第百八十二小節:鰯雲
部活、海翔たちは本番前なので、合わせ中心に練習していた。
さほど変わりなく練習するが、麗奈のテンションはやけに低かった。
部活も終え、帰る。
その帰り道も、下を向いて歩く麗奈。
見るに見かねた海翔が口を開いた。
「どうしたんだよ、お前らしくない。あいつらの言ってたこと気にしてんのか?」
「別に、気にしてないわよ。けど……」
「けど?」
信号で止まってしまう。
麗奈は顔を上げて、海翔を見つめた。
海翔はそんな麗奈を見る。
「やっぱり、私って歌下手?」
泣いているような表情。
海翔は返答に困った。
「下手だよね」
「下手だったら、オレが伴奏するわけないだろ」
「ホント?」
「あぁ」
信号が変わり、歩き出す。
「でも、私、声綺麗じゃないし、」
「綺麗じゃなくても、麗奈には麗奈の良いところもある」
「え? なに?」
「なにって。例えば、元気な感じかな」
「元気?」
「あぁ、オレらが元気に演奏できたなら、聞いてる人も元気になる」
「んー。他は?」
「他? 他は……」
海翔は空を見上げた。日が落ちるのが早く、夕暮れになり始めた空。鰯雲が仲良く並んでいた。
「後は、お前が音楽が好きだからだよ」
「なにそれ」
「なにって、そのまんまだよ」
「意味わかんない」
「はぁ?」
「こっちがはぁよ。」
麗奈も空を見上げた。1番星が光っている。しかし、麗奈の瞳には、その星が写らなかった。
「私って、バカだよね」
「いきなりなんだよ」
「海翔の近くに居ちゃいけないのに」
「居ていいんだよ」
「ううん。海翔には葵がいる。私がいると、迷惑かけるし」
「迷惑なんかじゃねぇよ。それより、なんにも話してくれない方が辛い」
「ほら、迷惑じゃん」
「……まぁ、」
海翔が麗奈に口論で負けた。
「ほらね。あぁあ、葵に生まれたらよかったなぁ。可愛いし、歌も上手いし、音楽も好きだし。やっぱり海翔のど真ん中なんだよね」
サラサラと木々が揺れ始めた。風が冷たくなってきた。
「海翔ぉ、音楽好きってどういうこと」
「は?
うんー。
……。
楽しそうに歌ってるってことかな。好きなら楽しそうだし、楽しそうなら音楽に心が宿る。
クラシック音楽は歌詞がないだろ。でも娯楽だった。なぜなら、そこに心があったから。
心があったって言ってもピンとこないだろうけどさ。まぁ、簡単に言うと、1曲に1人の人生が書かれてるんだよ。言葉でもジェスチャーでも伝えられない、心の底にある感情を、多彩な音によって表現できる。
いわゆる、小説と一緒なんだよ。
音楽って、物語りなんだよ」
麗奈は首を傾げた。
「わかんない」
「だから、好きってことは楽しく歌えること」
「ふーん。
てかさぁ、やっぱり私は下手って言いたいの?」
「いつそうなった」
「いや、なんとなく。みんなから下手って言われたら、海翔も思ってんのかなぁって思ってさ」
「だから、下手だと思ったら伴奏しないって」
「いや、海翔が我慢してるのかなぁって。小村先生も、学校の子にも下手って言われてさぁ。なんか、信じられなくなってきてさぁ」
「じゃぁ、オレだけ信じろ」
「……は?」
「そんぐらいできんだろ」
「……うん……まぁ」
「だから、あんまり落ち込むなよ。お前らしくない」
「私らしくないって、昔の私を知らないから言えるのよ」
いきなりトーンが変わった。小さく、暗く、低く。海翔はその言葉を聞き取れなかった。
「なんだ?」
「……なんでもないわよ」
海翔は違和感を覚えた。
そのあと2人は最寄り駅から電車に乗り、ゆっくりと帰宅した。
冷たい風が、雨雲を呼び寄せ始めた。
きっと明日は雨だ。