第百九十五小節:彼女らしい彼女
記憶がなくなっている。
それは本人にとってどうでもいいことで空しく悲しく虚無に包まれるものであった。
それを他人にわかってもらえるはずもなくただ1人で枕を濡らしながら、声を無にして泣いている。
ある記憶はつまらなく、ただ下らない人生を送らせていて、記憶の過去は酷く引き裂かれて、ダイレクトに心臓を抉っていた。
「……もぅ……いや……」
体を蝕む記憶に後悔し、素直に謝ったアイツに後悔し、自分に後悔し、人生を後悔した。
麗奈に記憶がないのに、海翔にはあった。
海翔はエグいくらいに麗奈自身を知っていて、麗奈はつまらないくらいに海翔自信を知らなかった。
お互いがお互いを知っていたなら、それはきっと桜の花のように鮮やかな人生で、
お互いがお互いを知らなかったら、それはきっと紅葉が散るように虚しすぎる人生であったのだろう。
麗奈も海翔も、春と秋の間でさ迷い、
時に夏のように激しく、
時に冬のように優しく、
四季の循環を無視して流れていた。
「……なんで、……なんで1人なの……」
その現実自身、麗奈にとっては残酷なほど足に釘を打ち付けていた。
ピピピピ……
ピピピピ……
ピピピピ……
麗奈は布団からゆっくりと腕を伸ばし、鳴り始めた目覚ましを止めた。
そして起き上がり、布団から出る。
カーテンの奥は暗く、目覚まし時計の針は4時を少し過ぎて指していた。
「……行かなきゃ」
パジャマの袖で両目を擦り、着替え始めた。
毎日のことで、寒い家でただ1人家事をこなし、ただ1人で暮らし、温もりなんてものは皆無だった。
しかし、その温もりは記憶の片隅にほのかに存在していた。
温もりを知っていていて、なお、この生きた感覚のない家に居続ける麗奈。
理由なんて誰にも言ったこと無かったはずだった。
着替え終わり暗闇の世界に飛び出て、自転車で走り出す。
人の気配は無く、物静かで冷ややかな風が眠気を誘う。
いつもお世話になっている新聞社の支部で束の新聞紙を受けとり、アルバイトを始める。
早朝の新聞配達。人知れずこなされるこれは、麗奈の深い闇を隠すには十分だった。
だが、その闇を拾われてしまう。
小村に。
「おはようございます」
「よぅ。毎日ご苦労さん」
最近になって毎日のように麗奈が運んでくる新聞を受け取りに、庭で体操をしている小太りの小村。
毎日渡すだけだが、この人だけに麗奈は自分のことを言ってしまった。
闇をバラされたくなかったから。
麗奈はなぜ、泣いてまで誰かにこのことを言わないで欲しいと言ったのか、記憶が無かった。
全て周り終え、新聞社に寄り一言言ってから一旦家に帰り、しわくちゃの制服に着替えて駅まで歩いていく。
いつも通りの時間、いつも通りの道のり、いつも通りの生活。
その中に麗奈にとっては異端があった。
「相変わらずおっせぇな」
そう言って麗奈の手を掴み、走り始める海翔。
麗奈にとっては異端だった。
――こんな奴は知らない――
――なんでこんなに親しんでくるの――
――なんでこんなに安心できるの――
麗奈は混乱していた。
無い記憶とある感情が全てを狂わせていた。
麗奈自身、海翔の手を握り返し、一生懸命になって走っている。
風と温もりを感じ、走る道の行く先をとらえながら、まだある嵐に身を構え、しっかり地を蹴り、暖かく笑っている。
そこに、彼女らしい彼女がいた。
まだまだ続きますよ。
2年生も後半戦!
まだまだクリスマスがある!