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新垣朱里という女の子

 

「あー、先輩がトイレ覗いた♪」


 個室にいた女の子は口の端を曲げて、僕の行状を非難した。罠にかかった獲物をいたぶってやろうという魂胆が感じられる。


 年は十代中頃、黒髪、釣り目で痩せ型だ。細い肩とか繊細な手足はゲリラの血生臭さとは無縁に見える。生意気そうだがあどけないし、少し日焼けした肌は健康的だ。紺色のスクール水着は肌に食い込むようにフィットしている。


「君もチェルシーの仲間?」


「そうっすよ。ああ、全部忘れてるんでしたっけ。はじめまして。仲良くしてくださいっす」


 ぞんざいに差し出された手を、僕はまだ握れない。彼女が真実を語っている保障はどこにもないのだ。


「手、汚くないんですけど。そもそも覗き魔の先輩にえり好みする権利あるんすか?」


 慌てて退散した。いかなる動機があっても女子トイレに立ち入る理由にはならないとようやく気づいた。 


 女の子は一分ほどして出てきた。なれなれしく腕をからめてくる。チェルシーとは違う野生的な匂いが香る。


「先輩、どうせ暇でしょ。手伝って欲しいことあるんだけどな」


 炎天下、僕は校舎の間を走り回る。色仕掛けにはまったわけじゃない。軽い運動のつもりだ。


「先輩! そっち行きましたよ!」


 角を曲がってきた白い毛の鶏が右往左往している。ひょいと抱え上げると大人しくなった。


 頼みごとを聞いたはいいが、鶏を捕まえるとは思わなかった。鶏小屋から逃げたらしい。


「トモゾー、良かったね。よしよし」


 鶏に笑顔で頬づりする女の子。素朴な一面に目を奪われる。


「先輩が私に見とれてる。きもーい」


「うるせ。誰なんだよ、君は」


 女の子は手のひらを僕に向けた。目と鼻の先まで近づけられると、みみずばれのような傷が飛び込んでくる。


「根性焼きっす。先輩の肺はきれいになっても、私の傷は一生消えない。忘れないでください。新垣朱里あらがきしゅり、先輩を殺す女の名前です」


 聞き覚えのない名前だ。僕はかつてこの子を傷つけ、恨みを買っている。チェルシーを殴っていたというし、自分の一面を知るたびに嫌悪感が募る。


「君はどうしてゲリラなんかに」


「おじいちゃんにサラダ油を頼んだんす」


 買い物を頼んだ話が、どうゲリラに繋がるのか検討がつかない。


「そしたら京王線の車内でサラダ油を撒いて、憲法変えないと火をつけるって言ったんです」


「はあ?」


「私も最初はそんな反応でしたよ。うちの家族、沖縄から疎開してきたんです。沖縄はアメリカに占領されちゃったから。反抗したら、捕まって思想教育受けるっていうし、じいちゃんは自分の国は自分で守れって抗議したんすよ」


 それから彼女はデモ隊と、そこに発砲する米軍の動画を見せてきた。尖閣諸島付近での中国漁船と海自の衝突から始まり、県知事選と幹事長の発言が中国の暗躍を疑わせ、米軍の艦隊が動いて緊張が高まった。


「首里城も中国人が燃やしたらしいっす」


「ソースどこだよ、それ。関東大震災の時も似たようなデマが流れただろうが。なんでこの携帯、まとめサイトしか繋がらないんだ、クソ」


 彼女の話す歴史は僕の知らない歴史だ。内戦が起きるなんて、荒唐無稽過ぎる。きっと事実の切り貼りや、フェイクニュースに違いない。


「先輩は戦わないんすか。大和男子失格っす」


「うるさい、日の丸女子。僕は撃つくらいなら撃たれる方を選ぶ」


「そう言うと思いました。ガンジー気取りのザコオスが! 村上春樹ばっかり読んでるから思考が惰弱になるんすよ」


「僕の悪口はいいが、村上春樹をバカにするな。ノーベル文学賞候補者だぞ」


「はいはい万年候補者。ベンチ温めてるんすよね。私は村上龍派っす! 半島を出よ!」


 朱里は村上龍のサイン本を出してきた。負けた。僕の騎士団長殺しはサインはおろか借り物である。ハルキストとしてふがいなし。


 校舎裏の鶏小屋に鶏を戻した。お礼代わりに卵をもらう。まだ温もりを感じた。


「普通は年寄りが暴挙に出たら、若者はクールダウンするもんだろ」


「じいちゃんの件はきっかけに過ぎません。この世は取るか取られるか。先輩のことも誰にも渡しませんから」


 嘘の歴史も正史も収奪で成り立っている。ああ、ここは現実だ。手の中の卵の重みがいやでも増した。

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