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青柳

作者: やすたね

 あたりには生臭い、不快な臭いが漂っている。腐りかけのそれの臭いだ。生理的に受け付けない臭いだ。そこに並んでいるものがものだから仕方がないといえば仕方ないのだが、見ていてそうよい心地がするものではない。

 どうせほとんどは名もない雑兵のものにお歯黒を塗っただけだろう。そうぼやきながら、鼻をつく臭いに眉をしかめて首検分をしていた一人の若武者が、ひとつの御首を持ったまま動かない一人の老翁の姿にふと足を止めた。

「大御所さま、いかがなされました?」

 そう、問いかける。それはその男自身が討ち取られた首を手にしているところなど見たこともなかったからで、しかも名のある武将のものと確認されればその御首は彼の元へと運ばれることになっているから、わざわざこんな凄惨を極める場になど来る必要もない。その困惑が若武者の言葉に表れているわけだが、問われたほうの男はその問いに答えることもなく、ただじっと自分の腕の中にある首を見つめ続けていた。

 その首はまだ二十歳を幾つか過ぎたか、という辺りの男のもので、色は白く、目鼻立ちのくっきりとした美丈夫のそれであった。なぜか、奇妙なことに口元には淡い笑みを浮かべている。――首を落とされたというのに。

 声をかけられたことになど気づきもしないのか、男はその首の髪を左の指でそっと優しく梳いた。髪が流れる。突如吹いた風にそれは乗り、辺りにはなんとも言えぬよい香りが漂った。

「見よ。これを……」

 男が嘆息をする。若武者は、一瞬それは自分にかけられた言葉なのかと考えたが、どうやら主は自分自身に語りかけたらしい。その証拠に、若武者の存在など気づいてもいないようにさらに言葉を続ける。

「武士とは、こうでありたいものよ……」

 しみじみと、静かにその首に語りかけ、名残惜しそうに彼はそっとそれをもとの場所に戻した。


 男の名を、徳川家康、という。


―――


「お帰りなさいませ」

 花も恥らうような笑みを浮べて夫を出迎えた(やや)の笑顔が、いつもと同じように微笑を浮かべている重成の顔を見て微かに曇った。その笑顔に隠しきれずに浮かんでいるのは、疲れているから、の一言では説明できない憔悴。思わず、息を呑む。

「お良。出迎えはいいとあれほどいっただろう?」

 苦笑しながら幼い子供にでもするように自分の頭を撫でる夫に、どこか違和感を覚えたのだ。それは今まで悪戯に抱いていただけの彼女の不安が、直ぐにでも現実のものとなりつつあることを物語っているのだと、良はそう思った。お城が落城するという噂は本当のことなのかもしれない。ここ最近とみに聞こえてくるようになった噂話を、彼女は口に出さずに呟く。

 良の夫は、木村重成、という。良とは三つほど年の離れた、まだ年若い武士である。色白の肌に、きりりとした眉に切れ長の一重瞼。やや厚めの唇にはいつも穏やかな笑みを絶やさないこの美丈夫の妻となったことは、良の誇りでもある。

 久しぶりに見た夫は、いつになく静かに微笑んでいた。隠し切れない憔悴を無理に引っ込めて微笑む、そんな夫の厭に穏やかな瞳はひどく静かに澄んでいた。死を覚悟したもののそれに見え、良はそっと目を伏せた。

「お良。すまないが、兜を空焚きしてはくれないか? 確か香はあるだろう?」

 何も聞くことは出来なかった。穏やかに微笑む夫の前で、良は。

 言われるがまま、ほぼ機械的に兜に香を炊き込む。

火にくべられた香木が弾け、重成の好む香の匂いが辺りに漂った。確か、良がこの家に嫁いできたときに香っていた匂いはこれだった。なれないところにきた彼女を気遣って重成が炊いたのだろう。嫁いできたのはいつのことだったかとふと思いを巡らせ、それはまだ半年も前のことではないのだと気づく。あのときはこのようになるなど考えることなどできないくらい良は幸せに包まれていて、これからも二人、それが続くと信じて疑いもしなかったのに。

