見えないもの。
一度男性の手を振り払おうとした女性。「何すんだよ」と捻ったりして、女性はもがきましたが、男性は決して放しませんでした。見たことのない様子の母親と男性に、女の子はぽかんとして見つめています。ひかりも瞬いて見ていました。けれどその一時の後、母親の様子が変わったのです。最初は何が起きたのか分からないようでした。目の前の女の子。目の前の男性。それらが初めて見たような驚いた表情になって。女性の顔は変わっていきました。固まっていたものが崩れていく。バットで殴られたようにはっとした顔で、女の子を見つめたのです。それから息をするのを忘れていたように一度大きく息を吸うと、「あぁ」と声を漏らしました。痛みをこらえるような顔をして、女性は一言呟きました。
「‥ごめん、香音‥」
女性はビクついた面持ちで、ぎこちなく目の前の女の子に手を伸ばします。
「ごめん‥ごめん香音‥」
女性は言います。
何度も何度も。
そうしてやっと女の子の両手を掴むと、「‥いい?」と呟くように女の子に尋ねます。女の子は暗い顔をして首を傾げました。
女性はそのまま女の子の手を引くと、そっと抱きしめます。「‥香音。もう大丈夫」
香音、と女性は抱きしめたまま呟きます。女の子は困惑した顔をしていましたが、何度も女性が名前を呟くのを聞いているうちに、穏やかな表情へと変わっていきました。
「ママ‥」
香音と呼ばれた女の子は、やがて嬉しそうに母親の腕の中で呟きました。
ずっと遠くから見ていたひかりは、ふわりと微笑みました。
そして男性を見ると、不思議そうに眺めました。
男性が一体何をしたのか。ひかりは不思議でした。当の男性は少しの間、親子を見守っていましたが、また離れるとドア口に戻ってきました。ひかりはまた勢いのままメモ帳を開くと走り書きをしました。
『あの親子に一体何をしたんですか?』
そうして男性に差し出しました。
男性はメモ帳を読むと一度ひかりの顔を見ましたが、また目を泳がせると、何も答えずにまた窓の外に目をやりました。




