を馬鹿にするつもりだ!」
母も、ルカも、貴族も司祭も、イリスもディミトリオスも、そうしてオーランド自身さえも、オーランドを嘲り笑う。――お前に彼に勝るところなど、一つもないのだと。
(そんなことは、とうに承知の上だ!)
どれほどの努力を、ディミトリオスは積んできたのだろう。それは一途な愛ゆえか。あるいは生まれた星の運命なのか。
オーランドは剣の腕に自信があった。だがそれさえも、戦場で実践を積んだディミトリオスには敵わない。
魔法など、ディミトリオスは使う必要はないのだ。彼は既に、剣術でさえ、オーランドを上回っていた。
やがてディミトリオスの重すぎる一撃に、オーランドの剣が弾き飛んだ。
衝撃によろめき石畳に躓いて地面に倒れる。
完膚なきまでに、オーランドは叩きのめされた。起き上がる気力も体力も、もう残っていなかった。
本当は、分かっていたのだ。
そうだ。分かっていた。力で抑え付け支配しなくては、帝国の頂点に居続けることなどできない。それが己の限界なのだと。皇帝の器になど、はじめからなり得なかった。
ディミトリオスが剣を握り、近づいてくる気配がした。その気配に向け、オーランドは語りかける。
「私を愚かだと笑うか。それとも憎いとなじるか。
本当は、痛いというほどに、分かっていた。皇帝という地位以外に、己に価値などないということに。聖女を得えなければ、凡庸の中の凡庸な王であるということにも、気づいていたのだ」
魔法も使えぬ、皇帝家でもないこの身に、価値などなにも宿らない。
微かな笑いが込み上げた。馬鹿げたことだと、思えてならなかった。
「イリス自身を、愛したのではない。彼女が聖女であるから、愛したのだ――」
始まりは、そうだった。たとえ今は離れがたく思っていても、始まりはそうだったのだ。
初めから彼女自身を愛していたディミトリオスに、やはり敵うはずもない。
「殺せ」
違和感は、あったのだ。
オーランドと周囲を断絶するかのような、ルカという存在に。自分の望みさえ分からぬこの心に。何一つ、自分では決められない状況に。伏しがちな母に。この身が父に、少しも似ていないことに。
いつか全て氷解した時、必死に築き上げた砂の像もまた、溶けて跡形もなく消えるのだと、心の底ではいつも怯えながら生きてきていた。
だがもう、その必要はない。
全ての秘密は暴露され、帝国中が知ることになった。己は誇りもなく、ただ地に横たわっている。これが本来の自分の姿なのだと、オーランドは理解した。
「殺してくれ」
懇願に、ディミトリオスは黙っている。
オーランドは両手で顔を覆った。涙が溢れる。この命の意味はなんであったのだろうか。リオンテール家発展の為だけに存在していた、無価値な命だった。
これ以上の苦しみから、一切解放されたかった。
「頼む、ディミトリオス、私を、殺してくれ……!」
ディミトリオスが、剣を握る手に力を込めたのが分かった。
だが次の瞬間、彼は剣を鞘に収める。
オーランドは、信じられない思いで彼を見た。
ディミトリオスは、オーランドが横たわる地面に、膝を付いた。
「僕は君が憎かった。君が、ずっと嫌いだった。君さえいなければと、何度もそう考えた」
大勢いるはずの兵等は、主君の言葉を静寂と共に見守っていた。オーランドは、ディミトリオスが、なぜ語りかけてくるのか分からなかった。
「だが、ヘルを訪れ、スタンダリアと友好を結び、人々に希望を与えた君は、紛れもなく、皇帝だった。強く輝きに溢れた、美しい人だった。
君は、愛し合った人間たちから生まれた、愛を知る人間だ。僕はそれが心底羨ましかった。君の笑顔には陰りがない。君は、闇には呑まれない。
今、君は死を覚悟して、僕の前にやってきた。君は勇敢で、真心がある。僕は、それにはっきりと気が付いた。僕は君の気高さに、最大限の敬意を払う。
……多くの人が、僕に希望を託してくれた。中には、二度と戻らない人もいる。そうなって、僕はようやく理解した。僕は、間違っていたのだと思う。君に陰を与えたのは僕だ。君の苦しみは、君のせいじゃないんだ」
呆然とするオーランドに対し、ディミトリオスは手を引き、半身を起き上がらせ、頭を下げた。
「……君を今まで苦しめたこと、すまなかった。心から今、謝罪する」
畏怖し、脅威に思い、同時に強く憧れたその感情が、決して間違ったものではないと、ようやく分かった。
「君が許してくれるなら、僕と共に生きてほしい。これからのローザリアには、君の力が必要だ」
近づけば、その灼熱の光にたちまち身を焼かれると気付きながらなお、光が見たい。照らされることを望んでしまう。それこそが帝王だ。絶対的主君なのだ。
(なんという、ことだ……。一体、なんだと言うのだ)
オーランドは、起き上がったまま位置を変え、ディミトリオスの前に、震えながら頭を下げた。
体が震えるのは、恐怖故ではなかった。腹の底から無限に湧き上がる圧倒的歓喜が、震えとなって現れた。
運命は、片方に見下させ、片方に片膝を付かせる。
オーランドは、更に深く、頭を下げ、言った。
「真の王たるディミトリオス様。我が生涯を、あなたに捧げます。私はあなたのものです」




