男の子。
電車の中はそれほど混んではいなかったけど、ひかりは何となくドアの近く、隅の方に立って、ドアの窓から景色を見つめていました。
トンネルや家々を通り越して、何駅か通り過ぎた頃。人の数は段々と少なくなっていました。ようやくのんびり座れるくらい長い席が空いて、ひかりはそっと席に座りました。
それから少しした頃。ひかりの知らないところで、周りの人々の視線はひかりに向けられていました。
わー…
わーん。
ひかりの隣で、小さな男の子が泣いていたのです。席の辺りを走り回って転けたのか膝を擦りむいたようでした。母親の姿はありません。
けれど、ひかりには到底聞こえない声でした。「ねぇ、あの人気づいてないのかなぁ?」
向かい側に座っている、女子高生がこそこそ喋っています。
「聞こえてないんじゃないの?」
「それって馬鹿じゃん。私だったら声かけるよ」
「本当に?」
二人の女子高生は笑います。
「ねぇあなた」
どこからか来た中年女性がひかりに声をかけました。
「ねぇ!ちょっと」
トントンとひかりの肩を叩いて、女性は呼びました。まるで音楽を聴いていたイヤホンを外すように、ひかりは驚いて中年女性を見上げました。
「何で声かけてあげないの、泣いてるでしょ?」
女性は眉を寄せて言いました。ひかりは女性の唇の形を読んで、驚いて隣の男の子を見ました。
「大丈夫よ大丈夫」中年女性は男の子の前にしゃがみこんで、傷を見ます。
ひかりはあたふたして、男の子を気遣うように顔を覗き込みます。けれど、中年女性は顔をしかめると、
「いいわよ、もう」
と言いました。
ひかりは気まずい空気を振り払うように慌てて手話をしました。すると中年女性は表情を急に固めると、両手を振ります。
「あ、いいのよいいの。あらそうだったの、ごめんなさいね」
ごめんなさい、と繰り返して言うと、中年女性は足早に席に戻って行ってしまいました。
周りの様子を確かめるように辺りを見回すと、皆口裏を合わせたようにひかりから視線を外しました。視線をくすんだ床に落とすと、ひかりは肩を落としました。こんなことはたまにあるのですが、やはり何度あっても気分のいいものではありません。
その時でした。
「気にするな」
どこからか声が聞こえたのです。
「気にしなくていい」
耳が聞こえたのは十数年ぶりでした。何が起きているのかと顔をあげてキョロキョロすると、自分の肩に誰かの手が置かれているのにひかりは気づきました。




