しだれ桜の下の狐少女
うららかな春の日差しの中で、そよ風になびく、しだれ桜の花は美しかった。
卍
古のお寺に咲いた、しだれ桜の白い花が、今日も暖かな日差しの中で輝き、そよ風に揺れている。
その幹の下に眠っているのは一匹の三毛猫だ。欠伸をして、呑気に足元に転がっている。
見上げると、一面の空が、とても強く青みを帯びて、この大地を包みこんでいるようだ。
その真ん中に、白くぼんやり浮かんだ半月が見えているのも、なかなか風流な眺めである。
それにしても、このしだれ桜の花の色の美しさは、なんとも喩えようがない。
白とも桃色ともつかぬ、夢のような色合いのその花が、春の日差しに照らされ、くっきりと宙に浮かび上がる姿は、誰しも、つい見惚れてしまうほど甘美な眺めである。
その花びらの下を歩くと、目の前が、白とも桃ともつかぬ可憐な色で一杯になり、花びらが、我が身に降りそそいでくるように感じるのだから、それは、とても現のものと信じられぬほどの美しさである。
しだれ桜の下に、可愛らしい少女がひとり立っている。少女は、高校生ぐらいだろうか、黒髪ショートカットの素朴で可憐な女の子だった。実は、玉子と言って、地元の稲荷神社の狐なのだった。しかし、今日は、桜が綺麗ということで、人の姿をして、こんなところまで、遥々、山道を歩いてきたのだ。
「綺麗だなぁ。わたしみたい……」
しだれ桜に見惚れる玉子の心は穏やかだった。しかし、そこにひとり、男子高校生が歩いてきた。そして、ちょっと玉子の可愛らしい姿を見て、照れたように顔をそらした。
「君、どこの子?」
(話しかけてきた!)
玉子はびっくりしてしまって、なんとか上手いことを言おうとしたのだが、驚きのあまり、喉に言葉が引っかかって、出てこない。
「わたし、あのう、そのう……」
「うん」
「玉子っていうの」
「へえ……」
会話が終わってしまった。しばらくして、男子高校生はこのまま、別れてしまうのを残念に思ったのか、
「どこに住んでるの?」
と尋ねてきた。
「あ、あっちの方」
「あっちの方? あの神社がある方?」
「うん」
「知らなかったなぁ。そんなところに人が住んでるなんて」
「穴の中に住んでるの」
「あな?」
「なんでもない……」
玉子は、ふいふいっと黒髪のショートカットを振ると、この男子高校生が自分のことに興味をもっているらしいのは、なんとも嬉しいのだが、なんだか、もう恥ずかしてたまらない心地なのだった。
「もう、お家、帰る……」
「えっ、どうして?」
「ここにいても、することないでしょ」
「もっと一緒いてよ……」
「なんで……?」
「………」
玉子は、男子高校生が何も言わずにうつむいたので、ますます顔を赤らめて、なんと言ったら良いか分からなくなった。
「あんた……名前なんてゆうの」
「隼人……」
「ふうん、いい名前ね」
「そうかな」
本気で嬉しそうにその男子高校生が微笑んだので、玉子は、ますます顔を赤らめた。
「ねえ、一緒にそのへん、歩かない?」
隼人は、玉子のことが相当、気に入ったらしく、暖かい言葉で何度も誘った。あまりにも、その誘いが熱心だったので、玉子もだんだん、この隼人のことが好きになってきた。
「いいよ……」
「ほんと? じゃあ、あっちに行ってみようか」
玉子も、いざ、隼人と並んで歩き出した時は、ルンルンの気持ちになった。こんな幸せが舞い降りてきて、本当に良かったのかな、それもわたし、何の努力もしてないけど、と玉子は顔を赤らめつつ思った。
田んぼの間をふたりで歩く。するとたまに、美しい桜が道の端に、咲き誇っているのが見えてくる。ふたりで見る花の色は、いつもより明るかった。
「玉子ちゃんは……」
「ふん……?」
「漫画とか読む?」
「読まない……」
読めないの間違いである。
「なんか、好きな物語とかないの?」
「ふん……」
落語と怪談しか知らない。しかも、狐が出てくるような話だけ。
「落語……」
「し、渋いね……」
「ふん……」
玉子は、だんだん元気がなくなってきた。
「好きな食べものは……?」
「ふん……油揚げ」
「油揚げ?」
「あと、天ぷら……」
隼人の顔が苦笑いになるのをみて、玉子はうつむいた。なんだか、とても悲しくなってきた。
その時、隼人が言った。
「なんだか、玉子ちゃんって、狐みたいだね……」
玉子は、はっとして、隼人の顔を見た。隼人は驚いて、玉子を見つめた。
「どうしたの?」
「………」
「……なんで、泣いてるの?」
玉子はとても悲しかった。大粒の涙が頬を伝った。
「は、隼人くんは……ほ、本当の、わたしのことを知っても……」
「本当の?」
隼人の顔を見て、玉子は、その先の言葉が続かなかった。わたしの内面を知らないままの方が、この人はきっと幸せなんだわ、玉子はそう思った。
「ごっ、ごめんね……!」
玉子はそう叫ぶと、涙を拭って、思い切りよく隼人を田んぼに突き落とした。隼人のわっという驚きの声と水しぶきの音が聞こえると、玉子はたちまち、狐となって、山桜の咲いた森の中へと走っていった……。