 目の前を細く漂う白い煙に、思いにふけていた彼女はふと嫌な胸騒ぎを覚えた。それは不吉な何かを連想させ、揺れる白煙から良はそっと視線を逸らした。

「酒でも呑まぬか」

 隣室から響く声に良はそっと振り返る。いつも通りの微笑を浮かべた重成が、その部屋に既に酒を用意していた。

「それは放っておいても平気だろう。それよりも、こっちにきて酒の相手をしてはくれないか?」

 そんなこと、声をかけてくだされば良がやりましたのに、と小さく呟き、良は手招きする重成の傍に腰掛ける。

「肴をご用意いたしましょう」

「いや。わしはいらぬ」

 小さな盃に注いだ酒を重成の手から受け取った。良の手にそれが渡ったのを確認してから、重成がもうひとつの杯を手にした。

 家には重成とその妻である良しかいない。開け放たれた障子から見える夜空には黄金に輝く月が浮かんでいて、重成はその月を、良は重成の膝の辺りを、それぞれ眺めながらそっと盃に口をつけた。

 空になった重成の盃に、良は無言のまま新しい酒を注ぎ足す。重成がそっと微笑む。良はその笑顔からすっと視線を逸らした。その顔は重成とは反対に沈んでいる。泣くのを我慢している子供のそれのような顔だった。

 二人は暫くの間無言のまま盃を嘗めていた。盃が空になれば、良はそっと酒を注ぎ足す。重成は何も言わない。良は何も言えない。全て無言のままで、同じことを何度も何度も繰り返す。ただ不気味なほどの静寂のみが二人の間に流れた。


 その暫くの沈黙の後、重成が

「お良」

と、ただ一声妻の名を呼んだ。それは今まで聞いたことのないくらい穏やかで、とても静かな声だった。 良は答えない。俯いたまま、顔も上げない。何も言わずにそっと盃を置いた。

 重成はそんな良に構うことなく、しっかりと良を見据え、

「家に戻れ。このままここに残っても、何もいいことがない。幸い、大蔵卿局の姪、青柳といえばその見目の美しさは世に知られておる。そうでなくともそなたのような者であれば、誰も放ってはおかぬだろう。家に戻って、他のところに嫁ぎなおしたほうが――」

「重成様は、良を見捨てるおつもりですか?」

 重成の言葉を途中で遮り、良の口からポツリと言葉が零れ落ちた。蚊の鳴くような、今にも消えてしまいそうな声。重成が珍しく声を荒げる。

「良、何を言う、わしはお良のことを思って――」

「ならば、もう少し、もう少しだけお傍に置いてください。決して、重成様のお邪魔になるようなことはいたしませんから……」

 消え入るように弱弱しくなった語尾とは対照的に、良が勢いよく顔を上げる。その黒目がちの瞳は潤んでいた。今にも涙が零れ落ちてしまいそうなくらいに。

「お良……」

 重成が妻の名を呼ぶ。良が、緩やかに微笑んで見せた。その笑顔はどこか儚げで、今にも虚空に散じてしまいそうな、そんな朧げな印象を受けた。少しでも触れようものなら壊れてしまいそうだった。触れずにいればひとりでに崩れてしまいそうだった。

 もう見慣れたはずの妻の顔が神女のそれのように見え、重成はハッと息を呑む。続く言葉も見つからないまま、重成は無言で良を抱き寄せた。不意なことで体勢を持ち崩した良が、重成の腕に倒れこんできた。

 良の体からほのかに香っていた香の匂いが不意に強まった。無抵抗なまま重成に抱き寄せられた良の、腕にぶつかって落ちた盃が乾いた音を立てて床に転がる。それから零れた透明な液体が、床に広がって小さな水溜りを作った。

