第二話 夫婦漫才
「おーい、浩明ー おはようっ!」
浩明に学校で声をかける人間は二人しかいない。
入学してから親しくなった幸助が気さくな笑顔とともに近づいてきた。
髪はしっかりと固められ、眉毛はきちっと整えられている。その表情には裏表のない笑顔が浮かべられていた。
「おまえ、今日の英訳やったか?」
(……多分、宿題忘れたんだろうな)
幸助のすがるような目に浩明はカバンに入った教科書の類を引き出しに入れながら、嘆息をついた。
「やったけど、どうしたんだ?」
「忘れたんだよ、悪い。貸してくれないか!」
(この前、俺が宿題を忘れた時は、確か昼飯を奢らされたんだよな)
「……焼きそばパン」
「オッケー! サンキューな!」
浩明はカバンから取り出した英語のノートを、そのまま幸助に渡した。
受け取った幸助はそれを神棚にでも飾るように持ち上げた。
「おーい、美咲ー席借りるぞ!」
「りょーかーい」
女子のグループにいた美咲が軽い調子で幸助に返事をした。
美咲が視線と親指をぐっとあげているのを見て、浩明は苦笑する。
(相変わらず、二人の仲はよさそうだな)
浩明に声をかけてくる人物は二人だけ。一人は目の前で熱心に英訳を写している幸助。
もう一人は、その彼女である美咲だけだ。
しばらく幸助がシャープペンシルを動かす音を耳にしながら、浩明は本を読んでいた。
「浩明、相変わらず字が汚いな」
「……返してもらってもいいか?」
「素晴らしい字ですなー! これどう読むんだ?」
「あー、それは――」
幸助が必死に写していたときだった。
美咲が幸助の背中に乗るように覗きこむ。
「もう、浩明―、幸助を甘やかしたらダメじゃない」
美咲がぶすっとした声をあげる。明るくはきはきとした笑顔を振りまいてる彼女は、今日も髪を後ろで軽くまとめていた。
幸助と美咲は付き合っている。二人の相変わらずの仲の良さに、苦笑する。
(前に、見せてもらったからな。おあいこだ)
「……悪い」
「うるせぇっ。美咲が見せてくれないからこうなってんだっ」
「えー、だって幸助が野島先生に指されてあたふたするところ見たかったし―」
「なんて酷い奴だっ」
(人の前でイチャイチャしないでくれ)
軽く苦笑しながら、浩明は本のページをめくった。
そんなとき、美咲が本と浩明の間に割りこむ。覗きこまれた浩明は、その整った眉にドキリとすることもなかった。
女性は苦手、だが美咲を女性として意識することはなかった。
(……邪魔だ)
「……なんだ?」
「そろそろ、高校二年生。今年は修学旅行も文化祭もあるんだし、彼女とか作ってみたいと……思わない!?」
ばんっと机をたたくようにして、目を輝かせる美咲。
(文化祭は去年もあったぞ)
「思わないな」
「えー、なんでー! 私の友人紹介するよ? 可愛い子もいるし! 浩明の趣味と同じような子も知っているよ!」
(声が大きい。オタクはあんまり、オタクだって思われたくないんだ。もう少し、トーンを落としてくれ)
美咲と幸助はクラスでも中心に近い人物だった。
そんなこともあって、浩明としてはあまり二人に趣味の話はしたくなかった。
話せばその瞬間、校内に広まる可能性があった。
「浩明、騙されるなよ。女の言うカワイイは男と違うからな」
(よく言っているな幸助は)
「そんなことないよ。それにほら。浩明も一人で寂しくない?」
(別に、一人でいて寂しいと思ったことはない、かな)
「今は、興味ない。やりたいこともあるし」
浩明はラノベ作家を目指していて、作品ができ次第、新人賞に応募していた。
それを幸助たちは知っていた。うっかり知られてしまった、というのがより正確だ。
だから、浩明がそういって話を区切ろうとすれば、それ以上二人も踏みこむことはなかった。
「はー、本当凄いよね。うちのにも見習ってもらいたいものだよ。日記始めても一日持たないし」
(それ白紙じゃないか)
「バンドでてっぺんとるっていってギター買ったのにすぐやめたし!」
(幸助は、典型的な形から入るタイプだしな……)
美咲が呆れた様子で幸助を見ていた。
幸助はというと、そんな視線気にもしていない。
「色々なことに興味を持つのはいいことなんじゃないか?」
「そうだよな浩明ー! やっぱ、親友は違うぜー!」
「甘やかすな甘やかすな」
それでも美咲は楽しそうに幸助を見ていた。
(そういう幸助だから、好きなんだろ?)
とは思っても口には出さず浩明は本を読んでいた。
「あっ、来た」
と、美咲が口を開き浩明たちの場所から教室入り口へと向かう。
「おはよー、華恋っ」
学校のアイドルである華恋だ。彼女はすっと澄ました表情で、ちらと美咲を見た。
美咲はぎゅっと華恋に抱きついていた。
「うん、おはよー。もう、朝からくっつかないでよー」
「えーいいじゃーん。寂しかったのー。そういえば、昨日の――」
華恋と美咲を中心に、教室は盛り上がっていく。
(朝、一緒に登校したんだよな)
華恋をちらと見ていた浩明は、
「おーい、浩明ー」
幸助に呼びかけられ、慌てて視線を外した。
「なんだ?」
「さっきの美咲の話じゃないけど、浩明は彼女とか作りたいって思ったことないのか?」
(……どうだろう? そりゃあ、人並みのあこがれはあるとは思う。けど、よくわからない。そもそも、俺は結構な人見知りだし、自分のやりたいこともある。……そういうの、邪魔されないのなら、いいかもとは思う。けど――)
「今は考えてないな」
「そうなのか。珍しいよな。周りの奴らなんてそりゃあもう血眼になって探してるんだぜ?」
(血眼になってるせいで、見つからないんじゃないか?)
「人それぞれじゃないか?」
浩明の言葉に、幸助は口元を緩めた。
「だよな。美咲の友達が彼氏欲しいって言ってたろ? そのとき、浩明の話を軽くして、結構相手が乗り気だったみたいなんだよ」
「俺を?」
(物好きもいるんだな。まあ、本人を見たらそんな気も失せるだろうな)
「面倒見いいじゃん! 今だって英訳写させてくれてるし」
(焼きそばパンが好きなだけだ)
「今は、いらないかな」
「あー、そうかぁ。もったいないよなぁ」
(もったいない、と思うのはおまえたちくらいだよ)
そういわれることは嫌ではなかった。
浩明は少しだけ口元を緩めてから、本に視線を戻した。
幸助が英訳の写しを終え、浩明にノートを返却するのと、美咲が戻ってきたのはほとんど同じタイミングだった。
「いやぁ、今日も華恋ちゃん分を補給できたわー」
「羨ましい限りだぜ。オレも頬ずりとかしてみてーなー」
(通報されるぞ)
「はぁ? したら浮気認定で慰謝料要求するからね」
(ノックアウトだな幸助)
「冗談だって。咲のほうが可愛い、ぜ?」
ぐっとふざけた調子で幸助が親指をたて、
「うわ、きもー」
そういいながらも、美咲もまんざらではなさそうだ。
(始まったな夫婦漫才が……誰でもいいから解放してくれ)
それから二人の惚気話を聞かされた浩明は、すっかり体力を削られてしまった。