第百六十八小節:本当の音楽
海翔はラウンジから、練習室に向かう。
ぼんやりとしてたらいつの間にか10時を回っていた。
約束は確りと果たさなければならないから、薫先輩の元に向かっているのだ。
練習室の扉を叩き、扉を開ける。
すると、ピアノの鮮やかな旋律が海翔を襲った。
音の波。
すぐにピアノの音は鳴り止み、「海翔君? 早く入りなさい」と中から聞こえた。
海翔はゆっくりと中にはいる。
左側にピアノがあり、その近くに薫がいた。
薫はお風呂上がりなのか、湿った髪は美しく流れ、白いフリルの寝間着姿は、お嬢様を匂わせていた。
「そこに座って」
海翔は言われるがまま、ソファに座る。
「こんな時間に男女が1つの部屋に」
「先輩、下らないこと言う暇があるなら、さっさと弾いてください」
薫は片手を口に当て、可愛らしく笑う。
「わかったわ。ちゃんと聴いてね」
薫は目をつむる。
今はなんの音も聞こえなかった。
薫の左手が動いた。
たった1音だけが心の底で鳴り響く。
ゆっくりと、ゆっくりと進む曲。
段々激しくなっていき、音符も細かくなり、そして、波のように滑らかに流れる旋律。
低く心臓を抉るような不協和音。
どんどん激しくなっていき、そのまま終わっていく。
圧倒された。開いた口が閉まらない。
正確なリズム。引き込まれていく気持ち。掴まれたまま離されることのない心。明暗。強弱。テンポ。
『本当の音楽』
その言葉が、何よりも似合うだろう。
「あぁ、疲れた」
薫は立ち上がりながら伸び、海翔に近づいて行く。
そして、海翔の隣に座り、海翔の肩に頭を乗せた。
「どうだった?」
もう眠いのか、少しだけぼやける声。
「スゴいです」
海翔はいまだに魂を取られている状態であった。
「君が誉めるなんて奇跡みたい」
薫は力を抜いた。
「先輩、頭退かして下さい」
さすがに重くなったようで、海翔は本能的に口を動かした。
「いいじゃない。受験中の先輩のワガママぐらい、少しは聞きなさいよ」
海翔は溜め息を吐いた。
「海翔君はまだ麗奈ちゃん好き?」
突然だった。
「いいえ」
薫は少し間をおいて、
「ふーん。嘘って簡単にわかるんだよ」
意味深な言葉。
「嘘じゃありませんから」
「そう。まぁ、別にどうでもいいんだけど」
薫は急に立ち上がり、何かを思い出したかのように、
「あっ、久しぶりに、」
と言って、海翔にのしかかり、押し倒す。
刹那、唇を奪う。
そして、すぐに離れる。
「よし、エネルギー充電完了」
「先輩!」
薫は意地悪く笑いながら、海翔を見下ろす。
「ゆっとっけど、私はまだ諦めてないから。そこら辺の小娘には負けるつもりはないし」
と言い残し、部屋から出ていった。
海翔は全身の力を抜く。
「たく。なんなんだよ」
その声は防音の部屋から出ていかなかった。
薫キターー!
なんか久しぶりの登場で暴走し始めてますよ。