 重成の胸に顔を押し付けた良のさらりと揺れる黒髪を、重成はそっとその手で幼子にでもするようにゆっくりと撫でた。泣いているのか、良の細い肩が小刻みに揺れている。重成はそんな良の華奢な体を優しく抱きしめ、その耳元で小さく、すまない。ただ一言だけ囁いた。

 強く閉じられた瞼から、その長い睫毛の間から、透明な液体が一筋、すうっと流れ落ちた。


 夜が、明けた。

 重成は洗った髪に香を炊き込んでいた。昨晩良に命じて空焚きさせた兜の香りが、重成が髪に炊き込んだ香の香りと合わさってより一層強く匂う。その香りに包まれながら、重成はこれも良が準備しておいた鋏で兜の忍び緒の端を切った。これでもう二度と結び直すことはない。それは彼の覚悟の現れだった。出陣が決まってからは食事を控えていたのも、昨晩香を炊き込んだのも、全て。

「お良」

 出立の支度が整ったことを伝えようと、重成は妻を呼ぶ。城へ戻ればもう二度とここへ戻ってくることはないだろう。

しかし、返事はなかった。良はまだ床に伏しているのだ。ふとそれを思い出し、重成は少しだけ淋しげな顔をした。良のもとに寄る。良は白地に真紅の華が咲き誇った着物に身をつつんでいた。嫁入りの際に持参した着物らしかった。

 結われていない豊かな黒髪を枕に敷いて、薄く化粧を済ませた顔をその中に横たえている。真っ白な頬は陶器のようで、唇は紅で赤い。降ろされた瞼は今にもぱちりと開きそうで、よほどよい夢でも見ているのか、穏やかに微笑んでいるように見えた。

 彼女の脇にそっと腰を下ろすと、重成はそっと良の上半身を起こし、そしてその透き通るような白い額にそっと口付ける。

「さらばだ。お良」

 重成は優しく良の絹のような髪をそっと撫でた。良の固く閉じられた瞳はついに光を見せることはなく、それでも重成は、愛おしそうに良をまたもとのようにそっと仰向きに寝かせた。



「青柳とは、別れを済ませてきたのか?」


 戦の最中とは思えないほど、城の中は静かだった。それはこれから起こる何かを暗示しているかのように。

戻ってきた重成の姿を見つけたこの城の主が、彼に声をかけた。この城の主、秀頼が心を許すのは乳兄弟である重成くらいのものである。しかし、その秀頼の問いには答えず、重成はただ微かに笑みを零した。それはとても淋しげで、この上ないほど悲しげで、そしてひどく美しいものであった。

 二人の間に沈黙が流れる。それはほんの刹那だったか、あるいはとても長いものであったのかもしれない。

「ほんのわずかな間でしたが、重成は幸せでした」

 そっと呟いたその言葉は誰かに伝える為、というよりはむしろ自分自身に言い聞かせる為のような響きを含んでいた。 

 秀頼が言葉を詰まらせた。それを感じ取ってもなお、重成は微笑を絶やさなかった。

 秀頼にも妻がいる。彼の正妻はこの度の戦の敵の総大将、徳川秀忠の娘だった。口にこそ出さぬが、秀頼がこの妻を大事にしていたことを、重成はとてもよく知っている。このようなことがあって、千姫さまはどんなに心を痛めていらっしゃるでしょう――。また豊臣と徳川の戦が始まると聞いた良がそう呟いていた言葉を、重成はふと思い出していた。

 その姫の姿を今は見ることはできない。恐らく、姫を思った御母公や秀頼が、彼女を呼ばずに自室にとどめているのだろう。豊臣でも徳川でも、どちらが勝とうが彼女には悲しみが残る。あの華奢な体では支えきれないような、重いそれが。

