あなたが聖女であるならば
アリアはルカから受け取った水晶を削り、粉にし、水と一緒に体に入れた。
瞬間、体の痛みを覚え、激しく咳き込んだ。咳にまじり、血が出ている。ハンカチで拭った。
「イリスもこんな苦しみを味わったのかしら――」
まさかね、と思い笑った。
彼女は天然だ、アリアとは異なる。
「お姉ちゃん、大丈夫……?」
側にやってきたライラが、テーブルに置かれた血の付いたハンカチを見て、心配そうに尋ねた。
アリアの侍女は多くいるが、いつも側に置くのはライラだけで、このときも彼女だけが部屋にいた。
「お姉ちゃん、もういいよ。家に帰ろうよ……。このままじゃ、死んじゃうよお」
スカートをぎゅっと握りながら言う妹を、諭すようにアリアは言った。
「貧乏に戻りたい? せっかく掴めた二度とないこの機会を、利用しなきゃだめよ。ルカ様はわたしに期待してくださっている。わたしが皇妃になれるのよ。ライラ、あなたにだって貴族の結婚相手を見つけてあげられる。あんな生活には戻らせない。もう、誰にもあなたを傷つけさせないから」
「そんなの、いらない」
ライラは目を真っ赤にしてアリアにすがりついた。
「貧乏でもいい! 前の方がいい! お姉ちゃんと二人なら、それだけでライラは幸せだもん! お姉ちゃんが死んじゃう方が嫌だ!」
しかしアリアはライラを振り払う。
「ライラ、あなたは子供だから! 何も知らないからそんな無神経で能天気なことが言えるのよ! 女二人で、このローザリアを幸せに生きていけるはずがないでしょう!」
よろけたライラは、椅子の足に頭をぶつけ、呆然とした表情をアリアに向けた。彼女の額は切れ、血を流す。
瞬間、アリアの熱は失せた。父親はいつも娘二人を殴った。アリアとライラは、毎日傷だらけで、いつだって聖女様に、この生活から抜け出せるようにと祈っていた。だが聖女は救ってくれなかった。救ったのは、ルカだった。
しかしこれでは、アリアはあの大嫌いな父と同じだ。
「ライラ……! ごめんね、そんなつもりじゃなかったのよ……」
妹と同じ目線に座り込むと、手を当て傷を治してやる。
そうしてそのまま、髪を撫でた。ライラの母は、アリアの母とは違う。美しい絹のようなライラの髪は、彼女の母親譲りのものだ。童話に出てくるお姫様みたいだと、アリアは妹の髪を見る度に思っていた。
「もう少しで終わるから。わたしが皇妃になれば、それで終わるから――」
「大変申し訳ないですが、入ってもよろしいでしょうか。予定が立て込んでいてね、あまり時間がありません」
声が聞こえ、驚いてそちらを見ると、開かれた扉の先に、クロード・ヴァリ聖密卿が立っていた。司祭服を隙無く着込み、泣きながら抱き合う姉妹を見ても、微笑みを崩さない。
アリアは立ち上がると、机の上の水晶を手に握り、そのまま袖の中に隠した。
「ヴァリ聖密卿、お約束がありましたか?」
「いいえ、あなたの妹君に呼ばれまして。姉の体調が優れないから、診て欲しいと」
余計なことをと思ったが、ライラを咎める気にはなれなかった。この世で唯一、純粋な人間がいるとしたら、ライラなのだから。姉を心底心配し、聖女のことをよく知る彼に、頼んだだけだ。
「座って。質問を二、三、するだけですよ」
ライラを外へ行かせた後で、促されるまま、アリアは椅子に腰掛けた。テーブルを挟みもう一方の椅子に、ヴァリは座り、尋ねた。
「闇の魔術と言われるものを使ったことはありますか?」
「はい、少しは……」
「魔力の強さは生まれつきですか? それとも後天的なもの?」
「生まれつきです」
嘘だった。
ヴァリは、テーブルの上のハンカチに目を向けた。
「血を吐くのはいつから? 継続的なものですか。頻度はどれくらい?」
「今日だけです。口の中を切ってしまって」
当然、嘘だ。
「あなたの妹さんは、そうは言っていませんでしたが」
「あのくらいの年の子は大人の気を引きたくて、大袈裟に言うものですよ」
そう、と言ってヴァリは立ち上がった。
「あなたが問題ないと言うのなら、私にできることはありません。これ以上お時間をいただくのも申し訳ない。
真の聖女であれば、闇の魔術を使ったくらいで影響はない。……だがそうでないなら、このままの生活を続けると、あなたの体は、年内も持たない」
「そうでないならって、どういう意味です?」
「『汝、策略することなかれ』――聖典二百十一編第七節にもそう記しています。どの道聖女は一人しかいません。
大丈夫。あなたが真の聖女であるならば、何も問題ありません」
彼は、勘づいているに違いない。
アリアは探るようにその目を見たが、深い青い瞳からは、どんな感情も読み取れない。
魅了――服従――闇の魔術を気付かれないように放とうとしたが、彼の体に届く前に、魔法陣が出現し、ばちりと弾かれた。
眉を下げ、ヴァリは穏やかに言う。
「私は案外臆病者で、そういった類の魔法は効かないように、対策済みです。聞きたいことがあるならぜひ直接お願いします」
「……いいえ、聖密卿にもわたしの魔術が通用するのか、試したかっただけですわ」
「好奇心旺盛ですね」
ふ、と彼は息を漏らし、別のことを言った。
「ヘルから援軍が間もなく到着する。レッドガルドも兵を送るそうですね。次が最後の戦いになるでしょう。この国の行く末を、皆が固唾を飲んで見守っている」
それから、こうも言った。
「私も次は戦場に行きます。邪魔にならないように、隅にいますよ」
「なぜ、司祭であるあなたが?」
「見届けなくてはなりませんからね――」
そうつぶやく彼の口元には、初めて人間らしい感情が浮かんだように、アリアには思えた。
クロード・ヴァリが浮かべた感情。それはまさしく、愛情だった。




