声。
その後個室に入り、15分ほど聴力検査をしたけれど、結果は芳しいものではありませんでした。
『その時に聞こえた音がどういったことで、そう聞こえたのか、私としては推察のしようがないのですが‥』
先生は難しそうな表情でメモ帳に書きました。
『検査の結果からすれば、聴力には特に何の変化もありません。何とも言えませんね』
最初は真剣な顔で読んでいたひかりでしたが、やがて暗く沈んでいきました。
『そうですか‥』
翌日も、その翌日も、相変わらずひかりの耳に変化が起きることはありませんでした。けれどまた数日後、ひかりは再び逢うことになりました。
通勤の帰り。疲れて目が少しトロンとしてドア口に立っていたひかり。乗車してから二駅の頃、黒っぽいデニムを着た見覚えのある男性が開いたドアから乗車してきたのです。眠たげだった目が一気に覚めて、ひかりは男性を見ました。あの時。耳が聞こえたあの時の男性でした。ずっと見つめるひかりに気づいたのか気づいていないのか、男性は一度咳をすると、ドア口にもたれ掛かるようにしてドア窓から景色を見ました。
ひかりは出ない声をかけることも出来ず数分、男性を見つめていましたが、やがてガタンガタンという電車の振動に後押しされるようにして、男性の肩をトントンと叩きました。男性はふいとこちらを見て。ひかりは覚えたての手話を話すようにして挨拶をしました。
『こんにちは、ちょっと宜しいですか?』
けれど男性は、一瞬しかめるような顔をして、「分からない」と言いながら手を振りました。ひかりは慌てて、身につけていた鞄からメモ帳を取り出します。走り書きで、ひかりは書きました。
『この前この電車に乗った時、聞こえないはずのあなたの声が聞こえました』
そうして男性を見ます。男性は特に表情を変えませんでした。
『あなたは私に“気にするな”と言いました。知りませんか?』
再び見ると、男性は一瞬目を泳がせましたが、またすぐに窓の外に目をやりました。
『あの‥』
男性が聞いているのか、無視しているのか分からず、ひかりの肩は小さくなっていきました。