「重成」

「なんでしょうか」

「千のこと、なのだがな」

「はい」

「徳川へ、戻そうかと思っておる」

 ぽつり、と、秀頼が呟いたその言葉に、重成がわずかに顔色を変えた。

「――何故、そのような……」

 負けを認めるということなのか。真に重成が言いたかったのはそういうことで、しかしそれを口に出すことは彼には躊躇われた。

「もしものことがあれば……と思ってな。わしはどうでもいい。ただ、母上や、子らには生き延びて欲しいと思うておる。それに――」

「……」

「わしは、これ以上千を危ない目に遭わせたくはない。悲しそうな顔も、もう見とうないのじゃ」

「殿……」

 秀頼の顔は穏やかだった。すべてを受け入れて、覚悟をした男の顔に見えた。重成には、彼になんと言うべきなのか、それがわからなかった。

「すまぬ。これから戦へ行くお主に語るようなものではなかったな。忘れてくれ」

 慌てたように少々早口になってそう言った秀頼の顔は、もういつもの彼に戻っていた。父であった太閤秀吉ではなく、御母公やその父・浅井長政によく似ているといわれる色白でふくよかな顔は、今日は青白いといったほうがいいような色をしている。重成は無言のまま、彼にそっと頭を下げた。

 やがて、御母公に呼ばれて秀頼の姿が奥へと消える。重成はそれを黙って見送った。



 予定よりも大分遅れての出陣のとき、重成は秀頼がいるはずの本丸を見上げ、

「殿。ご武運を」

と、そっと呟いてみた。その言葉は、きっともう二度と会うことはないであろう、幼い頃から仕えた自分の主に。そしてこの戦を、固唾を飲んで見守っているはずの、徳川家の姫に。 

 かざされた松明の光に、重成は鮮やかな微笑だけを残して玉造門を出た。場内の女たちは彼の出立を見送りに、先を争うようにして玉造門に参集してきたという。



 その日は、霧の濃い夜だった。

 しかし、月は明るく重成を照らす。月光の下、重成はなにかの気配を感じてそっと振り返った。

 月影の当たらない場所に、若い女が一人、重成に背を向けて佇んでいた。背を向けているわけだから、無論その顔は見えない。しかし、重成はなんの躊躇もなく、その背中に向かって最愛の妻の名を呼んだ。

 女が、振り返る。その小ぶりの唇が、ゆっくりとなにかを形取った。その声は誰の耳にも届かないのだが、しかし重成はゆっくりとその端麗な顔をやわらかく崩した。

「冬枯の柳は人の心をも春待てこそ結ひとめらせ」

 重成が低い声でそっと詠ったその歌は、初めて良にもらった歌への返歌だったもので。

 それを聞いた女は、そっと笑った。とてもうれしそうに、そして少し淋しそうに。

 女の上に、さっと月影が射す。笑みを浮かべたままの女は、その光に透けた。そのまま、女の姿は光の中に溶け込んでいった。重成だけがそこに残された。


―――


「武士はこうでありたいものだ……」

 自分自身に語るように、または周りにいる家臣全てに語り聞かせるかのように、その老翁はそっと呟く。

「生きていれば名将と称えられたであろうに……」

 家康の頬を一筋涙が伝う。若武者をはじめ、いつの間にかその場に集まっていた者たちの顔が驚愕で彩られた。

 死に際こそ美しく。重成の死はまさにその言葉通りの、武士の手本のようなものであった。家康の涙はそんな彼の若すぎる死を悼み、出てきたものだ。

 家康は重成の首をそっと元の場所に戻す。重成の首は生前と同じように、柔らかな微笑をその口元に浮かべていた。

 その場を立ち去ろうと歩を進めた家康の足が、不意に止まる。

 重成と同じ、しかしそれよりもどこか女性的なものが混ざったような香の匂いが、彼の脇を通り過ぎて行ったような気がしたのだ。

 そっと、振り返る。重成の首が、先ほどまでよりもより優しく、柔らかく、穏やかに微笑んでいるように見えた。


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[良い点] キムシゲ?! 読まねば! と、思いまして。 首塚参り済みです。 [一言] 侮られたところから、名を残した木村重成には、ずっと想いがありましたが、一遍の作品に出会えると、想いが一層です。
2014/05/25 02:34 退会済み
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