天使
あの日以来、彼女は頑張っていたが、今までの自分、生活をがらりと変えることは非常に難しく、なかなか思うようにはいかなかった。
彼女にとって当たり前の日常を僕にほぼ全否定されることに納得ができず、これが本当に白くなるために必要なのかとくってかかり僕たちは何度も何度も喧嘩を繰り返し、その度に激しく言い合った。
僕はただ彼女に白くなってほしい一心だったのだが、あれこれ言うのは僕のエゴだと思ったようで僕を変人の束縛男呼ばわりするようになっていった。
我が強くてプライドの高い彼女にとって白くなるための今の生活は自由を感じることがまったくできないようで、「私は人形じゃない!」が口癖になっていった。
そうまで言うくせに僕との付き合いも、自分を変えることもやめるとだけは言わなかった。この頃の彼女はどちらかというと自分を変えたい気持ちよりも僕との愛を失わないために頑張っているように見えた。自分が変わらないと僕たちの関係が終わることを彼女はわかっていた。まあ、それでも何度となく折れそうにはなっただろうが・・・。
彼女が精神的に追い詰められていっていたのは僕にもよくわかっていた。この頃から彼女は仕事に行く日数が減っていき、ついには辞めてしまった。医者に診てもらったわけではないが、おそらく“うつ”になっていた。
仕事を辞めて一日中家にいても、ろくに食事も摂らず寝てばかりで、僕と喧嘩したり嫌なことがあるとこれまた食事をとらない。元々体が細いのだが日を追うごとにガリガリになっていった。何をするにも気力が湧かないようで、まるで抜け殻のようだった・・・。
そんなある日、いつものように彼女に生理がきた。しかし何かがおかしかった。いつも生理痛がひどいようで「お腹が痛い」だの「腰が痛い」だの言うのだが、今回は横になっていても痛みがかなりひどいらしく、いつもの生理の出血とは違った血の塊があった。
そこで産婦人科に電話し相談してみると「おそらく流産でしょう」と言われた。
このまま何の処置をしなくても自然に流れてしまうし、病院に連れてきてはっきりと「流産です」と言われると彼女も傷つくから、むしろ連れてこないほうがいいとも言われた。
実際に流産だと気付かず生理がきたと思う人も少なくはないのだそうだ。僕は彼女に電話の内容を全て話した。ところが彼女は自分が妊娠していたことが信じられないようで、あまりショックは受けていないようだった。
そこで僕は本当に彼女のお腹に天使が来ていたのかを見に行ってみた。しかし正直なところ怖かった。前の彼女のお腹に来ていた天使と同じ子だったら彼女に悪いと思ったからだ。
恐る恐る見てみると、そこには天国に帰ろうとしている真っ白な光に包まれた天使がいた。
彼女のお腹に来ていた天使だった。
僕が心配していた前の彼女の元に来ていた天使とは違った。なぜ行ってしまうのか聞いてみると、まだその時ではなかったとだけ答え、天国へと帰ってしまった。
まだ彼女が未熟だということなのだろう。しかし、帰ってしまったといえども来てくれたということはそれだけ彼女が変わろうと努力していることが認められたということなのだと思う。このままがんばり続ければ、あの天使はまた僕たちの下に来てくれるだろう。そう気持ちを切り替え、改めて天使を待つことにした。
ところが、その後も彼女の生活態度が変わることはなく、とても天使を迎え入れたいようには見えなかった。相変わらず食事はまともに摂らないし、寝るのも朝方。昼近くまで寝て一日中テレビを見ているかゲームをしているかの生活だった。
そんなある日の深夜、突然彼女が子供の声がすると言い出した。僕にはその声がまったく聞こえなかったのだが、何度も「ほら、また聞こえる。」と言う。なんと言っているのかは聞き取れないようだが、超がつくほどの恐がりのため、すっかり怯えきってしまった。
家の中には結界が張ってあって霊が入ることは不可能なのだが、白い者は入ってこられる。彼女にしか聞こえない子供の声は天国に帰ってしまった天使の声だと僕は思う。彼女に自分がお腹に入れる身体になってほしかったのだろう。
だが、そんなことがあってもあまり彼女の生活は変わらなかった。変わったところといえば基礎体温を付け始めたことぐらいだろう。その後も妊娠することなく数ヶ月が過ぎ、産婦人科で基礎体温表を見てもらうことにした。すると排卵されていないと言われた。彼女は半分死人なのだからそう言われても不思議ではなかった。
しかし、医者にはっきりと言われてしまった彼女の落ち込みようはすごかった。彼女自身今だに自分が死ぬ人間だったことを信じきれていないし、子供だって望めば天使じゃなくたって普通の子が出来るものだと思っていた。だが、ここにきて普通の子は無理なのだとようやくわかったようで、真剣に天使の子を作る気になったようだ。
それから数ヶ月後、彼女はようやく妊娠した。元々黒寄りの人間だった彼女が天使を身籠るまで大変な努力が必要だったのだが、本当に大変なのはこれからだ。天使の子を産ませまいとする輩がわんさかいる。また、彼女は普通に生きている人間とは違い、半分死んでいるため命を取りやすい。彼女を殺れば天使も消せる。二重に狙われるということだ。俺は改めて彼女に天使をこの世に出すことの難しさと危険さを教えた。
よく事件の報道で「なぜあんなことをしたのか、わからない」や「覚えていない」などという犯人がいるが、全てが嘘ですっとぼけているとは限らない。僕たちはこの人間世界で力を使うことができない。しかし、人間の黒い部分を利用してその人間を操り、窃盗だろうが殺人だろうが自由に動かすことはできる。
