原初の火
結局、手帳の謎が解けないまま日々は過ぎていく。
学校での暮らしにも慣れてきた。衣食住は保障されているし、暴力を受ける心配も今のところはない。
彼女たちはいつまで籠城を続けるつもりだろう。後ろ髪を引かれるが、僕だっていつかここから去るつもりだ。ずっと同じ場所には留まれない。トーマスマンの魔の山のように出て行く時は必ず来る。
シャワー室の外では鈴虫が鳴いていた。ノズルの他、すのこが敷いてあるだけだが、汗を流すだけなら十分だ。
夜は僕だけ取り残されることが多い。食事はみんなで取るが、寝る場所はバラバラだ。チェルシーは屋上、春雨は保健室だとしても、朱里がどこにいるか知らない。別に知らなくていい。あいつは騒がしすぎる。
頭から冷水を浴び過ぎた。頭頂部からこめかみにかけてずきずきする。渡されたタオルで顔を拭く。
「ああ、ありがとう」
考えず礼を言ったが、僕以外の人間がいることを不思議がるべきだ。
体操服姿のチェルシーが、シャワー室の入り口にいた。戸口もなく、仕切りもないので彼女が闇に浮かんでいるように見える。
「あ、ごめん、ハルヒコ。ここにいたのね」
横顔を向けながら、チェルシーは口ごもった。僕は厚手のタオルでゆっくり下半身を覆った。会話が止まるのをなにより恐れる。無意味な会話を広げた。
「チェルシーさこんな時間まで見張り? 大変だね」
きらりと光る鉈を、彼女は見せてくれた。小さい刃だが、切先を向けられるとひやりとする。
「竹をね、切ってた。かぐや姫はいなかったよ」
「そうか……、傷害罪に問われなくてよかった」
僕たちはささやかな声で笑い合った。体を拭いている間、何度か背中に視線を感じた。急かされているのではないかと焦る。
「シャワー使う? 僕はすぐ出るから」
チェルシーは僕の背中に額を押し当てた。鼻を鳴らしている。臭うのかな。
「冷たい……、風邪引いちゃうでしょ。温かいお風呂があるから一緒に入りたいと思って、ハルヒコのこと探してたよ」
彼女の鼻息が当たってむずがゆい。話があまり耳に入らない。なんにせよ暖まれるなら、願ったりだ。僕は彼女に手を引かれるまま外に出た。
シャワー室のすぐ脇には古いプールがあって、今では魚の養殖に使われている。校舎とプールの間の狭い道を通って校舎の東側に出る。ゴミ捨て場のある空き地にドラム缶が置いてあった。
ドラム缶には幼女が首まで浸かっている。頭をお団子にして、気持ちよさそうに目を閉じていた。ドラム缶の足下はブロック塀で底上げされ、火が燃え盛っている。朱里がしゃがみ混み、空気を送りこんで温度を維持していた。
「あーっ! 先輩がエロエロな目的で女を連れ込もうとして……、げほっ」
朱里は酸欠にあえぎながらも僕を非難するのを忘れない。春雨も目を見開き、少しだけ身を乗り出した。
「婚姻前の男女が一緒に入るなど言語道断。保守の観点からも見過ごせないね」
「そうっす! 狭い蛸壺に入ってくんずほぐれずしたかったんでしょ。ヘンタイー」
僕は、いやらしい目的で風呂に入りに来たわけじゃない。大浴場を期待してたわけじゃないが、彼女たちがこうした原始的な方法に頼っているとは知らなかった。でもテクノロジーから離れた少女たちは素朴で、僕を安心させた。
僕がいろいろ考えているうちに、チェルシーが服を脱いでいた。すぽんすぽんと、躊躇がない。下着も放り出し、ドラム缶の中に潜り込んでいった。置いてけぼりをくった僕は、思わず名前を呼んだ。
「チ、チェルシー、なにを」
「だって、ハルヒコは入っちゃだめだからあたしだけにしとくよ。ふー、気持ちいい」
幼女の頭に顎を乗せ、チェルシーは至福のため息をついた。こうして僕はお役ごめんになった。別に一緒に入りたかったわけじゃない。わけじゃないけど、寂しくなとば嘘になる。
「一緒に火興しします?」
朱里と一緒に赤々としたプロメテウスを見つめる。竹筒を暗殺者ような繊細さで吹くと、生まれたままのチェルシーと幼女が同時に身震いした。
後で僕も入らせてもらった。静かな校舎の片隅で、原初のお風呂に浸かっていると、全てがどうでもよくなってくる。なかなか悪くない一日だった。