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人の想い。

玄関のドアを開ける前、ノブを掴んだまま、男性はひかりに言いました。

「旦那さんがもし何かするようでしたら、私のことは放っておいていいですから、構わずここから逃げてください。いいですね?」

ひかりが、おぼつかなく頷くと、男性はノブをひねりました。

開けた途端、聞こえたのは男の声でした。

カオリ、そう呼ぶ声が聞こえます。

「旦那さんですか?失礼します」

男性がそう大声で言うと、急に静かな空気が流れ、バタバタと音が聞こえました。急に立ち止まった男性に、ひかりは出ない声でどうしたんですか、と尋ねます。男性はかばうようにしてひかりを玄関口へと押しのけました。走り出てきたのは女性が言っていた通り、茶髪で耳にいくつものピアスをつけた荒っぽい男でした。

「誰だお前!」

「こんにちは、初めまして。香織さんの知り合いなんですが…」

そう言った男性でしたが、男は全く聞きませんでした。一方的に走ってくると、酒に酔っているのか勝手につまずいて床に転倒し、男性はそこをすかさず、その手を掴みました。最初は男性の腕を必死で叩いていた男でしたが、やがて驚くほど静かになり、男性が手を放す頃には一人、泣き始めました。そこでようやく、男性はひかりを振り返るとほっとしたように小さく微笑みました。

「もう…大丈夫です」

ひかりは玄関口の隅に目立たないように身を寄せていました。そうして頷きます。





「私の…想いですか?」

女性は男性に尋ねました。男性は頷きます。

「瞬君にもさきほどやったんですが、私、人の記憶やその人の想いや感情を触れた相手に伝える力があるんです」

女性は疲れ切った様子でしたが、はぁ、と言って頷きます。

「どうでしょう?あなたのこれまでの気持ち、旦那さんに思いっきりぶつけてみませんか?」


ひかりは男性が男の子の部屋で言った言葉を思い出していました。

『あなたの頭の中の声だったんですね、あの時の声は』

ひかりは帰りの電車の中で、隣の篠山に走り書きしたメモ帳をみせました。篠山は読むと、僅かに穏やかな顔をしたように見えました。

「また聞こえるといいな」

不完全な声で、ひかりは呟きました。するとその言葉を拾うように、篠山はひかりのメモ帳に同じように走り書きしました。

『ちょっと手をつないでくれませんか?』

ひかりは首を傾げました。そしてどこか嬉しげに片手を差し出します。

篠山がその手を取った時、ひかりはまたどこかに流れ落ちました。目の前に広がったのは、田舎の田んぼの風景。青空を飛ぶように田んぼの上を進み、やがて電線の上に留まります。そこにいたのは雀でした。何匹かの雀が飛んできて、電線に次々に留まります。その鳴き声もひかりは何年ぶりの声か。嬉しさが込み上げてきた頃、ひかりはまたもとの電車の中に流れ落ちました。

『雀』

ひかりは喜びのあまり言います。

『雀!雀!』

篠山はどこかくすぐったそうに、初めてひかりに素直な笑顔を見せました。


ピンポン、ピンポン。間もなく…。

アナウンスが車内を巡って、篠山はひかりの手をトントンと叩きました。

『じゃぁ今日はこれで』

メモ帳に走り書きすると、篠山は席から立ちあがります。

「また、会えますか?」

ひかりは不完全な声で、篠山に思わず言いました。篠山は一瞬驚いた顔をしましたが、やがてにこりと笑みました。

それから少し、電車はまた次の駅に到着し、ひかりは下車しました。そして、ひかりはまたあの駅員さんに会うことになりました。

『今日はどこに行かれてたんですか?』

駅員さんは尋ねてきました。ひかりはにっこりと笑いました。

『素敵な人に会ったんです』

え、と駅員さんは面食らったような顔をしました。少しだけ寂しげな、そしてどこか嬉しげな。


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