彼女と天使が殺られるとするならばその方法だ。普通に生活していて人間に出会わないで過ごすことはできない。最低限、外出を控えたとしても買物と妊婦である以上病院には行かなくてはならない。そのどちらも多くの人が集まる場だ。常時僕がそばにいられればいいのだが、仕事をしている以上そうもいかない。おまけに僕の仕事はほぼ休みがなく、勤務時間もはんぱなく長い。そのせいもあってほとんど外出させられなくなってしまい、妊婦雑誌の影響を受けまくっている彼女は、家の中に閉じこもる生活が母体にとってどれだけ悪影響なのかを毎日のように言い僕を責めたてた。
何度外は危ないと言っても、その場では「わかった」と言うのだが、また数日経つと同じことを言ってくる。この繰り返しで妊娠しても喧嘩の絶えることはなかった。
今彼女が妊娠していた頃を思い返すと彼女の泣き顔が一番に思い出される。それだけ彼女はいつも泣いていた。普通妊娠中といえばお互い幸せムード全開で、まだ男か女かわからないうちから子供の服を買ったりしてはしゃいだりするみたいだが、僕たちはそんなことは一切なかった。
金銭面も仕向けられたかのように悪くなっていき、今までの人生の中で一番最悪な時期だった。ただでさえ喧嘩が絶えないのに金の問題まで沸いてきて、彼女だけでなく僕自身も追い詰められていた。
本当はもっと身重の彼女を労わってやりたかったのだが、そんな余裕はまったくなかった。
この頃は本当によく「普通の人間だったら」と考えた。自分自身も苦しくてたまらないし、彼女も本当に苦しんでいた。いっそ別れられたらお互いにとってどれだけ楽なんだろうと何度も考えた。
正直僕は彼女を助けたことを後悔していた。
助けると決めたとき、それがどういうことなのか深く知らなかった。他の鬼の頭は兄貴のように決められたパートナーと一緒になることがほとんどだ。僕のようなパターンだと、今まで僕が彼女にやってきたように自分のパートナーを白い人間に育てなくてはならない。
初めは天使欲しさに白になるよう教えてきたが、天使抜きにしてもそうする必要があった。決して普通の人間ではいけないのだ。
だが、元々決められている相手ならばその必要がない。鬼の頭のパートナーは皆、白だ。黒いものには白を。白のものには黒を。必ずペアでなくてはならない。だが、彼女を見ればわかるように普通の人間はそれに耐えることができず、頭がおかしくなる率が非常に高い。この現代社会で生きている人間からすれば理解の範疇を遙かに超えていることだから無理もない。
だが、もしここで彼女が「もう無理」だと言い、白になることを諦めたとしたら、僕は責任をとらされることになる。どんなペナルティーかはここに記すことはできないが、かなり過酷なことには違いない。
彼女を助けたことがこんなにもデカイ賭けだったことを知ったのは最近だ。それに今のこの状況からして僕たちがうまくいく可能性が高いとは決して言い切れない。たとえ地獄に落とされることがわかっていても、今の苦しみようを見ているとあのまま死なせたほうが彼女にとってよかったのではないかと思えてくる。僕が助けなければこんなに泣かずに済んだはず。マイナスの考えはマイナスの気を呼ぶ。そう彼女に教えてきた僕だったが、もう限界だった。
それからは、ただでさえ仕事で一緒に過ごす時間が少ないのにさらに仕事量を増やし、なるべく彼女と顔を合わさないようにした。これ以上溝を深めたくなかったからだ。だが、そうすることでますます彼女は一人ぼっちになってしまった。
昔は数多くいた友人も過去の自分を断ち切るために縁を切らせた。彼女だけそんなことをさせるのは可哀相だから僕もそうした。二人で新たに人生をやりなおす気持ちで。彼女の両親も、ずっと僕との関係を反対したままで未だに一度も会ったことはない。子供ができてもそれは変わらなかった。
まあ、産まれる前には状況が変わることはわかっていたから心配はしていなかったが、その時点では話ができる人間がいなくてお腹の子と二人、当時の彼女はどんな思いで毎日を過ごしていたのだろう。顔を合わせる時間が減ったとはいえ、それでも会えば喧嘩の日々。大泣きする彼女の大きなお腹は締め付けられ、中にいる天使はとても苦しそうだった。そのたびに怒りや悲しみを抑えて大きく深呼吸し、「赤ちゃん苦しいからもう泣くのはやめよ」と僕は言った。
それでも泣きやまないときは無理やり仕事をつくって家を出た。お腹の子が大きくなるにつれて日々状況は悪化していた・・・。
しかし、ここで転機が訪れる。
そう、彼女の両親がついに折れ、許しを得ることができたのだ。そして金の面でも限界だったこともあり、一時彼女を実家で面倒みてもらうこととなった。それに、この時まだ彼女には打ち明けていなかったが、一つの大きな変化があった。兄貴が眠りから覚め、出てくるようになったのだ。
まあ、もともとこの身体は二人いて成り立つ身体のようだから僕にとっては不思議なことではないが、彼女にとっては大きな問題だ。もし兄貴のときに産気づいたり急変してしまったらすぐに駆けつけることができない。それもあって彼女を実家に置いておきたかった。
厄介なことに「今日は俺」「明日はお前」と僕たちの都合で入れ換えできるわけではない。全て鬼の気分で換えられる。ひどい時には五分も経たないうちに換えられたりもする。
さすがに人前で換えられることはないため、彼女もまったく気付く様子はなかった。仕事中彼女から電話がかかってきても兄貴の場合だと出ないのだが、電話に出なくても彼女は忙しいから出れないのだと解釈していた。まあ、たまには連絡がつかないことで問い詰められもしたが、せっかくあと少しで天使がでてくるのにこんなことを話して心配かけさせたくもなかったし、不安にさせたくもなかった。無事産まれるまで隠し続け、時期をみて話すことにした。




