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ひみつの風船

作者: 諏訪 惠
掲載日:2026/03/01

1.

 女の子は風船が大好きでした。丸い風船は、ぽーんと放ると空に吸い込まれるように昇ってゆき、ゆるりと宙に弧を描いて降りてきます。暑い夏の日、女の子は野原で風船を放って遊んでいました。まばゆい太陽に重なると、風船は一瞬見えなくなって、やがてふわりと女の子の所へ戻ってきます。ぽーん、ぽーんと風船を放りながら、女の子はくるくる踊って笑うのでした。

 女の子にはたくさんの友だちがいました。太陽そっくりのひまわりの花も、花の蜜を集めてまわるミツバチも、樹の幹に隠れて鳴くセミも、みんな女の子の友だちです。ずっと向こうの高い山から吹く風さえも、女の子と戯れているようでした。けれどひとりで遊ぶ女の子を見て、大人みんなは首を傾げるのでした。


2.

 野原の隅に、一本のさくらんぼの木がありました。さくらんぼの木は毎年いっぱいの実をつけて、子どもたちを喜ばせます。女の子もさくらんぼが大好きでしたが、木のぼりができなかったので、いつも下から見上げるばかりでした。空の鳥はさくらんぼをくわえていきますが女の子にはくれませんし、風は吹いても赤い実を落としてはくれません。さくらんぼの木に語りかけても、答えてはくれないようでした。

 ある日、女の子はいいことを思いつきました。風船です。風船に頼んでさくらんぼの実を取ってきてもらうのです。女の子は抱えていた風船にいいました。

「あのさくらんぼの実を、ひとつだけ取ってきてちょうだい」

そしてぽーん、と風船を放ったのです。しかし風船はさくらんぼの実まで届かず、ゆっくりと降りてきてしまいました。そこで女の子はもう一度、さっきよりも高く風船を放りました。けれどやっぱり風船はさくらんぼまで届かずに、女の子の腕に戻ってきてしまうのです。何度も何度も、女の子は風船を放りました。しかしとうとう、風船がさくらんぼに届くことはありませんでした。

 女の子は悲しくなって、さくらんぼの木の下で泣いていました。それは女の子にはどうしようもないことでしたし、風船にもどうしようもないことだったのです。するとそこに通りかかった大人が、女の子にどうしたのかと尋ねました。大人は笑っていいました。

「風船でさくらんぼを?そんなことは出来っこないよ。どれ、ここで待ってなさい」

大人ははしごを持ってきて、さくらんぼの木に下に置きました。そしてすいすいとはしごを登っていき、あっという間に真っ赤なさくらんぼの実をひとつ、女の子に取ってきてくれたのです。

 女の子はびっくりして、それからますます悲しくなりました。さくらんぼを手に乗せたとたん、どうしてあんなにさくらんぼを欲しがったのかわからなくなってしまったのです。

 大人が行ってしまったあと、女の子はじっとさくらんぼを見つめていました。真っ赤に熟れた、みずみずしいさくらんぼです。欲しくてたまらなくて手を伸ばしたさくらんぼのはずでした。そしてとうとう、女の子は目をつむって、ぱくりとその実を食べたのです。それを見た野原の友だちは、みんな女の子を祝福しているようでした。


3.

 夕方になると、風が強くなりました。嵐が近付いてきています。本当はもっと遊んでいたかったのですが、早く家にお帰りなさいとみんながいうので、女の子は野原を後にしました。野原のみんなも、今日はもうそれぞれの家に帰るのでしょう。女の子は心を込めて、野原にさよならの挨拶をしました。

「大人になったら」

家の前まできた女の子は、腕に抱えていた風船にそっとひみつの話をしました。

「大人になったら、あなたとお話はできなくなるのね」

それから女の子は、暗くなった空へと風船を放りました。

 びゅうびゅう風が吹いています。ゆるりと弧を描いて戻ってくるはずの風船は、強い風にあおられて、灰色の空に吸い込まれていきました。女の子の初めての秘密は、誰に知られることもなく、高い高い空の向こうへと飛んで行ったのです。

 窓の外は嵐です。ベッドの中で女の子はひとり、あの風船の行方を考えていました。今頃はきっと山を越えて海を渡り、ずっとずっと遠くまで旅しているのでしょう。女の子には、もうそれを手にすることができないことがわかっていました。

 空にたくさんの風船が飛んでいきます。町で働く大人たちは、それを見上げて懐かしい気持ちになるのでした。


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